54歳からの欧州一人旅と日々をつれづれに

思いつくまま時、場所を選ばず綴ります。

3/23(日)石老山登山

2014-03-24 17:06:32 | 近隣
“やった~~~ 娘と石老山登山!!”

高尾10:16→10:24相模湖→バス→石老山入口下車 登山道標識10:53

こんなに凄い岩山なんだ~ 登山者いなくてちょっと心細い

顕鏡寺

鐘楼 心を込めて3回 12時ちょうどに勢いよく撞いた 登山中に聞こえた音が元気をくれたから

石老山頂上 13:30 予定より大分遅い まだ~?まだ~? やっと着いた
“娘と登山する”と言ったら知人がお弁当を手作りしてくれた 美味しかった!! 頂上には数人いた

下りは楽だと思ったらこれまた大変 古木や木切れが何に見えるか?面白いもの探ししたりして…

こんな所があったんだ! 360度の眺望は最高! 富士山はかすかに確認できる雲の中で残念 
また来れるかな~ 展望台にいた人に聞いたらこの先の下りも結構きつい!と
 
ほんとに険しい道 誰も来ないし道は大丈夫なのか心配した 石老山の標識あった~ 車道に出た
バス停に向かう途中に「渡し船乗り場」案内あり 娘に湖畔まで行ってもらったがボートがあるだけで人は
いないと 疲れているのに下ってまた上りバス停へ バス1時間1本 相模湖駅きれいになった17:17 
石老山登山は4時間 8kとあったが登山口10:53~16:00車道まで5時間以上かかった 歩数2万歩

武蔵境の駅階段一歩づつしか下りられず心配したが今日は達成感で心地良い痛み程度
ハイカットの登山シューズは足首が痛かった 買った所で柔らかくしてくれると言ってたから持っていこう
海外一人旅もしたいが元気なうちに低山登山もと思っているのだけれど果たして… 

追記:20.5.11 画像削除なし(石老山頂上で富士山写ってるのに感動記入なく今も思い出さない
お弁当手作りしてくれたの誰だったかな~ これが最後の山登りになった)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

運転免許返納 近隣 パソコン苦戦

2014-03-21 21:29:37 | 日記・雑記2011.1~
3/11 3年前の地震発生時私は免許更新を済ませ自転車置き場に向かっていた 忘れられない日
もう乗ることのない免許証をこの日返上することにした 左:試験場自転車置き場そば14:00 
受付の人は“ほんとに使わなくていいんですか?”と念を押してくれた 待ちⅠ時間 費用1000円
写真入り経歴証明書は今までの免許証と同サイズ 持参写真は不可 試験場で撮ったもので交付
 
帰路14:46 野川自然観察園で黙祷 いつ来ても落ち着ける 3年前は梅が満開だった  

 久々の自転車 神代植物園や井之頭公園より遠いので迷ったが快適に乗れた
*運転経歴書提示で美術館が優待割引されたり返納サポート協議会加盟企業の優待も 
貰った冊子に自転車注意…警察で反射シールをくれると書いてあり貰って靴後ろに貼った

3/16(日) 自転車で近隣(調布飛行場 野川自然観察園 深大寺)
 
右:パソコン苦戦3/5 goo編集画面の「プレビュー」表示が出なくなった gooに質問しても解決せず諦めていたが3/20 とうとう電源が入らなくなり新しい複合機セットにも苦戦 ヨドバシカメラで教えてもらい何とかスキャンできるようになった 東芝・キャノン共サポートセンターの電話は全然繋がらなず… 
追記:20.5,11 画像削除 9枚 文修正
追記:20.5,13 画像削除 1枚  削除ミスしたらしいがスマホには✖画像ある 色々面倒 

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3/12 浜離宮→水上バス→旧安田庭園

2014-03-17 12:10:56 | 都内
3/12(水)天気が良いので菜の花を見に浜離宮へ

先に新橋駅前ビルのおいしいビーフンを食べ、ついでに駅前の機関車を写 
右:浜離宮への途中に旧新橋停車場 12:50

汐留はいまだに工事中 遠回りで新橋から浜離宮恩賜公園まで15分位かかった


菜の花と梅の香りをベンチで堪能し少し行くと水上バス乗り場 15分ほどで出航と
庭園はまだ他に見ごろな花はないし、また駅へ歩くより両国へ出て帰ることに






前回は2013.2.3葛西臨海公園からちょうど出航時間のに乗って両国まで1600円
今回は600円 最初の両国で下りず浅草まで行きそのまま両国に戻っても600円とのこと
14:06~15:00 充分満足した 両国下船すると目前右に国技館、左に旧安田庭園

