「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

電子同人雑誌の可能性 118

2016-11-23 18:51:47 | 日本文学の革命
さて 電子同人雑誌に収益性がある以上、それをつくっている創作家たちもそれで収入を得たいと望むだろう。彼らの多くがまともな就職をしていないことが考えられるので、その望みは一層切実である。できるだけ大きな金額、できれば巨万の富をゲットしたい、そう願う者も多いであろう。たしかに文芸作品はひとたび当たれば巨額の報酬を得ることができるし、実際それを実現した先輩作家たちを目の当たりにしているので、彼らがそれを夢見るのも当然である。またそういう夢があるからこそ、彼らは苦しく危険な生活に耐えて、前へ進めるのである。
と言っても本当に実現できるかは全く定かではない。成功するのはほんの一握りという厳然たる事実もある。彼らの多くは一生懸命努力しても、金銭的にはほとんど報酬を得られないだろう。そう考えると創作家というものは自己犠牲の人生を送っているとも言える。毎日懸命に努力して文化の発展に己の人生を捧げてきたのに、見返りはないのだから、これは立派な自己犠牲である(もちろん本人たちはそう思っていず「いつかビッグになってやる!」と思っているものだが)。しかし創作家たちの努力は無駄になる訳ではない。それは必ずなんらかの形で一国の文化の発展に寄与してゆくのである。

電子同人雑誌の経済的側面については前にも書いたが、250円という最低限利益が出る価格で発売して230人に売れたら4万円の収入になる。とすると700人に売れたら12万円になるので、同人雑誌の代表一人くらいの生活費にはなるだろう。700人もの人々に売れるというその文化的効果はたいへんなものになるが、金銭的にはたしかに少ない。

ではブレイクポイントはだいたいどの辺だろう。小説などの文芸作品はある一線を超えると幾何級数的に利益が膨らんでゆくものだが(出版社でよく言われる本を刷っているというよりも「お札を刷っている」状態である)、紙の本だとだいたい10万部程度だろう。電子同人雑誌だと6000人に売れたら100万を超える収入になるが、だいたいその辺かも知れない。というのは戦前の同人雑誌でもそこまで来ると立派なブレイクだったからである。
夏目漱石は『吾輩は猫である』で一躍世間の脚光を浴び大ブレイクした、とよく文学史などでは書かれている。ではどのくらい売れたかというと、漱石の高浜虚子に宛てた手紙から推測できる。『猫』を書き始めてから1年4か月後のことだが、『猫』で人気が高まったこの時期虚子は『ホトトギス』の値上げを試みようとしたのである。その際の返答で漱石は「雑誌五十二銭とは驚いた。今までの雑誌で五十二銭のはありませんね。それで五千五百部売れたら日本の経済も大分進歩したもの」と書いているのである。この「五千五百部」とは総印刷数のことで、当然売れ残りもあるだろう。つまり『猫』でブレイクしたと言ってもせいぜい数千冊しか売れてなかったのである。それでも当時は立派な大ブレイクだったのである(ちなみに今も商業誌として活躍している『中央公論』は当時の総印刷数は六千部であった)。数千部とは言っても、それは当時の知識階級に確実に届いていたこと、また当時も同人雑誌は同人たちの手作りで行われていたので数千部でも巨額の収入を得ることができたということ、などを考慮するとやはりこれは大ブレイクにふさわしい数字なのだろう。

