さて 電子同人雑誌に収益性がある以上、それをつくっている創作家たちもそれで収入を得たいと望むだろう。彼らの多くがまともな就職をしていないことが考えられるので、その望みは一層切実である。できるだけ大きな金額、できれば巨万の富をゲットしたい、そう願う者も多いであろう。たしかに文芸作品はひとたび当たれば巨額の報酬を得ることができるし、実際それを実現した先輩作家たちを目の当たりにしているので、彼らがそれを夢見るのも当然である。またそういう夢があるからこそ、彼らは苦しく危険な生活に耐えて、前へ進めるのである。
と言っても本当に実現できるかは全く定かではない。成功するのはほんの一握りという厳然たる事実もある。彼らの多くは一生懸命努力しても、金銭的にはほとんど報酬を得られないだろう。そう考えると創作家というものは自己犠牲の人生を送っているとも言える。毎日懸命に努力して文化の発展に己の人生を捧げてきたのに、見返りはないのだから、これは立派な自己犠牲である(もちろん本人たちはそう思っていず「いつかビッグになってやる!」と思っているものだが)。しかし創作家たちの努力は無駄になる訳ではない。それは必ずなんらかの形で一国の文化の発展に寄与してゆくのである。
電子同人雑誌の経済的側面については前にも書いたが、250円という最低限利益が出る価格で発売して230人に売れたら4万円の収入になる。とすると700人に売れたら12万円になるので、同人雑誌の代表一人くらいの生活費にはなるだろう。700人もの人々に売れるというその文化的効果はたいへんなものになるが、金銭的にはたしかに少ない。
ではブレイクポイントはだいたいどの辺だろう。小説などの文芸作品はある一線を超えると幾何級数的に利益が膨らんでゆくものだが(出版社でよく言われる本を刷っているというよりも「お札を刷っている」状態である)、紙の本だとだいたい10万部程度だろう。電子同人雑誌だと6000人に売れたら100万を超える収入になるが、だいたいその辺かも知れない。というのは戦前の同人雑誌でもそこまで来ると立派なブレイクだったからである。
夏目漱石は『吾輩は猫である』で一躍世間の脚光を浴び大ブレイクした、とよく文学史などでは書かれている。ではどのくらい売れたかというと、漱石の高浜虚子に宛てた手紙から推測できる。『猫』を書き始めてから1年4か月後のことだが、『猫』で人気が高まったこの時期虚子は『ホトトギス』の値上げを試みようとしたのである。その際の返答で漱石は「雑誌五十二銭とは驚いた。今までの雑誌で五十二銭のはありませんね。それで五千五百部売れたら日本の経済も大分進歩したもの」と書いているのである。この「五千五百部」とは総印刷数のことで、当然売れ残りもあるだろう。つまり『猫』でブレイクしたと言ってもせいぜい数千冊しか売れてなかったのである。それでも当時は立派な大ブレイクだったのである(ちなみに今も商業誌として活躍している『中央公論』は当時の総印刷数は六千部であった)。数千部とは言っても、それは当時の知識階級に確実に届いていたこと、また当時も同人雑誌は同人たちの手作りで行われていたので数千部でも巨額の収入を得ることができたということ、などを考慮するとやはりこれは大ブレイクにふさわしい数字なのだろう。
電子同人雑誌でも数千人に売れたら100万円くらいの金は入って来る。しかしそれよりも遥かに重要なのが、この数千人の実態である。彼らは単なる雑誌の消費者ではないのである。彼らは一人一人がコンピュータやインターネットでいわば武装したネットユーザーなのである。彼ら一人一人の背後にはさらにネットワークが繋がっていて、彼らがアクションを起こしてネットワークに働きかけていったなら、たちまち巨大な力となって広く深くネット全体に影響を及ぼすことになり、その電子同人雑誌のブレイクを可能にしてしまうのである。
では彼らにアクションを起こしてもらうにはどうしてらいいか。ただ雑誌を読んだくらいでは自発的にアクションなど起こしてもらえないだろう。頼み込んでも無理、人はそんなことでは動かないし、かえって不愉快を与えるだけだろう。よくネットなどで知名度を上げようと「知って!」「知って!」と連呼している者がいるが、これなども逆効果でそんな「知って!」「知って!」で知らされたものなど、知ったそばから忘れてしまうし、嫌な感じが残るだけである。
ではどうすれば彼らにアクションを起こしてもらえるのか。彼らを「感動」させることである。彼らの心をつかみ、心情を揺さぶり、魂に感銘を与えるような「感動」をもたらすことである。「心にグッと来た」「感心した」「本当に面白い」「これは素晴らしい」「マジいいよ」そのような言葉が素直に出て来るような感動を覚えたとき、人は自分の魂にある成長ある拡大を感じ、喜ばしい気持ちになるのである。またこのような感動をもたらしてくれた人間に感謝と共感を覚えるのである。そしてこの感動と喜ばしい思いを他の人々にも伝えようと、自ら進んでアクションを起こし始めるのである。