旧安田庭園は気になっていたが入ってないので寄った 

右2枚:大江戸線で都庁前下車住友ビルの朝日カルチャーセンターでパンフレット色々貰い
吉祥寺で取り置きしておいたハイカット登山靴支払持参 低山ハイキング夢見ているが… 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の旅したバッハゆかりの地 7 完

2014-03-15 13:07:14 | 『冊子バッハ』
  私の旅 〔Ⅶ〕
 2003.7.16~7.31 (16日間)
16回目の旅はチェコの世界遺産を見ることに挑戦した チェコを一人歩き出来るのか心配したが親切な人につぎつぎ出会えて楽しい思い出で埋め尽くされた チェコへの入り方はドレスデンからプラハにエルベ川を遡るザクセンのスイスと呼ばれる列車の景色を選んだ 今回の旅のもう一つの目的にルターが晩年を過ごしたルターシュタットを訪れることもあった まずベルリン1泊(日本で予約) バルト海の港町ヴィスマール、ロストック、シュベリン、シュトゥラールズンドを宿泊しながら周り、ノイブランデンブルクに途中下車し散策してからベルリン経由、ルターの町ヴィッテンベルク13:28着 小さな町で駅前には何もなく宿を心配したが町に入る手前で良いのがすぐ見つかった その日のうちに有名な「95ヵ条の論題」を張り出した教会の扉、ルターが宗教改革のあと妻と6人の子供と暮らし亡くなるまで過ごした家、城内教会、マリエンキルヘへ、クラナハの家を見た 
7/20ヴィッテンベルク 8:04発 途中デッサウ1時間半弱、ハレ 2時間半散策、ライプツィッヒ経由ドレスデン15:47着 2度目のドレスデンは初回から5年経ち大分きれいになっていたが、まだ工事中や壊れたままのものが多かった この町は第2次大戦で全滅してしまっている 7/21 7:59ドレスデン発 ザクセンのスイスの景観を堪能して10:47プラハ・ハラショビツェ着、中央駅への乗換えでは私のへたなドイツ語を聞きとってくれる人もなく暗い気分になった プラハの駅のインフォメーションも感じが悪かった 予約してあるホテルに行くのも迷って大変だった やはり大きな町は苦手 その日のうちに世界遺産クトナホラへ往復した プラハ1泊後、ブルノ2泊、テルチ1泊、ヘプ3泊でチェコの世界遺産の予定したものは見ることが出来た ヘプ滞在中カルロヴィ・ヴァリに行った 町のようすが分からないが鉄道パスがあるので駅に着いてから考え臨機応変に移動するつもりだった 駅にいたおじさんに街への行き方を聞くと、教えて別れたものの気にかかるらしく少しずつ教えてもらううちに一日中付き合わせてしまった 私と同年代くらいで孫を駅まで送ってきたとのこと ドイツ語も少し通じて戦争体験や洪水被害の話をしてくれた 地図や温泉水を飲むかわいいカップ、名物のワッフルまで買ってもらった 町で配っていたパンフレットをこのおじさん(カールさん)が受け取ったのを覗くと教会でバッハが聴けるようだった カールさんも興味があったらしくコンサートも付き合ってくれた バッハのほかにモーツアルトの「アヴェヴェルムコルプス」などを白い高い天井の美しい教会で聴くことができた 3時からのコンサードでの間にロープウェイでディアナ山に上ったり町を案内してもらった 17:30カルロヴィ・ヴァリ発の列車でヘプ18:34に戻った
 
 チェコで7泊し、ヘプ8:23発、ニュルンベルク経由ミュンヘン12:15着 ミュンヘン2泊してコペンハーゲン経由帰国した 
 帰国後カ‐ルさんに写真を同封して手紙を出したが返事はもらえなかった