電子同人雑誌でも数千人に売れたら100万円くらいの金は入って来る。しかしそれよりも遥かに重要なのが、この数千人の実態である。彼らは単なる雑誌の消費者ではないのである。彼らは一人一人がコンピュータやインターネットでいわば武装したネットユーザーなのである。彼ら一人一人の背後にはさらにネットワークが繋がっていて、彼らがアクションを起こしてネットワークに働きかけていったなら、たちまち巨大な力となって広く深くネット全体に影響を及ぼすことになり、その電子同人雑誌のブレイクを可能にしてしまうのである。
では彼らにアクションを起こしてもらうにはどうしてらいいか。ただ雑誌を読んだくらいでは自発的にアクションなど起こしてもらえないだろう。頼み込んでも無理、人はそんなことでは動かないし、かえって不愉快を与えるだけだろう。よくネットなどで知名度を上げようと「知って!」「知って!」と連呼している者がいるが、これなども逆効果でそんな「知って!」「知って!」で知らされたものなど、知ったそばから忘れてしまうし、嫌な感じが残るだけである。

ではどうすれば彼らにアクションを起こしてもらえるのか。彼らを「感動」させることである。彼らの心をつかみ、心情を揺さぶり、魂に感銘を与えるような「感動」をもたらすことである。「心にグッと来た」「感心した」「本当に面白い」「これは素晴らしい」「マジいいよ」そのような言葉が素直に出て来るような感動を覚えたとき、人は自分の魂にある成長ある拡大を感じ、喜ばしい気持ちになるのである。またこのような感動をもたらしてくれた人間に感謝と共感を覚えるのである。そしてこの感動と喜ばしい思いを他の人々にも伝えようと、自ら進んでアクションを起こし始めるのである。
数千人もの人々を感動させるということは、その感動が「普遍的」であるということである。それはネットワークが繋がる先々で同じような感動を連鎖的に引き起こしてゆくに違いない。数千の輪から始まった感動は連鎖的に拡大してゆき、ネットの世界に広がってゆき、ついにはその電子同人雑誌なり文芸作品なり創作家なりをブレイクさせることになるのである。

電子同人雑誌の可能性 117

2016-11-23 18:48:15 | 日本文学の革命
では電子同人雑誌のようなネット生え抜きのメディアならどうだろう。
ネットは組織ではなく個人が主体となって構成されているメディアである。その個人にコンピュータやインターネットのテクノロジーが加わることによって巨大なパワーを発揮し得るメディアなのである。電子同人雑誌も個人が集まって雑誌の制作・販売を行っているメディアで、その労力の多くもコンピュータやネットのテクノロジーに依存している。従って巨大組織のようにたいへんなコストがかかる訳もなく、雑誌自体も低価格で販売できるし、それでも大きな収益を期待できるのである。千円二千円もするものなら「盗んでやろう」という情熱も湧くかも知れないが、たかが百円二百円のためにわざわざ不正コピーするだろうか。その労力の方が高くつくのではないだろうか。
またあながち不正コピーも損するばかりではないのである。コピーされ大量にばら撒かれるということは、それだけ多くの人に読まれるということである。本当は金を払わなければならないのに無料で読めるということで、かえって読む気を起こさせるかも知れない。きっちり金は取れるが少部数でいいか。それともほとんど金は取れないが大量に読まれた方がいいか。電子同人雑誌のそもそもの意義から考えたら、後者の方がいいかも知れない。

盗用・不正コピーが多大な貢献をした事例もある。世界の日本アニメブームである。これも当初は(今でも?)世界各地の日本アニメの愛好家たちが、日本アニメを不正コピーし、それぞれの国のネットで大量にばら撒いたことで広まったのだろう。日本アニメなどという得体の知れないものを、向こうの一般の人々が金を出してまで見たがるとは思えない。無料でネットで出回っていて、無料なのでつい見てしまったら、面白かった。あれこれ数多く見ている内に(もちろん無料で)日本アニメのファンになってしまった…という経緯で日本アニメのブームが起こったのだろう。
とするとこの不正コピーと不正配信は、たいへんな経済効果を日本にもたらしてくれたことになる。年間数千万という外国人観光客もこのおかげである。日本料理の世界的ブームもこれがきっかけである。世界各地での日本に対する好印象と親しみの感情もこのおかげである。不正コピーが行われず、チマチマとした有料配信に限定されていたら、このような大ブームは起きなかったかも知れない。結果的に不正コピーと無料配信は、莫大なプラスの効果をもたらしたのである。

