『電子同人雑誌の可能性』を書き上げたあと、ただちに本丸に取りかかってゆこう。『電子同人雑誌の可能性』と同じようなブログやフェイスブックでの連載スタイルで書いてゆくつもりである。ただ数週間ぐらい休むかも知れないが。さすがに疲れたし、またデータ入力の仕事を首になったので、新しい仕事を探す必要も生じたからだ。
『「こころ」と太平洋戦争』も大作であり、400ページぐらいのものを書くことになるかも知れない。「新しい文学」の方は量は書く必要がないのだが、すべてはアイデアが閃くかどうかにかかっているので、ある意味一番難しいかも知れない。だがまあ『電子同人雑誌の可能性』をこれだけの勢いで書けたのだから、十分自信を持ってやってゆける。
この本丸を攻め落とせたら、社会的にもブレイクできるかも知れない。そうなったら確かに有難い。いまさら富や名声など欲しいとは思わないが、社会的にブレイクしたら、もう経済的仕事のために時間を奪われることもなくなり、この自分の仕事に全力投球できる。また今の生活では、病気とか事故とか何かあっただけで、即破滅に追い込まれる。社会的にブレイクして十分富を貯えたら、そういう破滅を回避することができので、社会的なサポートとして是非必要なのである。
“奇跡のドア”を押し開けたといっても、それで終わりではなく、これからも前へ前へと進んでゆかなければならない。『「道草」と私小説』『「明暗」と則天去私』『「文学論」と西洋文明と東洋文明の融合』とシリーズ的に漱石を書いてゆかなければならないし、「新しい文学」も具体的な文芸作品にしてゆかなければならない。電子同人雑誌も新しいメディアとして現実的に築いてゆきたい。まだまだ長期に渡って戦いは続くのである。今までは若かったから限界状況にも耐えられたが、これからは社会的サポートがなければ進んでゆくことは難しいのである。
富や名声にはたいして関心はないが、結婚はしたい。父が死に、母も亡くなり、兄も重病にかかってと、今や僕も天涯孤独の身になろうとしている。そんなときやはり家族が欲しくなる。自分の子孫も残したくなる。別に誰に産ませる宛てもないのだが、娘が生まれたら「サヤコ」(どういう字にするかはまだ考えていない)と名付けようとおもっている。「サヤ」という爽やかな響きがいいし、また「コ」はかわいらしいが伝統的風格も感じられていい。漱石の『明暗』の最後で主人公が向かってゆく女性の名が「清子」といい、無理して読めば「サヤコ」にもなるので、そこもいい。社会的にブレイクしたら、結婚もできるだろう。そういう意味でも社会的ブレイクは目指さなければならない。
挫けそうなとき、自分のやっていることが価値のないように思えてくるとき、そんなとき自分を励まし再び前へ進めようとして、よく使っている言葉がある。それは自分は今「日本最高最重要の仕事」の一つに取り組んでいるんだ、しかも自分しかできないものであり、自分がつぶれたらこの仕事もつぶれてしまうのである、だから何としても前へ進め!というものである。
なんだか高慢な言葉のようだが、これは落ち込んだり、人をバカにしたようなひどい扱いを受けたり、どうしようもないほど苦しい目に遭ったり、そんなときに自分を奮い立たせるために(もちろん心の中で)言っているものなので、高慢とはむしろ逆なものであろう。
自分を励まし、前へ前へと駆り立ててゆく言葉なのである。
実際この仕事―日本文学を復活させることも、反外国主義運動を開花させることも、非常に重要な仕事なのである。これができたら日本の前に一つの大きな可能性が開けるのである。
まさに桑田佳祐の『明日晴れるかな』にあるような、晴れ渡った晴天が開けるのである。
(“奇跡のドア”という言葉はこの歌の歌詞にある言葉である)
『電子同人雑誌の可能性』を完成させたら、ただちに『「こころ」と太平洋戦争』と「新しい文学」にガップリ四つに取り組もう。そしてこれをグングン成し遂げてゆき“奇跡のドア”を押し開けてしまおう。
達成は目前にある!
