例えば沖縄戦についてこの現代で語るとき、それは「66年前に終結し最早遠い過去のこととなったのではないか」と誰かがいった場合、彼にとっての現代日本が、見るもの全て明らかで、素敵な未来に向かって広々と拓けている、というのが事実なら誰でも「其のとおりだ」といって拍手でもしよう。
しかし、もし過去の事跡に関し見えないはずの亡霊が其のへんを徘徊しているというのなら、ハムレットでなくとも「大地が覆い隠してさえ現れる悪業」に関して、目の当たりに凝視しようと思ったとしても格別偏執とはいえまい。
古代トロヤ遺跡は、シュリーマンの素人学者らしい想像力がその実在を証明した。我々は自身の悟性が働く限り、その好奇心の触手を意味も無く引っ込めたりはしない。そして現代においてひとりの移住者の全霊を捉えた出来事がこの沖縄戦だったという必然でさえある偶然だ。
しかも彼にとっての沖縄戦は確かに「遠い過去」のできごとだったことには今も昔も変わりはない。ただ昔は図らずも「関心がなかった」ために遠かったのであり、今はその事跡について語る人すら僅かとなり、種々の情報が折り重なって、捉え方考え方一つで右にも左にも偏頗する危険があり、その意味で「時間的に遠くなった」といえるわけだ。
まずそういう事情はどうでもよいのだが、時間も空間も相対的なものなので、沖縄にとって沖縄戦が(本土に比較しても)はるかに現代的に語られ、扱われその残滓??としての米軍基地の現代的戦争関連性が、実に頻繁に現実的即時的に問題視されるが故に、今持ってそれは現代日本の問題そのものであり、又、同じく戦争と原爆の問題は、原発事故がはからずも顕現させた諸問題から派生して、益々リアルタイムに現代人に深刻に作用している事実は、沖縄戦に限らずあの戦争全般について、いよいよ頻度を増して接近しなければならない課題が山積していることを窺わせる、ということだ。(中断)