*カルロヴィ・ヴァリ: バッハはケーテン時代レオポルト候がこの保養地に滞在する際音楽は重要であり同行した 
1718.5.9発ち7.12にケーテンに戻った時13年連れ添った最愛の妻バルバラは7.7に死去埋葬されていた バッハが何度も来ていたことを私は後で知った
 ベートーヴェンとゲーテが並んで歩いた(ゲーテは紳士風にベートーヴェン反対の姿)とかベートーヴェンの不滅の恋人によく載る地だがバッハに関することはなかった
深い谷あいにある長い歴史を持つ温泉保養地 中世以来何度も洪水や火災、戦災などの被害を受けた 間欠泉ウジードロは、地下2500mの所から、毎分2000ℓの温泉水を12mの高さまで吹き上げている 名物はスパ・ワッフル、強い酒ベベヘロフカ 

後記:「バッハ編」途中まで草稿出来ていたが 3/5からのgoo編集トラブルいまだ解決せず゜パソコンに苦戦
[Ⅶ] 写真は省略します ベルリン ドレスデン カルロヴィ・ヴァリはバッハ関連の地です 下線部リンクで見てください 統一してない部分、重複など気になりますが゛編集画面が正常でないので「バッハ編」終了します


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私が旅したバッハゆかりの地写真6

2014-03-14 21:03:12 | 『冊子バッハ』
私の旅[Ⅵ] 続き2 6/27(水)ツヴィッカウ08:48→ 11:41エアフルト11:53→ 12:17アルンシュタット→ゴータ→
21:06アルンシュタット(ドイツパス 9日の内 5回目使用)クローネ1泊90DM

ツヴィッカウ 8時前ホテル近くのヨハニスKに行くと鐘が鳴り大勢の人が入っていく そして演奏が…

予定の列車で今回の旅で特に興味のある、青春時代のバッハの地アルンシュタットへ 
エアフルドでの車中で16歳の少女たちの賑やかなこと
いつも心配なホテル探し、駅すぐに素敵なホテル、100DM(約5,400円)を90DMにしてくれた ラッキー!

アルンシュタット荷物を置きすぐ町へ バッハ一族の本拠地 1703年 18歳 オルガニストとして就職
ここからリューベッグでオルガンを聴きに歩いて行ったり、バルバラと知り合い後に結婚したり…
右:市庁舎前に建つ椅子にのんびり座り足を投げ出したバッハ像に親しみを感じる 

青年バッハが住んだ小さい町を感慨深く散策 バッハ記念館にはバッハが弾いたオルガンがあり
その頃のカツラ屋の様子も興味深かった 右:インフォメーションに行き情報入手、オールドゥルフは止めて
パス有効利用でゴータへ行くことに 大きな封筒貰って自分宛郵便も送れる 親切 

左:ナイデック城跡 バッハ教会2度行ったが入れず残念 近くの坂道角の店先で目に付いたアヒル買う
(写真下にあり)  右:コールガッセのバッハの家の跡は空き地だった 
アルンシュタットが古文書に登場するのは704年、発掘物から人々の居住が始まったのは
紀元前4000年-1800年と推定され、954にはオットー1世が帝国会議を開いた
バッハは22才の時この町を離れ、ミュールハウゼンに1年いた後、ワイマールの宮廷礼拝堂オルガニストに
迎えられた この町にバッハが18歳で招かれた時ボニファーティウス教会は(現在のバッハ教会)
新しいパイプオルガンを建造中だった ここでいくつもの作品を創作している 
クラヴィーア曲 『最愛の兄の旅立ちに寄せるカプリッツィオ』、オルガン曲 『トッカータとフーガニ短調』…
(ここから西へ12Km の小さな村オールドゥルフは9歳で母を、10歳で父を失ったバッハがこの村の教会オルガニストになっていた長兄ヨハン・クリストフのもとに引き取られ、この兄からオルガンとクラヴィーアの手ほどきを受けた所 学校教育も受けさせてもらった この兄なくして大バッハはあり得なかった)
  