場合によっては盗用された方がいいときもあるが、そういう不正をそもそも根本的に抑えるものも電子同人雑誌は持っている。電子同人雑誌の中核にあるのは、その内容と並んで“交流”なのである。人々が電子同人雑誌を買いたがる大きな理由が、その雑誌の人々と交流の輪を広げたいからなのである。よく言われるようにネットユーザーは情報には金を出したがらないが、交流には金を出すのである。ケータイで毎月数万円もの使用料を払っている女子学生はケータイでの交流費としてこれだけの金を蕩尽しているのである。雑誌の内容は盗むことができる。しかしその雑誌に関わる人々との交流は盗むことができないのである。その雑誌に関わっている人々と交流したいのなら、金を出して雑誌を買うのは最低限のマナーであり人間としての良心である。逆にそのようなこともしない人間は、最も本質的なところで人々と交流する資格はないし、おそらくできないだろう。


電子同人雑誌の可能性 116

2016-11-23 18:44:06 | 日本文学の革命
電子同人雑誌は販売される雑誌であり、収益性を持っている。もちろん無料に近い雑誌も多いだろうし、また一般的に低価格ではあるが、お金を出して買う必要があるものである。となると心配になってくるのが盗用・不正コピーである。
ネットでよく問題となるのがこの盗用・不正コピーの問題である。映画や韓国ドラマなどがよく狙われ、不正コピーされた映画やドラマがネット上に流出し無料で見られてしまうという事態が発生し、映画関係者に悲鳴をあげさせていた。音楽や本なども簡単にコピーできるので、やはりネット上で無料で流通してしまった。作家やアーティストたちが自分の作品をネットにアップするのを嫌がるのは、ネットにアップしたが最後いとも簡単に不正コピーされ無料で流通してしまうからである。このネットによる盗用・不正コピーはメディアの経営基盤を根本的に揺るがすものとなるので、ネットは「文化の破壊者」とまで言われたこともある(最近は強力な不正コピー防止機能が開発されたようだが。しかしそうなると今度は「ほとんど見なくなる」という現象が生じ、別の意味でメディアの基盤を揺るがせているようだ)。

しかしこの盗用・不正コピーにさらされて困っているのは、ネット以外の他メディアなのである。他メディア―たとえば映画などは多数の撮影スタッフと高額ギャラの役者陣を用いて作られるものなので、観客にはきちんと劇場に観に行ってもらうか、もしくはビデオを購入して観るかしてもらわないとペイしないのである。音楽もCD工場で生産しそれを販売するという形でビジネスモデルが出来ているので、CDを買ってもらわないと赤字になってしまうのである。紙の本も、紙に印刷し、製本化し、全国の本屋に届けて販売するというビジネスモデルなので、本を買ってもらわないと経営が成り立たないのである。これらのメディアはすべてネット以前に成立したものであり、ネットのようなメディア―劇場もCDも紙もなくても、何の不都合もなく映画も見れるし音楽も聞けるし文字も読めるメディア。しかも不正コピーも不正配信もいとも簡単にできるという恐るべきパワーを持ったメディア―の存在を想定せずに自己のビジネスモデルを築いてきたのである。ネットにしてみたら自分が持ってしまったパワーを素直に使っているだけであり、なんでこっちが旧メディアに合わせなければならないのか、という不満もあるだろう。ネットとそれ以前のメディアの構造のずれが、盗用・不正コピー問題の根底にあるのだ。


