英語をそのままカタカナ表記する最近の風潮はとどまるところを知らない。いわば現代の「英語病」と1000年以上前に起こった「漢語病」とも言うべき大変化とを比較することでカタカナ語氾濫の問題点を論じてみたい。
日本語は千数百年前に漢字を持つ中国文明の影響を受けて大きく変質して現在の漢字かな混じり文という型を獲得している。この変化は日本語が表音文字と表意文字を同時に獲得したという大事件であった。変化の内容をまとめると
1 ひらがなとカタカナ(日本語表音文字)の発明、
2 訓読み(日本語表意文字)の採用及び
3 漢語による造語法の採用である
ひらがなとカタカナは日本語で使われている音を表現するのに十分な機能を有しているし、訓読みの採用は日本語の古い形を保存するのに役に立った。日本語の原形は損なわれないで飛躍的に日本語の機能が拡大したといえる。大和言葉による造語法に加えて漢語による造語法も使えることになり日本語の造語能力も大きくなった。カタカナ語についてはかっての漢語が入ってきた時のような肯定的な評価は出来ない。カタカナ語の持つ問題点を漢語と比較すると次のような点が挙げられる。
1 カタカナ語は長くなることが多い。リストラクチャリング(再構築)では長すぎるのでリストラという短縮形が必要になる。
2 カタカナ語は表記法が一定しない。例えば motivation(動機付け)のカタカナ表記は一般にはモチベーションだが、モティヴェーション書く人がいてもおかしくない。
3 カタカナ語からは原語が推定しにくい。例えば「シラバス(授業計画)」と書いたときに英語の綴りが正しく出てくる人がどれだけいるであ
ろうか。
4 カタカナ語は通常外国人は読めない。従って外国人のための標識に使えない。カタカナ語を使っても外国人と筆談はできない。
こうみてくるとカタカナ語には混乱の原因になるものばかりで長所はなにもないように見える。
それにも係わらず、最近ではあらゆる分野で英語をカタカナ語表記したものが氾濫している。私の勤める大学の工学部でファカルティディベロップメント委員会という正式の機関がある。長たらしくて扱いにくい上に、新しい人が来るたびに説明が必要にばる。自己啓発あるいは自己評価委員会とすればこんな問題は起こらない。
以前学内で「アントレプレナー・ゼミナール」という掲示を見た。数人に意味を尋ねたがだれも分からなかった。なぜ「企業家ゼミナール」としないのか。よく使われる「ディスクロージャー」も「情報公開」でいい。他にも「フラワーアレンジメント」「ガーデニング」というカタカナ語は「いけばな」「園芸」で十分ではないか。
カタカナ語氾濫の背景には「英語の方がかっこがいい」とか「英語の方が正しい言語である」という誤った考え方があるようだ。そのためカタカナ語の使用に抵抗できない空気がひろがり、欠陥を見えにくくしているといえる。
また、日本語の中に相当する単語がないからという理由でカタカナ語を使う人がいる。しかしそれは言語の本質を理解していないといえる。対応する言葉がなければ適当な訳語を考えればいい。新しい概念がでてくれば英語でも在来の単語だけでは足りなくて新しい単語を作ったり、在来の単語に新しい意味を加えたりしている。日本語の新しい単語を造語したり、適切な日本語訳を考えることは「知的楽しみにあふれた作業」である。
日本語の表意文字と表音文字の双方を使うという特徴は日本人及び日本文化のユニークさの源泉でもある。カタカナ語が増えれば対応する日本語の単語が消えるだけでなく見るだけで意味が推測できるという日本語の特長が失われる。
日本語の中に日本人自身が分からない単語が多くなると、日本人同士の議論がかみ合わないということが起こる。これは日本人の知的水準の低下をもたらしかねない。カタカナ語の氾濫は日本人と日本文化にとって混乱と災難を意味するのではないか。
朝日新聞「論壇」平成12年3月7日
日本語は千数百年前に漢字を持つ中国文明の影響を受けて大きく変質して現在の漢字かな混じり文という型を獲得している。この変化は日本語が表音文字と表意文字を同時に獲得したという大事件であった。変化の内容をまとめると
1 ひらがなとカタカナ(日本語表音文字)の発明、
2 訓読み(日本語表意文字)の採用及び
3 漢語による造語法の採用である
ひらがなとカタカナは日本語で使われている音を表現するのに十分な機能を有しているし、訓読みの採用は日本語の古い形を保存するのに役に立った。日本語の原形は損なわれないで飛躍的に日本語の機能が拡大したといえる。大和言葉による造語法に加えて漢語による造語法も使えることになり日本語の造語能力も大きくなった。カタカナ語についてはかっての漢語が入ってきた時のような肯定的な評価は出来ない。カタカナ語の持つ問題点を漢語と比較すると次のような点が挙げられる。
1 カタカナ語は長くなることが多い。リストラクチャリング(再構築)では長すぎるのでリストラという短縮形が必要になる。
2 カタカナ語は表記法が一定しない。例えば motivation(動機付け)のカタカナ表記は一般にはモチベーションだが、モティヴェーション書く人がいてもおかしくない。
3 カタカナ語からは原語が推定しにくい。例えば「シラバス(授業計画)」と書いたときに英語の綴りが正しく出てくる人がどれだけいるであ
ろうか。
4 カタカナ語は通常外国人は読めない。従って外国人のための標識に使えない。カタカナ語を使っても外国人と筆談はできない。
こうみてくるとカタカナ語には混乱の原因になるものばかりで長所はなにもないように見える。
それにも係わらず、最近ではあらゆる分野で英語をカタカナ語表記したものが氾濫している。私の勤める大学の工学部でファカルティディベロップメント委員会という正式の機関がある。長たらしくて扱いにくい上に、新しい人が来るたびに説明が必要にばる。自己啓発あるいは自己評価委員会とすればこんな問題は起こらない。
以前学内で「アントレプレナー・ゼミナール」という掲示を見た。数人に意味を尋ねたがだれも分からなかった。なぜ「企業家ゼミナール」としないのか。よく使われる「ディスクロージャー」も「情報公開」でいい。他にも「フラワーアレンジメント」「ガーデニング」というカタカナ語は「いけばな」「園芸」で十分ではないか。
カタカナ語氾濫の背景には「英語の方がかっこがいい」とか「英語の方が正しい言語である」という誤った考え方があるようだ。そのためカタカナ語の使用に抵抗できない空気がひろがり、欠陥を見えにくくしているといえる。
また、日本語の中に相当する単語がないからという理由でカタカナ語を使う人がいる。しかしそれは言語の本質を理解していないといえる。対応する言葉がなければ適当な訳語を考えればいい。新しい概念がでてくれば英語でも在来の単語だけでは足りなくて新しい単語を作ったり、在来の単語に新しい意味を加えたりしている。日本語の新しい単語を造語したり、適切な日本語訳を考えることは「知的楽しみにあふれた作業」である。
日本語の表意文字と表音文字の双方を使うという特徴は日本人及び日本文化のユニークさの源泉でもある。カタカナ語が増えれば対応する日本語の単語が消えるだけでなく見るだけで意味が推測できるという日本語の特長が失われる。
日本語の中に日本人自身が分からない単語が多くなると、日本人同士の議論がかみ合わないということが起こる。これは日本人の知的水準の低下をもたらしかねない。カタカナ語の氾濫は日本人と日本文化にとって混乱と災難を意味するのではないか。
朝日新聞「論壇」平成12年3月7日
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