沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩348 その6 現代日本という視点 6

2011年09月18日 13時02分08秒 | 政治論
 興味深い事実は例えば本土の特攻隊員が散華するときには残念ながら殆ど「天皇陛下万歳」と叫ばず却って肉親の名を呼んだものの方が多かったというが一方沖縄の集団強制死ではまさしく大概「天皇陛下万歳」を叫んで自爆、集合爆死、肉親撲殺等悲惨な最後を遂げたのだった。しかも生き残った人々にあっては本心からそのことを(死ななかったことを)死んだ人たちに自責と後悔と謝罪の念において対する心情に覆われたという。特攻隊員にみられる普通の人の子の感傷と沖縄人にみられる不思議な共同体仮託の心理傾向の対比を眺めると見えてくるのは帝国の絶対天皇制さえ沖縄人にとって最後の共生乃至共死における究極の葬送曲足り得たという事実と、本土における皇民化教育が人民の深いところの心情には決して真には届いてなかったことが窺われる。単純な話、国家神道が強制した現人神の存立のためにだけある国体が民衆を把捉する如何なる効力もないことは明白であり一方沖縄において見事に実現した「マインドコントロール」は実は非常に晦渋な本質に微妙に関わっていたことを沖縄の天皇論天皇制批判にあって論じられていることを本土人は知る必要がある。何故沖縄では狂熱的な天皇憎悪の暴走がなかったのか、高々皇太子に火炎瓶を投じようとした程度の動きしかなかったか。これは中国における日本軍に対する剥き出しの復讐心が殆ど見られなかったことと実質は類似する。一方は如何に皇民化教育が帝国の国家元首を神として押し付けたとしても国の思惑とは別に琉球古来の神が消え去るわけでなく只共同体共生思想からすれば統一的に掲げられた名目「神」である天皇を日本国民として忌避する理由は全くなくむしろ「同化策」に全県挙げて必死に取り組んだ結果として「天皇制国家」の全き受容こそ真摯な民衆的有り様だった訳で、本土が純一でない心情的内包による二重生活を送ったであろう大戦中、真に共同体としての人心収斂が可能だった沖縄は「天皇陛下万歳」においてさえ「集団」で「強制」的にも「死」を選んで自足し得たという驚くべき内容が、下らない名誉回復などのたまっていた低劣な旧戦隊長どもとは一線を画す。天皇陛下のために喜んで死んでいったという神話はかくして本土人の都合の良いようにでっち上げられた。むしろ本土人なら絶対に起こり得ない「集団」での、肉親をさえ手にかけた驚くべき「自決」は、沖縄に古来からある共同体実質と「ニライカナイ」信仰が可能にした、不思議な普遍的宗教的価値を現実に生々しく顕現した行為という評価でしか語れない。そうでなければ沖縄の慶良間諸島での「集団強制死」は歴史捏造集団によって皇国美談にされて宙空に漂泊する下等な浮遊霊と同断の列に加えられてしまう。こうした戦後数次に亘る不当な弑虐的扱いは沖縄に対する侮辱であり犯罪的差別だ。(中断)


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