電子同人雑誌の可能性 115

2016-11-23 18:38:24 | 日本文学の革命
「同人間」のところで書こうと思っていて、つい書きそびれてしまったのでここで書くが、電子同人雑誌の「総合サイト」というものも考えられるのである。かつてヤフーがホームページの総合サイトを作りあげ運営していたが(今もしているだろうが)、それと同じような感じのものである。そこには様々な電子同人雑誌がジャンルごとに分類整理されて枝分かれしている。人々は興味あるジャンルをクリックしてゆけば、「文学」―「小説」、「映画」―「アニメ」、「趣味」―「釣り」など関心のある電子同人雑誌に辿り着いてゆけるのである。

このような「総合サイト」を運営するのは、電子同人雑誌のアップロードを受け付け、同時に課金システムのサービスを提供しているネット企業だろう。もちろん一つだけでなく複数の「総合サイト」があってもいいし、アングラ的なものがあってもいいだろう。ホームページの総合サイトでは広告収入しか入らなかったが、電子同人雑誌はそれ自体が販売され収益を生むので、「総合サイト」の運営会社にはそこからの収入も入ってくる。アマゾンと同じにしたら電子同人雑誌の売り上げの3割が運営会社の取り分となるのである。つまり電子同人雑誌が売れれば売れるほど運営会社も儲かるので、運営会社は電子同人雑誌の売り上げアップのために大いに尽力してくれる筈である。

たとえば電子同人雑誌を効果的に作るためのソフトを開発したり、電子同人雑誌に使えるようなプログラミング・ソフトを提供したり、やはり電子同人雑誌に使えるイラストやデザインなどを提供するサイトを紹介したりと、いろいろ企業努力を傾けてくれるだろう。電子同人雑誌の販売促進のために、30分だけ雑誌を無料で読めるソフトだとか、同人の一人が書いてゆく雑誌宣伝用のブログとかも用意してくれるかも知れない。
このような企業の協力もあれば電子同人雑誌はさらに発展してゆくのである。

電子同人雑誌の可能性 114

2016-11-23 18:34:51 | 日本文学の革命
交流の輪は同人の外にも広がってゆく。電子同人雑誌の世界が発達し活況を呈してくると、そこはまるで多種多彩の大勢の人々が行き交う活気に満ちた広大な広場のように感じられるだろう。あそこでは人々が集まって熱く議論を交わしている、かしこでは人々が笑顔で車座になって何かのゲームに興じ笑い合っている、その横のベンチでは老人たちがのんびりとチェスを楽しんでいる、カフェのテーブルには若い男女が集まり笑い興じながらカップル探しをしている、大道芸をしている者もいるし音楽を奏でている者もいるし店を広げて手作りの品物を売っている者もいる、少し高い演壇では誰かが声を張り上げ何かの演説をしている、熱心にビラを配っている者もいる、たくさん集まって広場の清掃活動を行っているグループもいれば昆虫採集をしているグループもいる、様々な人々が自由に行き交う賑やかで広大な広場なのである。

しかもそこに集まっている人々は、相互に無関心で特定もできない「群衆」ではない。彼らに近づきその様子を見てみれば(つまり彼らの雑誌を見てみれば)彼らの思いや活動、人柄や内面を深く知ることができるのである。彼らに声をかけて話をすることもできるし、彼らの活動に参加することもできるのだ。この広場では様々な交流の輪を自由に築くことができるのであり、この広場全体が交流のネットワークを成しているのである。

貧乏名無しの創作家の彼もこのネットワークの広場に自由に出入りできる。実にたくさんの人々が様々の思いを持ち、様々なアイデアを披露し、様々な活動をしている。彼はこのような人々と触れ合い、現実的で豊かな交流を重ねることができるのである。その際彼の電子同人雑誌は彼の名刺みたいな役割を果たすだろう。その雑誌を見れば彼の趣味や志ざしが分かり、彼の人柄も知ることができ、彼が信用できる人間かどうかも分かるようになり、交流の促進力になるのである。いろいろな人々の魂に触れ合うことは、彼の創作に豊かな養分を与えるものとなるだろう。またこの交流の中で彼は彼と同じような創作家と出会うかも知れない。その創作家の雑誌を読み、大いに刺激を受けるかも知れない。彼が同業の仲間、あるいは切磋琢磨できるライバルを見い出したときである。あるいは敬服するような創作家に出会うかも知れない。見習いたいと思うような創作家との出会いであり、それは彼にとっての師や先輩との出会いである。そのままネット上で師事してもいいのである。
ネットや電子同人雑誌上で様々な出会いと交流を重ねながら、彼は創作の腕を磨いてゆくことができるのである。

