ある40代女性の生活

40代女性の生活の一例です。
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会津のお殿様: 松平保平さんとクイズ番組

2009年09月16日 07時35分13秒 | 新聞
昨日の朝日新聞夕刊に、「人脈記 お殿様はいま 1 ならぬ事はならぬ会津魂」という記事がありました。

お殿様は、今の日本人にとってどういう存在なのかを考えるシリーズの1回目です。

会津藩のお殿様は、松平保平(もりさだ)さん(83歳)です。

東京で生まれ育ち、大学卒業後は、農林中央金庫に29年勤務しました。
2年前に、磐梯山と猪苗代湖が見えるマンションに、妻と2人で引っ越しました。

長男の松平保久(もりひさ)さん(55歳)は、NHKエンタープライズでプロデューサーをしています。

クイズ番組で「明治元年の戊辰戦争の際、会津若松城に籠城した人たちが城を明け渡した理由とは」答えは、「糞尿が城にたまったから」という問題が出され、会津藩関係者が怒り、会津若松市長の菅家一郎さんも抗議文を送りました。

テレビ会社は謝罪放送を行いました。

放送の翌日、松平保久さんは、菅家市長に
「松平の一員としても非常に不快に思っておりました。市長はじめ市民の皆様も同じ思いを持ち、実際に行動を起こして頂いたことに深く感動し、うれしく思っております」とメールしました。

会津若松商工会会頭の宮森泰弘さんは、
「振り上げた拳を、あのメールでようやく下ろすことができました。我々の先祖は、松平家とずっと一緒に生きてきました。今でも精神的はシンボルです」
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会津藩には、2代将軍徳川秀忠の子どもの保科正之が366年前に入封しました。
3代藩主から松平姓になったとのことです。

自分の出身地のお殿様のことは知っていますが、他藩のお殿様のことは聞く機会がなく、興味深く読みました。


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大鵬親方: ロシア人の父

2009年09月16日 07時05分09秒 | 新聞
昨日の朝日新聞夕刊に、「人生の贈りもの 第48代横綱大鵬 納谷幸喜 2」という記事がありました。

横綱大鵬さんが、これまでのことを語ってくださるシリーズです。

大鵬さんのお父さんは、ロシア人なのだそうです。

お母さんの納谷キヨさんが、小樽の出身で、洋服の仕立てをしていましたが、人に誘われて樺太へ移り住みました。

敷香(しすか、現在のポロナイスク)で、ロシア革命を逃れて亡命していたウクライナ系ロシア人のボリシコ・マリキャンと出会って結婚、大鵬さんは末っ子として生まれます。

家は牧場をしていて、当時の樺太には王子製紙の工場があり3万人以上の人が住んでいた敷香の町全体に牛乳を配っていました。

お母さんによれば、お父さんは「貴族で、船いっぱいに財産を乗せて亡命してきた」のだそうです。

しかし、その頃、白系ロシア人にスパイ容疑がかけられ、お父さんは収容所に集団で入れられてしまいます。
家族も収容所行きだったところを、「家族はいない」と主張して1人で収容されました。

お父さんは、終戦後まで生きられて、日本人が引き揚げるときに通訳をしたり、裁判で弁護してシベリア送りになりそうな人を助けたりされたということです。

「最後は博物館だか役所みたいなところで働いていたらしい」

大鵬さん兄弟とお母さんは、終戦間際にソ連が宣戦布告したため、北海道に引き揚げます。

屋根のない列車にすし詰めで乗せられ、列車は夜だけ走ります。
海岸沿いに走る鉄道へは、艦砲射撃がありました。

お母さん、お兄さん、お姉さん、大鵬さんの4人で、皆が2~3人前の荷物を持ち、お母さんはミシンの本体を大事に持ちました。

敷香を出る最後の列車に乗り、港のある大泊(現在のコルサコフ)まで3日かかって到着し、大泊発の引き上げ船も最後の小笠原丸に一家が最後尾の乗客として乗れました。

稚内に着いたとき、1500人いた乗客の半分が下りました。
「この後、小樽にも行くから乗っていったら」と言われましたが、お母さんが「船はこりごり」と船を下ります。

翌日、小笠原丸は魚雷攻撃で沈没し、間一髪で生きて帰ることができました。

お母さんが実家のある岩内に帰って、学校の先生と再婚したため、1年ごとにへき地へ引っ越す少年時代だったということです。
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大鵬さんは、「巨人、大鵬、卵焼き」と言われた相撲界で人気の横綱でした。
体が大きく、強くて、ハンサム、態度は紳士的だったので、特に女性に人気があったそうです。


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