JAZZ最中

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闘病記を読むということ2 

2011-05-28 23:44:21 | 


闘病記を読むということ2

さて、なぜ闘病記を好んで読むのだろと考えています。
人様が辛い出来事に思い悩むことを読むにつけ、わが身の安泰に満足をえているのでしょうか。そこのところがあるような、ないような、自分を読みきれません。
又もし闘病記のような状況がわが身に降りかかった場合に、不安なのでその状況を前もって知っておこうとしているのでしょうか。
疾病の症状を読み取ることで、早期の判断をできるようにしておこうとしているのでしょうか。
また辛い状況のなかで、家族の絆を確認し、前向きに立ち向かう人の姿をよみ涙したいのでしょうか。闘病記の幾つかは、声がでるほど涙しましたし、自浄効果があることはご存知のとおり、その涙に雑念が拭われたように思った事もあります。

さてそれでは読んできた闘病記がしっかりとわが身に焼きついているかというと、ほとんど覚えていないのです。
具体的にわが身と直結していないからでしょうか、何か不安があればあたふたすますし、他に方の不幸では安泰を感じません。また、知識が蓄積できてきたかといえば、ほとんどはっきりとしたものはないのです。
この記事を書き始めて、ネットでいろいろな闘病記をまとめている「ライフパレット」の編集長今村美都氏が闘病記を読む事について書いていらっしゃいます。
“健康な方にとっても病気について知ることや人生・生き方を考えるよい機会につながることは既に述べてきた通りですが、~いざというときに備えて、適度に情報収集を心がけることの大切さは、NPO法人「女性特有のガンのサポートグループ オレンジティ」の代表河村裕美さんも述べてくださっている通りです。“
実用的にというか、そしてネットでたくさん読むことが出来るようになった闘病記にはその意味合いが強いと思います。(ここ数日で10編くらい読みました。)
私の場合は出版されたものを読んできたわけですが、それは内容もすこし重いものが多く、はっきりとはいえませんが、闘病記をしたためる方が背負った、その方だけがはっする悲しさとか淋しさに共鳴してしまうのかも知れません。
さて中島梓さんの闘病記では食べる事、睡眠をとること、排出する事が多く記録としてかかれていますが、その間もずっと小説を書く事をつづけ、最後の最後まで表現する事に縛られたようで、彼女に宿命だったのでしょう。
楽しみとしてなくなる僅か1ヶ月前にすばらしいjazzライブをおこなって、引く事の楽しさをかんじてくれたことでしょう。
大変大きな手術の後の転移と起こる症状は、もっと深刻なものときがつかなかったのかとちょっと不思議です。生きたいという表記が随所にありますので、見えなくしていたのでしょうか。
「転移」を読み終わって、JAZZのアルバムなども記録みたいにblogにしていますから、読んできた闘病記も同じように振り返られたらいいなと思っています。

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