電子同人雑誌の可能性 113

2016-11-23 18:27:48 | 日本文学の革命
電子同人雑誌は様々な創作作品の「入れ物」に成ることができ、また様々な創作家たちの活躍の舞台に成り得ることが分かった。では具体的な発表の場はあるだろうか。
もちろんそれはある。現在のインターネットは大容量のデータでも問題なく転送でき、また蓄積できるようになってきている。映画一本丸ごとアップロードするなどということも可能になってきているのである。あとはアップロードする課金システムが整ったサイトがあればOKなのだが、現在でもアマゾンのサイトが限定的な形であるがそれを行っている。技術的には他のネット企業にもできることだろう。ネットの素人創作家たちの作る作品に市場的価値などないと思っているので、今現在はこのようなサイトを作ろうとしないだけなのだろう。

ただ発表できたとしても、なかなか売れるようにはならないだろう。無料で配信しても読んでくれる人はそうたくさんいない筈である。数人、あるいは数十人程度かも知れない。もちろん電子同人雑誌が活況を呈してくれば読者数は増えてゆくだろうが、当初はやはりその程度だろう。

たしかに金銭的には微々たるものだし、名声的にも何もないだろう。しかし精神的にはむしろ充実した生活が送れるのである。彼は電子同人雑誌という創作の拠点を得て、そこで思いっきり好きな創作に打ち込むことができるのである。様々な技法やアイデアを試したり、最先端のテクノロジーを駆使したりして、自分の作品を作ってゆくことができるのである。誰に干渉されることもなく、組織の規律に支配されることもなく、自分の手作りで自分の作品を作りあげてゆき、自分の足で自分の道を切り拓いてゆくことができるのである。こういう喜びは人生の中でも最高のものの一つである。彼はそれを存分に味わうことができる境遇にあるのだ。また彼は同じような志ざしを持つ仲間にも恵まれるかも知れない。「心の友」「同志」ともいうべき存在で、彼らとともに協力して雑誌の運営をすることもできるのである。このような友人を得ることもやはり人生の得難い喜びである。「友あり。遠方より来たる。また楽しからずや」の境地である。また交流の輪は読者にも広がってゆく。彼の作品を読んでくれた人は少人数かも知れない。しかし少人数だからこそ具体的・人間的な交流もすることができるのである。彼が名声を持っていないので、全く普通に人間的な交際をすることができるのである。芥川龍之介は『侏儒の言葉』の中で「最も幸福な芸術家は晩年に名声を得た芸術家である」と述べているが、彼自身は若くして名声を得てしまったので、マスコミ的スターと同じような境遇にさらされてしまい(彼が大きく成長する前に若死にしてしまったのはこの原因もあったのだろう)、そのためこのような創作家の境遇―貧乏で名無しだが自由に溌剌と成長してゆける境遇―を羨ましく感じていたのだろう。


電子同人雑誌の可能性 112

2016-11-23 08:11:20 | 日本文学の革命
その他にも芸能やコントを電子同人雑誌で流すこともできるし、ファッションモデルやファッションリーダーが自分で電子同人雑誌を作って流すことも考えられる。ゲーム・クリエイターの電子同人雑誌も考えられる。
評論家や言論人やジャーナリストの電子同人雑誌も考えられる。彼らの活動も一種の創作であり、彼ら自身も文化リーダーたり得るのである。
学術書や研究論文も立派な創作であり、電子同人雑誌でもちろん発表できる。今日学術書は数千部売れたらいい方だといい、ちょっとしたボーナス程度の金しか稼げない。しかし電子の世界なら数千部も売れたら一財産稼げるのである。
創作家から離れることになるが、社会活動家や政治家も電子同人雑誌を出して活躍することができる。彼らの活動が世の中を動かすようになったら、彼らもまたまぎれもなくネットが生み出した文化的リーダーになるのである。

