「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

電子同人雑誌の可能性 91

2016-11-03 20:50:59 | 日本文学の革命
またテレビはモノのメディアであり、モノを魅力的に映し出すメディアという面を持っている。その優れた映像技術と印象技法を駆使して、様々なモノ―美男美女とか動物とか自然の光景とか都会の風物とかそして商品とか、を魅力的に映し出すのである。マスコミ的スターも一種のモノであり、偶像であると言っていい。それは魅力的なスポーツカーとそれほど変わらない存在なのである。
それに対してネットはハードよりもソフトがより大切な構造を持っている。モノの映像よりも目に見えないプログラミングの方がより重要な役割を演じているのである。内容的にも情報のような精神的価値が重視され、また映像の享受よりも心の交流が大切にされている。それはモノのメディアではなく、広い意味でのこころのメディアと言っていいだろう。

このようにテレビにはテレビの面白さがあり、ネットにはネットの面白さがある。また大衆には大衆の享受の仕方がありネットユーザーにはネットユーザーの享受の仕方がある。面白さや親しみの質の相違はあるが、どちらも同じ程度に面白く親しみのあるメディアになれるのである。
電子同人雑誌にはネットユーザー的面白さのすべてがある。能動的参加性も、身近な人間的パフォーマンスも、心の交流も、すべて可能なのである。これに電子同人雑誌の多彩多様な創作可能性が加わったのなら、十分テレビにも匹敵できるような多彩で豊かなメディアに成り得るのである。たしかに夢みたいな話だが、可能性としてはたしかにあると言える。
(続く)

電子同人雑誌の可能性 90

2016-11-03 20:48:17 | 日本文学の革命
大衆が面白いと感じるもの、親しみを感じるもの、ときには熱狂的な憧れとなるもの、それはマスコミ的スターである。スターは大衆にとってテレビ画面という晴れ舞台の中で輝く超絶的存在であり、憧れであり仰ぎ見る存在であり、常に見続けその一挙手一投足を注視していることからくる親しみに満ちた存在である。テレビ画面は数百万数千万もの人々が注視する巨大なパワーを持った文字通りの晴れ舞台であり、彼らスターはその雲の上の世界の神的な住人なのである。マスコミ的スターは、憧れであり、光り輝く存在であり、スターリンや毛沢東やビートルズのような神的なリーダーのときもある。大衆は彼らを仰ぎ見、憧れと讃嘆を持って見続けることにより、ある意味このスターたちと一体化するのである。そしてスターたちの姿や言動を模倣し、彼らの大きな影響下に置かれるのである。またこれらスターの像やイメージを共有し合うことで、大衆的な一体感も生じるのである。これらスターの像のもと一体化した大衆が、スターの命令一下巨大な大衆行動に突き進むことも有り得るのである。
これはすべてテレビ画面、あるいはそれに類する“晴れ舞台”が人々にもたらした効果である。テレビ画面は映像的な効果的印象に満ちており、CMみたいな暗示的パワーにも富んでおり、またそれは一方向から―つまり上から下されて来るものであり、それを見る者はそれを仰ぎ見る形になり、またそこで流される内容は周り人々すべてに知れ渡り共有されるものであり、計り知れないパワーを持つものだからである。このようなテレビの構造がマスコミ的スターを生み出してくるのである。

それに対してネット画面はどうかというと、一見テレビ画面に似ているのだが、全くの別物である。その画面は自分と“対等の存在”なのである。そこに流れてくるものは自分と対等のそこらの人間が垂れ流した情報であることが多い。自分が今気ままに垂れ流したつまらない書き込みも、次の瞬間にはネット画面の中に堂々と表示されているのである。どこにも光り輝く超絶的なものなど感じられない。書かれた内容もほとんどが泡のように消え、誰にも何の影響も及ぼすことがない。ここにはマスコミ的スターや神的なリーダーなど生息できないのである。逆にマスコミ的スターや神的なリーダーがネット画面の中に入って来たら、たちまちその後光を失い、“対等の存在”と化してしまうだろう。
ただしそのようなネット画面でもいいところはある。人々が身近に感じられるのである。リアルな等身大の人々の息遣いが画面の向こうに感じられるのである。しかもそれは精神的に近く感じられるのである。肉体が見えない分、また妨げもなく素直に発現できる分、それは“内なる声”に近いのである。それは彼と対等な、それ故身近に感じられる人間の魂の声なのである。
マスコミ的スターが超絶な魅力と影響力を持っているのに対して、この身近で対等な内なる存在もこれはこれで強力な魅力を発揮し得る。身近な人、現実的な交流を重ねて来た人、大切な人、彼らが何かのパフォーマンスを演じているのを見た時の魅力である。たとえば学芸会や運動会で自分の幼い息子や娘がパフォーマンスしている姿を、一生懸命ビデオで撮ったり、嬉しそうに眺めたり、中には涙を流して見ている親がいるが、彼らにとって息子や娘のパフォーマンスは何ものにも代えがたいほどの感動であり魅力的な光景なのである。彼らにとって身近で親しみに満ちた存在、親しく交流し彼らの一部であると言ってもいい存在、彼らの魂といっても過言ではない存在がパフォーマンスをしている光景は、他人から見たらどんなにつまらない平凡稚拙な行動でも、思わず目を細めてしまうほどの感動を呼び覚ますのである。ネット画面内でも場合によっては同じ効果を発揮することもできるのである。それはネット内で身近に感じられる相手を発見したときであり、親しい交流を重ねたときであり、文芸作品のように魂の交流が生じたときである。その時テレビとは別の意味で魅力的な人物がネット内にも生じるのである。


