沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩348 その8 現代日本という視点 8

2011年09月21日 09時23分15秒 | 政治論
 当然ながら国家の起こす戦争の担い手は国家によって国の民として確置された人々、我々一般民衆であるが、その戦争責任について一部の確定的戦犯を除けば殆ど言及されないということが必ずしも免罪符を交付されたということでないことを常識ある成人なら理解するものと期待する。沖縄戦は帝国が領土的野心に基づいて起こした日中戦に始まって連合国により無謀な誘導的陥穽に落ちた太平洋舞台の必敗玉砕戦役から順次急迫してきた戦線的地平の一端にすぎなかったしそれは実質的には維新以来日本同化という皇民化教育と県民挙げての運動展開によって培われた皇国の民としての人心収斂からまさに「天皇の赤子」たる国家人として軍官民共生共死精神に統制された県民が自発的にでさえある戦争協力によって確実に進行した戦闘行為であった。但し見落としてはならない事実はあらゆる悲劇の根源が全て日本軍の存在に拠っているということであり起こった悲劇は全て軍隊の所為だといっても過言ではないのだが、事実上この軍隊が一般人同様の立場にはないことを承知した上でこの日本軍の兵士たちでさえ「全て上官の命令」でした行為として論理的には一切の戦時行為を片付けることができるのである。ここで立ち止まって事の真相を煎じ詰めれば戦争責任がA級戦犯に究極し彼らの首を撥ねれば「全てなかったことに」できるなら「人間の尊厳」っていうやつはなんとも都合よく出来てる代物だということになるが、実際は多くの民が内心痛撃される個人としての戦争責任という永続する闇に苦しめられるのだと思われる。戦争というものを一種合法的な殺人行為の集積とするなら殺人行為も死体も戦争にあっては戦果であり勲章であり手柄、自慢、為遂げられた戦略の成果にほかならないが、見方を替えれば忽ち後悔と自責と罪悪感に苛まれる普通の平時の常識がよみがえる。簡単な話が「手を下した」ということがどれほどのことなのかを例えば「何故人殺しはいけないのか」という異常低年齢殺人事件の当事者たちの疑問に答える内容でどれほどの人が正確に「断罪」できるのか、という問題も含めて、とりわけて殺人行為が積極的に推進されるはずの戦争行為を吟味する必要があるのだ。国家が企画し民衆が実行する関係ではこの国事行為は容易に没個人的な従って没人間的な性質を帯び「真空地帯」が蔓延ると言われる。戦争を知らない、まして軍隊を経験しない多くの戦後世代が想像するところその異常な空気感だけは何となく理解できるが、例えば沖縄に展開している米海兵隊の訓練の様子、例えば沖縄戦で米兵の多くに見られた精神的変調、例えばベトナム帰還兵のPTSD、例えばイラク帰還兵乃至イラクアフガン駐留兵の中に見る自殺者の急増、こうした現象を目の当たりにすると当局が見て見ぬふりする、戦争の人間に作用する異常な心的亀裂が物語る戦争自体の非人間性という余りにもありきたりな真実を繰り返し語るしか方法がない我々自身に気づく。(中断)