もちろん今述べたような創作家とはまるで違うタイプの創作家や文化的リーダーの登場もあり得るだろう。想像することはできないが、ネットのような新しいメディアは全く新しいタイプの文化や創作家を生み出し得るものなのである。ただ想像もできないので、ここでは述べることができないが。

電子同人雑誌は様々なタイプの創作家たちの活躍の場に成り得るのである。
そして彼らの中から何らかの優れた作品を生み出してくるような者が現われたとき、それが一人の文化的リーダーがネットから誕生したときである。
ただしそのような文化的リーダーがネットを地盤として実際に現われてくるかどうか、ましてや層となって現われてくるかどうかは、全くもって分からない。「発展する文化」が現われるかどうかも分からないし、それを身につけて見事な創作にまで高めるような人物が現われるかどうかも分からないのである。
ただ「分からない」とばかり言っても無責任だから、僕から見て「発展する文化」「発展途上の文化」は一つ見つかっている。それが日本文学であり、130年近い歴史を持っているがまだ未完成であり、生成途上なのである。今は長い停滞期にあるが、これを再び前進させることができたとき、一つの「発展する文化」が現われるのであり、その流れの中から戦前のような新たな創作家たちの登場が可能となるのである。

電子同人雑誌の可能性 111

2016-11-23 08:05:41 | 日本文学の革命
ネット上で創作家たちの発表の場・活躍の拠点に成り得る電子同人雑誌。
そこから様々なタイプの創作家たちの登場が考えられる。

まず戦前の同人雑誌のような文学者たちのグループが出て来るのが考えられる。文学者とりわけ文学者の卵たちは、今は賞取りシステムの中に閉じ込められている。そこしか世に出る機会がないからだが、このシステムでは世の脚光を浴びるのはわずか数名、残りの数千あるいは数万に達する文学志望者たちは全く社会に影響を及ぼすこともなく、何も残さずに消えてゆく。ところが電子同人雑誌でも活躍の機会がある、世に出る機会がある、と分かったら、彼らの多くが大挙して電子同人雑誌の世界に流れ込んでくるに違いない。そこで彼らは規模は小さいだろうが、自分の作品を書き、それを人様に買ってもらい読んでもらうという、本物の作家活動をすることができるのである。この経験の中から賞取りシステムでは汲み取れなかった様々なタイプの作家たちが登場してきてもおかしくない。また彼らの活動はネット自体にも大きな好影響をもたらし、ネットの活気を盛んにしその文化性を向上させてゆくものになるだろう。うまくいったら彼らのこの自主的創造活動の中から、再び戦前の同人雑誌のような文学者のネットワークが築かれるかも知れないのである。ネットという新しい地盤の上に戦前の同人雑誌が新しい装いを帯びて再構築されるのである。