電子同人雑誌の可能性 89

2016-11-03 20:45:25 | 日本文学の革命
大衆が面白いと感じることは「上から与えられたものを享受すること」である。どこか上の部分に一元的なメディア企業や組織があり、そこから流されてくるものを数百万数千万の大衆が享受するという構図である。いわば一つの晴れやかな舞台があり、それを数百万数千万もの見えない席に座った観客たちが見ているようなものである。それは上から下への一方向であり、双方向的なものではあり得ない。もちろん上の者たちも大衆の意向を深く汲み取り、その意向や好みに合うものを提供しようとしている。美しい美男美女たち、おいしそうな料理、世界各地への旅行、様々なエキサイティングな中継、面白いゲームやクイズ、楽しいコメディアンなど、それらが美しい迫力のある映像画面で流されてきて、たしかに見ているだけでも十分面白い内容である。(こういう「上から与えられたものを享受すること」は商品についてもいえる。上から与えられてくる規格大量生産された商品を享受することがかつての大衆の喜びだった)
ただ一つ、錯覚はある。たとえばきれいな女性アナウンサーがテレビ画面で満面の笑顔で微笑んでくると、まるで自分一人のために微笑んでくれているような感じがするが、それは錯覚であり、彼女は一台のテレビカメラに向かって精一杯微笑んでいるのであり、その映像が数百万数千万の視聴者に流されているだけなのである。同じようにおいしい料理があってもそれを実際に食べているのはテレビ画面の中の誰かであり、自分は食べている気がしているだけである。世界各地の旅行でも自分は実際には行っておらず、行っている気分になっているだけなのである。もちろん実際一人の美女に数百万人の相手をさせる訳にはいかず、数百万人においしい料理を提供する訳にもいかないので、こういうテレビ的錯覚は不可欠なのであるが。こういう錯覚が露呈するときが、テレビ関係者と現実的な人間関係をとろうとしたときである。そういう現実的関係はそもそも始めから成り立たないのである。たとえば普段ニコニコしてくれるからというので女性アナウンサーにニコニコ近づいて行っても、冷たく無視されるだけだろう。テレビ関係者が欲しているのはマス(大衆)としての彼だけであり、現実的な一人の個人としての彼は必要ないのである。そういう意味ではテレビは一つの錯覚の上に築かれているとも言えるだろう。(もちろんメディアとしての現実的パワーは確固としてある。数百万数千万もの人々の視線を一点(晴れ舞台)に集中させることで、大衆の精神を一つに組織し、その晴れ舞台を通じて様々な暗示や印象を大衆に与えてその精神や行動を右に左にと操作するのである。数百万数千万もの人々を動かすという、とてつもないパワーが生じるのである)

それに対してネットユーザーが面白いと感じるのは「自分がやること」である。受動的に享受しているだけでなく自分も能動的に参加し、自分の力を発揮したい、そこに面白さを感じるという存在なのである。先に述べた観客の例をとると、ネットユーザーは大衆のように観客席におとなしく座って晴れ舞台を見ているだけでは不満であり、自分も晴れ舞台の上にのこのこと上がってゆこうとするのである(しかもしばしばそれにふさわしい実力もないのに)。それができないときは晴れ舞台の映像を隠しカメラで撮って無料で流したり、晴れ舞台の様子を言いたい放題罵倒したり、不正なハッキングをして舞台装置を誤動作させたり、中には爆破予告まで流して舞台や観客を狼狽させたりと、そういうことに情熱を感じそういうことをを面白いと感じるのである。
たしかに困った連中ではあるが、そこには能動的に参加したい、受動的に操作されたくない、という意志が感じられる。コンピュータの能動的な操作性がこのような性格を育てたのだろうが、たしかに大衆的性格とは大きく異なるものを持っている。昔のヨーロッパの自立的市民を思わせるところもある。ただし革命まで起こして自由を勝ち取った責任感あふれる昔の市民ではなく、大衆的な無責任性と匿名性も合わせ持っているが。
また能動性というものが面白さの宝庫であることもたしかである。たとえ自分のすることが素人的に下手なものであっても、それをしていること自体が楽しいし、ただ見ているよりも何倍も面白いのである。