数千人もの人々を感動させるということは、その感動が「普遍的」であるということである。それはネットワークが繋がる先々で同じような感動を連鎖的に引き起こしてゆくに違いない。数千の輪から始まった感動は連鎖的に拡大してゆき、ネットの世界に広がってゆき、ついにはその電子同人雑誌なり文芸作品なり創作家なりをブレイクさせることになるのである。
と言っても本当に実現できるかは全く定かではない。成功するのはほんの一握りという厳然たる事実もある。彼らの多くは一生懸命努力しても、金銭的にはほとんど報酬を得られないだろう。そう考えると創作家というものは自己犠牲の人生を送っているとも言える。毎日懸命に努力して文化の発展に己の人生を捧げてきたのに、見返りはないのだから、これは立派な自己犠牲である(もちろん本人たちはそう思っていず「いつかビッグになってやる!」と思っているものだが)。しかし創作家たちの努力は無駄になる訳ではない。それは必ずなんらかの形で一国の文化の発展に寄与してゆくのである。
電子同人雑誌の経済的側面については前にも書いたが、250円という最低限利益が出る価格で発売して230人に売れたら4万円の収入になる。とすると700人に売れたら12万円になるので、同人雑誌の代表一人くらいの生活費にはなるだろう。700人もの人々に売れるというその文化的効果はたいへんなものになるが、金銭的にはたしかに少ない。
ではブレイクポイントはだいたいどの辺だろう。小説などの文芸作品はある一線を超えると幾何級数的に利益が膨らんでゆくものだが(出版社でよく言われる本を刷っているというよりも「お札を刷っている」状態である)、紙の本だとだいたい10万部程度だろう。電子同人雑誌だと6000人に売れたら100万を超える収入になるが、だいたいその辺かも知れない。というのは戦前の同人雑誌でもそこまで来ると立派なブレイクだったからである。
夏目漱石は『吾輩は猫である』で一躍世間の脚光を浴び大ブレイクした、とよく文学史などでは書かれている。ではどのくらい売れたかというと、漱石の高浜虚子に宛てた手紙から推測できる。『猫』を書き始めてから1年4か月後のことだが、『猫』で人気が高まったこの時期虚子は『ホトトギス』の値上げを試みようとしたのである。その際の返答で漱石は「雑誌五十二銭とは驚いた。今までの雑誌で五十二銭のはありませんね。それで五千五百部売れたら日本の経済も大分進歩したもの」と書いているのである。この「五千五百部」とは総印刷数のことで、当然売れ残りもあるだろう。つまり『猫』でブレイクしたと言ってもせいぜい数千冊しか売れてなかったのである。それでも当時は立派な大ブレイクだったのである(ちなみに今も商業誌として活躍している『中央公論』は当時の総印刷数は六千部であった)。数千部とは言っても、それは当時の知識階級に確実に届いていたこと、また当時も同人雑誌は同人たちの手作りで行われていたので数千部でも巨額の収入を得ることができたということ、などを考慮するとやはりこれは大ブレイクにふさわしい数字なのだろう。
電子同人雑誌でも数千人に売れたら100万円くらいの金は入って来る。しかしそれよりも遥かに重要なのが、この数千人の実態である。彼らは単なる雑誌の消費者ではないのである。彼らは一人一人がコンピュータやインターネットでいわば武装したネットユーザーなのである。彼ら一人一人の背後にはさらにネットワークが繋がっていて、彼らがアクションを起こしてネットワークに働きかけていったなら、たちまち巨大な力となって広く深くネット全体に影響を及ぼすことになり、その電子同人雑誌のブレイクを可能にしてしまうのである。
では彼らにアクションを起こしてもらうにはどうしてらいいか。ただ雑誌を読んだくらいでは自発的にアクションなど起こしてもらえないだろう。頼み込んでも無理、人はそんなことでは動かないし、かえって不愉快を与えるだけだろう。よくネットなどで知名度を上げようと「知って!」「知って!」と連呼している者がいるが、これなども逆効果でそんな「知って!」「知って!」で知らされたものなど、知ったそばから忘れてしまうし、嫌な感じが残るだけである。
ではどうすれば彼らにアクションを起こしてもらえるのか。彼らを「感動」させることである。彼らの心をつかみ、心情を揺さぶり、魂に感銘を与えるような「感動」をもたらすことである。「心にグッと来た」「感心した」「本当に面白い」「これは素晴らしい」「マジいいよ」そのような言葉が素直に出て来るような感動を覚えたとき、人は自分の魂にある成長ある拡大を感じ、喜ばしい気持ちになるのである。またこのような感動をもたらしてくれた人間に感謝と共感を覚えるのである。そしてこの感動と喜ばしい思いを他の人々にも伝えようと、自ら進んでアクションを起こし始めるのである。
数千人もの人々を感動させるということは、その感動が「普遍的」であるということである。それはネットワークが繋がる先々で同じような感動を連鎖的に引き起こしてゆくに違いない。数千の輪から始まった感動は連鎖的に拡大してゆき、ネットの世界に広がってゆき、ついにはその電子同人雑誌なり文芸作品なり創作家なりをブレイクさせることになるのである。