もちろん電子同人雑誌は何でも載せることができるので、ありとあるゆる創作家たちが登場して来てもおかしくない。
画家たちも、別に展示場など借りなくても自分の書いた絵画を電子同人雑誌に展示できる。実に高精細で鮮やかなものをいつまでも展示できるし、多くの人に見てもらい、収入も得ることができる。現物が欲しいという人には雑誌とは別料金で売ることもできる。受け渡しには彼自身が持っていって、彼の大切な絵を預かってくれる人と直に交流することもできるのである。
ミュージシャンたちも電子同人雑誌で活躍することができる。彼らの曲を配信したり、彼らのライブ映像を流したり、ライブのチケットを売ったりできるのである。ここなら警察に取り締まられずにいくらでもライブができるし、彼らの曲がいいものであれば大勢の人が見るようになるだろう。バンドの経歴やメンバーの人柄、曲に込めた思いなど、ユーチューブではできない雑誌ならでは記事も載せられ、そういうものを通じてバンドに親しみ深い物語性を与えることもできるのだ。
劇団活動も電子同人雑誌で行うことができる。劇団員ならば生の観客の前で演じるのが最高の喜びだろう。それならそれをしておいて、その際劇を丸ごとビデオで撮っておいて、あとで電子同人雑誌で流せばいいのである。そのような巨大動画を流せる容量も今日のインターネットは持っている。うまくいけば生の観客以上の観客をネットユーザーの中に作れるかも知れないのである。また生の観客とはまた別にネットの観客と交流を楽しむこともできる。
マンガ家たちももちろん電子同人雑誌でマンガを発表・販売できる。マンガの電子本がすでに存在し、かなりの売り上げまで示しているのだから、技術的に問題などない。電子雑誌ならではの企画、たとえば購読者が写真を送ってきたらマンガ家が似顔絵を描いてあげるとか、購読者をマンガに登場させたりとかしたら、売り上げはさらに伸びるだろう。
自主制作映画とか自主制作アニメとかも電子同人雑誌で流すことができる。しかし映画会社などで作っている作品―たくさんの撮影隊と役者陣で作られる映画、数百人ものアニメーターを動員して作られるアニメ、などの場合は、かなり高額の雑誌料金(一千数百円ほど。劇場よりは安いだろう)を取らねば成り立たないので、経営的に難しいかも知れない。電子同人雑誌は同人が主体となって作っているから一般的に低価格であるので、高額料金に怒ったネットユーザーが不正コピーしてネット上に無料でばら撒くことも考えられる。ただ近年では映画やアニメもコンピュータ・グラフィックを使ってわずか数名で作れるようになってきたので、そういう作品なら問題なく電子同人雑誌を使ってネットに流すことができるだろう。


電子同人雑誌の可能性 110

2016-11-23 08:01:02 | 日本文学の革命
ところが電子同人雑誌ならどうだろう。これが十分過ぎるほどの文化の「入れ物」、創作家たちの作品の発表場所に成り得るのである。
電子同人雑誌はネット上の一つの雑誌である。雑誌であるからには大きなボリュームがあり、そこに種々雑多の多くのものを収めることができるのである。文字もいくらでも大量に入れることができる。文字情報などネットでは他愛のないもので、数百ページ分の情報でも写真数枚程度の情報量である。やろうと思えば『源氏物語』を丸一冊一つの電子雑誌に収めることも容易にできる(取り込むのに多少の技術と時間がかかるだろうが。あと読める人間が現われるかどうかも心配だが)。またレイアウトも自由自在である。ホームページでできるようなことは電子同人雑誌でももちろん可能であろう。紙の雑誌の複雑なレイアウトもやろうと思えば手作り可能になるだろう。
また写真やデザインも自由に掲載でき、マンガやイラストもいくらでも載せることができる。高品質な動画や音声さえも載せることができる。将来的には立体映像も載せることができるようになるだろう。

また電子同人雑誌にはネットならではの様々なテクノロジーを組み込むことができる。メールやチャットやテレビ電話など双方向的なやり取りも可能だし、読者のアクションによって様々に変わる対応をすることもできる。ゲームやシュミレーションも取り入れることができるし、様々なプログラミング技術も取り入れることができる。やろうと思えばコンピュータ・テクノロジーのすべてを活用することもできるだろう。