アルンシュタットは丘の上に見所が集まっている ( 読んだ本の若いバッハのあれこれが思い出されもっと散策したかったが、暑くて食欲なく市庁舎広場に面したお店でサラダを注文して昼食にした後、駅に行き明日のプランの相談をしたが小さな駅は心もとない エアフルトかゴータなら大丈夫かと…)
小物写真 左:後ろ左2つ:アルンシュタット 前兎:ケーテン 前右2つ:ツヴィッカウ 後ろ兎:マイニンゲン
右:後ろ左2つ:ベルリン SLバッチと笛:ベルニゲローデ アヒル:これから行くアンスバッハ 鳥:オーバーストドルフ

ゴータ列車も丁度ありゴータのDBでプランを貰えてひと安心 何時の列車に乗り帰ったか?
2時間滞在のメモはある 左から:町の中心に向う途中の「紅茶の小城」、絵葉書マーガレットK、
マーガレットK、市庁舎、坂道の上のフリーデンシュタイン城、ここで引き返しSバーンに乗って駅へ
   
2番目エアフルト乗り換え時4番線と言われたが2番線だった 確認は念入りに!
1時間の待ち時間にお金の計算… 21:06アルンシュタット着 右:6/28(木)アルンシュタット Hクローネの朝食
バッハが住んだ所に絞った今回の旅 10才~15歳の地オールドルフだけ残してしまった
これで私が旅したバッハが住んだ地の投稿は終了 トラブル解消せずこの投稿はGoogleChromeで


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私が旅したバッハゆかりの地写真5

2014-03-12 22:08:57 | 『冊子バッハ』
私の旅 [Ⅵ] 続き1 6/21(木)ベルリン・アレクサンダー12:30→ 13:15ポツダム ポツダムペンション1泊40DM

ベルリン Hフォーラムの朝食 ペルガモン美術館→ニコライK→フラウエンK 12時

ベルリン Hフォーラムに預けた荷物を取りによってポツダムへ

ポツダム ペンションへは市電で 荷物を置いてまた市電でサンスーシ宮殿… 


ポツダム オランジュリー宮殿→サンスーシ宮殿(宮殿内見学16:00~16:40 16DM)
 
ポツダム左:この門近くで焼きソバとビール美味しかったと日記に 隣り:ペンション庭(チロル風だが
いまいちのセンス大きなバスルームあるが寒そうで入らず顔も洗わずズボンもはいたまま寝たと日記に)
右2枚:6/22 朝ポツダム駅7時 

6/22(金)ポツダム07:14→ 08:10マクデブルク09:10→ 10:22クヴェトリンブルク11:36→ 
13:31ケーテン15:33→ デッサウ→ 16:47ライプツィッヒ Hノボテル 2泊
心残りだったが予定通りケーテンへ クヴェトリンブルク滞在10:22~11:36
 
クヴェトリンブルク10分ほどのWegeleben乗り換え時ホーム待ち30分は寒かった 2回乗り換えてケーテン

左:私が買った手作り兎にMimmiと一緒に名付けその兎を持つ店員 右:バッハ広場のバッハ像
バッハが32歳~38歳住みブランデンブルク協奏曲など多数作曲 35歳の時4人の子供を残して妻死去
36歳で16歳年下のマグダレーナと再婚 37歳でライプツィヒに転居(ケーテンの前はワイマール23歳~32歳)

ケーテン2時間滞在13:31~15:33右2番目:聖ヤコビ教会壁のバッハ14:05
デッサウもゆかりの地だが疲れたので下車せず、ライプツィヒ16:47着

6/23(土) ライプツィヒ滞在 駅前のHノボテル2泊は日本で予約済

2番目:ホテルの部屋からの眺め、今回の旅で最高の宿だが1泊6,500円 宿探しはいつも苦労する

ライプツィヒ ゲバントハウスそばで11時の鐘の音 
中:メンデルスゾーンの家と中庭(1847年38歳この家で死去)
右:メークデの噴水

左:ゲバントハウス前のオペラハウス 次:ニコライ教会が見える 次:ニコライ教会2枚(ドイツ統一はここから…)
右:市庁舎前では日曜なので色々賑やか 

6/24(日)ライプツィヒ続き ライプツィヒ12:26→ 14:14ケムニッツ Hメルキュール1泊

ライプツィヒ 戦いの記念碑を見て、再度ゲーテ像、アウアーバッハケラー、マイセンの鐘、マルクト広場…
 
ライプツィヒ日曜でマルクト広場は賑わっていた 真ん中写真の人たちはケムニッツから来ていると 
右:ライプツィヒ駅ホーム  ケムニッツへ 1時間40分車窓満喫 車両にはずーっと2人だけ