電子同人雑誌の可能性 88

2016-11-03 20:42:57 | 日本文学の革命
僕もテレビを見るというよりは見ないようになっているのだが、同じようにテレビ離れしている人々はかなり多い。特に若者たちは吐き捨てるような口調で「テレビは見ない」と言う者が多くて、驚かされる。一昔前までテレビは娯楽の王様であり、またそれにふさわしいだけの面白い番組も持っていて、毎日賑やかさにあふれた楽しいお祭りが開かれているような観があった。その頃には「テレビ依存症」という言葉もあったくらいである。いつも家ではテレビをつけっぱなしにしていて、テレビがないと生きていけないというほどのものである。実は僕にもそういう記憶があり、夜一人で住んでいる暗いアパートに帰って、部屋の電気をつけさっそくテレビのスイッチをつけたところ、テレビが壊れていてつかず、その際ちょっとしたパニックに落ち入ったのである。たとえて言うなら、夜暗い森の中に一人で取り残されたようなパニック感である。当時はインターネットなど影も形もなく、またテレビ以前の人々の具体的交流―家族、ご近所、訪問客などとの交流。当時はこのような交流が、情報の伝達であり、娯楽の提供であり、さみしさを埋め合わせてくれる親しみ感の源泉だったのである。当時は家の近くの横町をちょっとぶらつくだけでも様々な知り合いと会うことができ、寂しさを感じずにすんだのである―もなくなっており、テレビでしか人間的な交流を得ることができなかったためだろう。しかし今やネットの普及とともにテレビなど必要としない人間が増え、テレビがないとパニックに襲われるどころか、まったく平気になっている。

かつては娯楽の王様であり面白いメディアの代表だったテレビも、テレビ離れが進みどんどん面白くなくなって来ている。これには時代や社会の変化も大きな原因として働いているのに違いない。時代や社会によって人々が何を「面白い」と感じるかは大きく異なってしまうからである。
テレビの本質は「大衆社会のメディア」であることである。大衆に向けて発信され、大衆の嗜好に訴えかけ、大衆のためのメディアとして機能し、さらには大衆を操作するという機能も発揮しているメディアなのである。
第二次世界大戦後、大衆という存在が社会の様々な面で重要な役割を果たすようになった。資本主義と社会主義の冷戦時代には、二つの陣営で大衆の争奪戦が繰り広げられたのである。社会主義は労働大衆のための社会を作ると宣言し、労働大衆の間に支持を広げようとし、資本家階級に対する労働大衆の敵意を煽り、彼らの力を動員して革命を起こそうとした。古代のローマ帝国では奴隷たち(当時の労働大衆たち)の間にキリスト教が広まり、ついにはローマ帝国を乗っ取ってしまうという事態を現出したが、その再現を狙うような現象であった。対する資本主義陣営でもそうはさせじと大量生産大量消費の新たな資本主義経済を作り出した。これは労働大衆の能力をフルに発揮させるような大量生産システムを築き、同時に収益を労働大衆にどんどん還元して労働大衆の間に巨大な市場を作り出し、資本主義経済を大発展させるとともに労働大衆も豊かにしてゆくことで社会主義に付け入る隙を与えないようにするものであった。どちらの陣営が大衆を獲得するかに世界の命運がかかっていたのである。大衆は社会の主役に踊りあがり、その巨大な集合パワーがすべてを決するようになった。生産能力の向上も大衆にかかっていたし、選挙で政治家が当選できるかどうかも大衆次第であった。商品が売れるかどうか利益が得れるかどうかも大衆の購買行動次第だったのである。戦後発達したテレビというマスメディアはこの大衆社会と一体化したメディアだったのである。

ところが近年インターネットやグローバル世界が広がるにつれて、従来の大衆社会が変質してゆき、代わりにネットユーザーもしくは地球市民的な存在が現われ出したのである。この大衆とネットユーザーは(人間としてはそもそも同一人物だが)性格が大きく異なっていて、従って求めているメディアや「面白さ」も異なっているのである。ちょっとここで両者の「面白さ」の違いを考察してみよう。