電子同人雑誌は重要な社会的効果も持っている。それは同人という雑誌の制作仲間を持つことができ(リアルな交際でも、ネット上の協力でもいい)、同人によって雑誌制作を可能にしまた同人内での様々な交流も可能にし(それは雑誌制作の促進力になり向上力にもなる)、そして電子同人雑誌に社会性も与えるのである。それはこれまでのネットの弊害―個人的偏狭さや無責任な垂れ流し―を乗り越え、ネットのクオリティーをさらに高めるものになるだろう。
また電子同人雑誌は出版・販売された雑誌であり、収益性も持っている。創作家たちがネットでの発表を躊躇うのは、これまでそこに収益性がなかったからであり、自分たちの職業的収入源を無料で見られてしまうからであった。しかし何らかの形で収益性も得られるとあれば、彼らは進んでネットに作品を発表するようになるのであり、それは彼らの活動の経済的促進力となり基盤となるのである。
電子同人雑誌には社会的に効果のあるアピール力も備わっている。一つの雑誌名とそれに込められた理念を掲げた雑誌を発行するということは、社会に対して一つの明確な旗を掲げることであり、「旗幟を翻す」ことであり、社会的に実行されたアピールなのである(しかも旗を降ろさない限り継続的に続くのである)。それは社会に向かって発せられた「声」でもあり「呼びかけ」でもあり、当初は誰に聞かれることはなくても、発し続けている限り聞かれるようになる可能性を持っているのである。またそれは看板でもある。牛丼屋の看板にしろ居酒屋の暖簾にしろ会社や事業所の玄関の所に掲げられた表札にしろ、看板を掲げるということは一つの社会的活動が行われているということの標識であり、最も原点的な対社会的アピールなのである。ネット上の情報の多くは―たとえばユーチューブにアップロードされた動画などもそうである―このような「旗」や「看板」のような腰を据えたアピールの拠点を持っていないので、すぐにかき消されてしまうのである。逆に電子同人雑誌はそれ自体がアピールの拠点であり、雑誌や同人たちの活躍しだいで大きく発展する可能性を持っているのである。


電子同人雑誌の可能性 109

2016-11-23 07:50:38 | 日本文学の革命
しかし現在のインターネットでは今のところ、創作家たちの活動の舞台が意外なほど少ないのである。ある創作家が自分の作品を作りそれをネットで発表しようとしても、その発表場所に苦しんでしまうのである。ブログは文字と数枚の写真しか許さないので発表場所として著しく制限されてしまう。ツィッターなどは文字数にすら制限があり文字通りつぶやくことしかできない。フェイスブックなどのSNSもコミュニケーションがメインなのでまとまった創作作品を発表するのに不適である(僕などは無理やりやってるが)。ユーチューブなどは様々なライブ映像を自由に公開できるが、今度は動画しか流せないという制限があり、しかも犬猫のペット動画と同列に扱われ、そのような動画情報の洪水の中にたちまち没してしまう。電子書籍の自費出版も現在受け付けているのはアマゾンだけで、しかも活況を呈していない。ホームページは様々なものを総合的に載せることができるが、しかしその個人性と収益性の無さによって衰退してしまい(付け加えるなら優れた創作作品―永続的に残るような―を生み出す構造性もなかったので)、現在個人のホームページのアップロードを受け付けている業者がいるのかどうかも定かではない。

しかしネットにも様々な創作作品や文芸作品はあるじゃないか。山ほどのビデオ配信もあるし、楽曲配信もあるし、無料テレビもできたし、電子書籍だって数万冊も出されているじゃないか、と思われるかも知れない。たしかにその通りであるが、それらはすべて他のメディアがすでに作ったものであり、それをネット“でも”配信しているに過ぎないのである。ネット環境の中から生まれ、ネットの人間によって制作され、ネット独自の文化を体現した作品ではないのである。まるで現在のネット状況は、ネットにうごめいている有象無象で無責任で貧弱なネットユーザーどもには一人前の創作など無理だから、他のメディアが作った作品をおとなしく見てるか与えられたオモチャの中で遊んでいろ、といった態度である。これではいつまで経ってもネット独自の文化的リーダーが育つことはないだろう。