『「こころ」と太平洋戦争』も大作であり、400ページぐらいのものを書くことになるかも知れない。「新しい文学」の方は量は書く必要がないのだが、すべてはアイデアが閃くかどうかにかかっているので、ある意味一番難しいかも知れない。だがまあ『電子同人雑誌の可能性』をこれだけの勢いで書けたのだから、十分自信を持ってやってゆける。
この本丸を攻め落とせたら、社会的にもブレイクできるかも知れない。そうなったら確かに有難い。いまさら富や名声など欲しいとは思わないが、社会的にブレイクしたら、もう経済的仕事のために時間を奪われることもなくなり、この自分の仕事に全力投球できる。また今の生活では、病気とか事故とか何かあっただけで、即破滅に追い込まれる。社会的にブレイクして十分富を貯えたら、そういう破滅を回避することができので、社会的なサポートとして是非必要なのである。
“奇跡のドア”を押し開けたといっても、それで終わりではなく、これからも前へ前へと進んでゆかなければならない。『「道草」と私小説』『「明暗」と則天去私』『「文学論」と西洋文明と東洋文明の融合』とシリーズ的に漱石を書いてゆかなければならないし、「新しい文学」も具体的な文芸作品にしてゆかなければならない。電子同人雑誌も新しいメディアとして現実的に築いてゆきたい。まだまだ長期に渡って戦いは続くのである。今までは若かったから限界状況にも耐えられたが、これからは社会的サポートがなければ進んでゆくことは難しいのである。
富や名声にはたいして関心はないが、結婚はしたい。父が死に、母も亡くなり、兄も重病にかかってと、今や僕も天涯孤独の身になろうとしている。そんなときやはり家族が欲しくなる。自分の子孫も残したくなる。別に誰に産ませる宛てもないのだが、娘が生まれたら「サヤコ」(どういう字にするかはまだ考えていない)と名付けようとおもっている。「サヤ」という爽やかな響きがいいし、また「コ」はかわいらしいが伝統的風格も感じられていい。漱石の『明暗』の最後で主人公が向かってゆく女性の名が「清子」といい、無理して読めば「サヤコ」にもなるので、そこもいい。社会的にブレイクしたら、結婚もできるだろう。そういう意味でも社会的ブレイクは目指さなければならない。
挫けそうなとき、自分のやっていることが価値のないように思えてくるとき、そんなとき自分を励まし再び前へ進めようとして、よく使っている言葉がある。それは自分は今「日本最高最重要の仕事」の一つに取り組んでいるんだ、しかも自分しかできないものであり、自分がつぶれたらこの仕事もつぶれてしまうのである、だから何としても前へ進め!というものである。
なんだか高慢な言葉のようだが、これは落ち込んだり、人をバカにしたようなひどい扱いを受けたり、どうしようもないほど苦しい目に遭ったり、そんなときに自分を奮い立たせるために(もちろん心の中で)言っているものなので、高慢とはむしろ逆なものであろう。
自分を励まし、前へ前へと駆り立ててゆく言葉なのである。
実際この仕事―日本文学を復活させることも、反外国主義運動を開花させることも、非常に重要な仕事なのである。これができたら日本の前に一つの大きな可能性が開けるのである。
まさに桑田佳祐の『明日晴れるかな』にあるような、晴れ渡った晴天が開けるのである。
(“奇跡のドア”という言葉はこの歌の歌詞にある言葉である)
『電子同人雑誌の可能性』を完成させたら、ただちに『「こころ」と太平洋戦争』と「新しい文学」にガップリ四つに取り組もう。そしてこれをグングン成し遂げてゆき“奇跡のドア”を押し開けてしまおう。
達成は目前にある!