大学不認可って、創立者の大川隆法先生は、どう考えておられるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『内村鑑三「信仰・学問・迫害」を語る』(幸福の科学出版)のまえがきで、以下のように説いておられます。
全く無知なる者たちが、神を怖れず、神をこの世的に裁こうとしている現代が悲しい。
三十センチの物差しでもって、宇宙の宏さを測ろうとしている、その貧困なる科学的精神が悲しい。
学問とは真実を除外することだと考えている者たちが、大学の学長や理事長を名乗っていることが悲しい。
彼らをお金のバラまきや叙勲で釣って、飼い慣らそうとしている政治家の存在が悲しい。
明治以来、優秀な頭脳を持っていた若者たちを次々と無能に変えていった、お役所仕事が悲しい。
そして信仰なき学問で、この国が繁栄すると考えている、エセ文化人たちの存在が悲しい。
神の怒りは、東日本大震災や、御嶽山の噴火でおさまると思っている、その無明が悲しい。
(3~4ページ)
この問題に関する大川隆法先生のお考えの一端は、すでに『大学設置審議会インサイド・レポート』――大学設置分科会 会長スピリチュアル・インタビューという書籍のまえがきでご紹介しました。
しかし、天上界の内村鑑三先生にこの問題の意見を聞いた霊言集である本書のまえがきには、大川隆法先生のお考えがさらに厳しい言葉で展開されています。
「幸福の科学大学」の設置認可申請に対して文科省が不認可とした理由は、先の書籍で招霊前に大川隆法先生が語られたところでは、要するに「霊言」が基礎にある宗教の教えは科学的合理性がないから学問にならない、とでも言うもののようです。
本書のまえがきで、「全く無知なる者たちが、神を怖れず、神をこの世的に裁こうとしている」というのは、今回の文科省の行為を指しておられると読むほかありません。
仏神から降りてきている仏法真理を、「貧困なる科学的精神」による「学問」の定義で測ろうとしているなどというのは、「三十センチの物差しでもって、宇宙の宏さを測ろうとしている」ということだ。
仏法真理に基づく学問を、「学問」ではないかのように言うのは、「学問とは真実を除外することだと考えている」ということだ。
そんな愚かなことをしているのに、「大学の学長や理事長を名乗っている」という典型が、今回の不認可の責任者の一人である、大学設置・学校法人審議会大学設置分科会会長(桜美林大学理事長)だ、ということなんだと思います。
「彼らをお金のバラまきや叙勲で釣って、飼い慣らそうとしている政治家」とは、もちろん、下村博文・文科大臣のことでありましょう。
「無能」になってしまった「優秀な頭脳を持っていた若者たち」というのは、今回の手続きに関わった文科省の役人たちのことだと理解すればよいでしょうか。
「信仰なき学問で、この国が繁栄すると考えている、エセ文化人たち」とは、こんな愚かな結論に賛成してしまった審議会の委員たちを思い浮かべればよいのでしょう。
そして、最後の一行は、「神の怒り」は、東日本大震災や御嶽山の噴火ではおさまらないことを予言しておられるお言葉のようです。
この仏神の厳しいお言葉が、正しく、下村博文・文科大臣、そして安倍晋三首相に届くことを心の底から願いたいと私は思うのです。
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『内村鑑三「信仰・学問・迫害」を語る』大川隆法著
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