電子同人雑誌の可能性 87

2016-11-03 20:39:58 | 日本文学の革命
テレビ番組表を眺めてみると、毎日様々な番組が放送されている。ニュースがありドキュメンタリー番組があり、ワイドショーがあり情報番組があり、バラエティーや芸能やコントやクイズ番組があり、スポーツ中継やスポーツニュース、災害や事件・事故の実況中継、国会の中継や政治家が出演する番組、経済特集番組や国際報道番組、旅番組や街めぐり番組や探検的番組、歌番組や文化番組や教育番組、『ためしてガッテン』など生活に役立つ番組など、実に様々な番組が毎日毎週放送されている。
僕がよく見てる番組を言うと、歴史が好きなので今はNHKの『歴史秘話ヒストリア』を毎週見ている。また『ファミリー・ヒストリー』も家族の歴史を扱った番組なのでよく見ている。『NHKスペシャル』やそれに類する特集番組も録画してよく見ている。敬服している番組に『ノンフィクション』という番組があり、これは有名人でもなければ偉い人間でもない(むしろその逆の)ごく普通の人々の日常に密着して撮ったもので、普通の映画なんかよりもはるかに感動的な人間ドラマとなっているものだ。またそれに類する『ドキュメント72時間』も見ているし、『ぶらタモリ』なんかや『ミュージック・ステーション』(ただし桑田佳祐が出演したときだけ。彼が出演していないときは「抜け殻」みたいに下らなすぎて見る気がしない)もよく見ている。

いろいろテレビを見ているのだが、しかし昔ほどには見ていない。昔していたようなテレビをつけっぱなしにしてダラダラ見るような真似は全くしなくなったし、テレビを見るときは十分厳選したものを録画して見るようにしている。自然NHKものが多くなるので、CMというものもほとんど見なくなった。たまに民放番組を見た時、画面に流れるCMが珍しく懐かしく感じられ、新鮮なものでも見るように見入ったりしてるほどだ。民放のバラエティー番組となると、もうほとんど見ていない。収益が苦しく低予算で番組を作っているせいかこの種の番組がゴールデンタイムを占拠しているが、ほとんど見る気がしないので無視している(民放のバラエティー番組を批判をしたあとでなんだが、実は僕も一度民放のバラエティー番組に出演したことがある。『銭形金太郎』という昔のバラエティー番組で、貧乏な人間たちを面白おかしく取材するドキュメンタリー的番組であった。『ネバーモア』の同人仲間だった男性から紹介されて出演することになったのだが、その頃僕は「日本文学の革命」という文学運動をやっていたので、これによって「日本文学の革命」という良くも悪しくも強烈な効果を持った言葉を世に広めホームページのアクセス数をアップしこの運動の起爆剤にしようと思い、どうせ下らないことをやらせるのだろうと百も承知だったが、勝機はあるということで火中の栗を拾うつもりで出演したのであった。出演者やディレクターたちの協力や応援も得ることができ、効果的な形で収録したのだったが、放送した結果は惨敗であり、何の成果も得られないまま笑い者にされただけで終わり、それまで築いてきた人脈もズタズタにされ、谷底に蹴落とされたような形で終わってしまった。「日本文学の革命」をブレイクさせる試みは失敗したのである。ただ今思うと、一つの得難いいい経験にはなったと思う。これについても後でどこかで書くかも知れない)。

電子同人雑誌の可能性 86

2016-11-03 20:36:04 | 日本文学の革命
このように電子同人雑誌の購読はたいへん豊かで多彩で面白いものになり得るのである。アイディアや創意工夫次第でどんな雑誌でも作れるし、また電子同人雑誌は一般的に廉価なのでたくさん購入してもそれほど金もかからない。無料に近いものや試し読みの電子同人雑誌もたくさん出て来るだろう。経済的にも一つのメディアとして成立可能なのである。

特に重要なのは電子同人雑誌はやろうと思えば自分でも作れるのである。誰かが作ったものを享受するだけでなく、自分が作りたいというテーマがあれば自分で自ら創刊することもできるのである。先に述べた5人の購読者も誰もが雑誌の制作者になることもできるのだ。自ら代表として一つの雑誌を創刊することもできるし、あるいは共鳴した雑誌に同人として加わり雑誌制作の一員になることも出来るし、あるいは協力者として雑誌を自分のネットワークで宣伝したり応援メールを送ったりイベントに参加したりもできるのである。ただ単に一つの雑誌を購読をしているというだけでも、もう能動的な交流や参加が始まっているとも言える。極めて能動的な参加型メディアなのである。交流すること、参加することで、雑誌を読む面白さが何倍にも増大してゆくのである。たしかにこういうメディアは外にはないだろう。

ここで電子同人雑誌の面白さや豊かさやメディアとしての価値をテレビと比べて見よう。テレビと同程度の面白いものや価値あるものが電子同人雑誌でもできるだろうか。
それを調べるために「面白さや親しみ」「情報性」「文化性」という側面から考察してゆこう。
まずは「面白さや親しみ」からである。