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私が旅したバッハゆかりの地写真4

2014-03-10 17:48:35 | 『冊子バッハ』
私の旅[Ⅵ] 2001.6/17(日)フランクフルト07:49→ 08:49ギーセン08:54→ 09:44アールスフェルト11:25→
 12:10フルダ13:08→ 15:23ミュールハウゼン Mirage1泊

アールスフェルト2時間弱、フルダ2時間途中下車後、バッハがバルバラと結婚した地ミュールハウゼン
「5回目の旅」で5時間を過ごしたアイゼナッハ(バッハ誕生~10才の地)で乗り換えると車窓は長閑な景色に

地図は手書きで写して持参 ミュールハウゼン駅 駅前に建物なく、日曜でもあり宿を心配したが
駅近くの1軒目で見つかった なぜかだれもいないが教会前のきれいなホテルMirage(109DM約6,000円)
日記に部屋が白で統一、静か、窓からはすぐ下に教会、遥か向こうに丘、雀が鳴いている、と 

日曜の午後、人がいない? バッハが1707年(22歳)オルガニストに任命された「聖ブラジウス」へ16:30

St・マリエンで子供の演奏会(4DM)をやっていたので17:00~17:30 中庭も見せてくれた
可愛い市庁舎入口 小さな町をぐるっと回る 静か! 

2番目:2階窓に兵士の人形が並んでいる 右:町はずれ門まで行き金網越しに撮る

6/18(月) ミュールハウゼン8:54→ ライネフェルト09:10→ 09:57ノルトハウゼン10:08→ 12:06ドライアンネンホーネ
12:35→ 13:18ヴェルニゲローデ Altstadt1泊

朝食7時に行くと広い食堂に私1人だけ、こんなにハムなどが… 駅3分へ、ヴェルニゲローデまでの切符を買う(SL含め34DM 7:30-8:30) ホテル傍に学校あり  右2枚:部屋の前に見えていた教会 

昨日よく見なかった聖ブラジウス(5分)へ急いだ 丁度係りの人が扉を開けているところで、
感動して写真を撮っていたら私が入ったのは知っていたのにまだいることに気付かず、
もう少しで閉じ込められそうになった たまたま開けた時間に出会った不思議!!
小さな町だから8:31発の列車に間に合った 発車は遅れて8:54 SL乗り継ぎ大丈夫?


ノルトハウゼンホームで約30分 これからハルツの森を縦断 右:日常利用のような駅にも止まるSL 

6/19(火) ヴェルニゲロ^デ8:32→9:24ヴォルフェンヴュッテル10:38→10:48ブラウンシュヴァイク13:00→14:21ベルリン

左:テレビ塔とForumと赤い市庁舎 ニコライ地区へ(この辺りがベルリン発祥地)ニコライK(1230年最古) 
ニコライ地区で私が買ったベルリナーベァを持つ店員18:30 右:ニコライ地区からの大聖堂

ウンターデンリンデン→ブランデンブルク門→大聖堂へ なんと19:00~のコンサートありチケット買えた24DM
約1300円で大聖堂の演奏が聴けるなんて夢のよう!おまけに演奏後内部見学自由、写真可
軽食サンドウィッチ、ワイン、ジュースも付いて…お腹空いていたし、もう最高!カメラズームなし安物で残念

 6/20(水)ベルリン滞在 ポツダム往復(アレクサンダー駅09:30→10:15ポツダム17:00→17:30ツォー駅)

ポツダムサンスーシ宮殿へ駅から歩いた フリードリッヒ大王は35歳~74歳までの殆どをここで過ごした
左2番目:大王の「愛犬と共に」という望みが1991年漸く叶えられここに眠っている
広い庭園に案内板がなくやっと中国茶屋(写真なし)右:ローマ風呂の庭、下左:ローマ風呂前?見つけた
 
ポツダムインフォメーションで聞いたペンションへ市電で行った 湖すぐで安くて気に入った(40DM2,200円)
ポツダム宣言のツェツィーリエンホ-フが湖の向こうに見える ツェツィーリエンホ-フ 8DM 1945年7月17日
米・英・ソ連の首脳会談が開かれ、ドイツの戦後処理と日本を降伏させる策が話し合われた部屋が
当時のまま保存されていたのは心に残った ポツダムで6時間45分過ごしベルリンに17:30戻る

ベルリンカイザー・ヴィルヘルム→Ka・De・We屋上でカリーブルストとビール→ベルリンフィル前→ホテル20:30 





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私が旅したバッハゆかりの地 6 

2014-03-08 21:18:02 | 『冊子バッハ』
*手作り冊子バッハ編 《私の旅 6 写真》 次頁コピー

『 アルンシュタット時代 』 1703~1707
 アルンシュタットはワイマールからほぼ30キロにある城下町。1703年6月同地の新教会のオルガンが完成した。このオルガンの鑑定を18歳のバッハが行った。その試奏はすばらしく、8月9日バッハはこの新教会のオルガニストの地位を得た。ワイマールのヨハン・エルンストのもとで「楽師兼従僕」を5ヶ月あまり勤めた後、本格的に音楽に専念できる職をやっと得たのだ。労働条件もよく自分の勉強のための時間もふんだんにとれた。だが聖歌隊と楽団は悩みの種だった。
 新教会は3つある教会の中で最下位のランクで、礼拝音楽に必要な聖歌隊や楽団を構成するとき、主力となる教会学校の生徒や市の楽師のなかで、一番能力の劣るメンバーしか回してもらえなかったのだ。そんな彼らを指揮することは若く、教えた経験もないバッハにとって耐え難いものであった。年長のメンバーでも妥協せず怒鳴りつけていた。憎まれ役となったバッハは報復をうける。市庁舎広場を通りかかったバッハに、たむろしていた聖歌隊のひとりが殴りかかってきた。バッハは反射的に剣を抜いていた。二人の争いは聖職会議でとりあげられ、ふだんから生徒達と折り合いの悪いことが公に暴露されてしまった。北ドイツの空気が吸いたくなり、4週間の休暇を願い出てリューベックに向かったのも頷ける。ブクステフーデのオルガン演奏を聴くために出かけたのだが、この巨匠の演奏のすばらしさに魅了され休暇はいつの間にか4倍も延長されていた。久しぶりに帰ってきた彼の演奏を会衆は理解できず、見知らぬ婦人(バルバラ?)に教会内で歌わせたと非難されたりもした。
 しかしこの町には、親族と集い騒ぐ楽しいひとときがあった。後に妻となるバラバラもいただろう。ビールの町であったことも、ワインやビールに目がなかったバッハにはたまらなかったに違いない。恵まれた私生活のできたこの時期には、二人の兄にクラヴィ-ア作品を書いている。ヤーコブに「旅立つ最愛の兄に寄せるカプリッチョ BWV992」、長兄に「カプリッチォ ホ長調 BWV993」を。
 彼は新天地を北へ30キロのミュールハウゼンに見つけることができ 1707年6月29日アルンシュタット市参事会に新教会の鍵を返した。
 音楽にはあくまで自己を貫き、生活の場では十二分に楽しむ…… 青春の4年間であった。

『 ミュールハウゼン時代 』 1707~1708
 アルンシュタットの環境に不満を抱いていたバッハはひそかに転職先を探していた。生活の辛酸をなめてきたバッハは慎重に行動した。ミュールハウゼンの主要教会のひとつである聖ブラジウスの就職試験の結果を手にし、任命式を終えて、はじめてアルンシュタットの市参事会に辞職を申し出た。歴史ある帝国自由都市ミュールハウゼンの主要教会のオルガニストという地位はアルンシュタットとは格段の差があった。年報は同じだったが前任者よりは多く、現物支給や引越し費用の支給もあった。
 この町で作曲されたカンタータは5曲残っているが、おびただしい数のカンタータの中でも人気のある作品だ。母方の伯父が遺産を遺してくれたお蔭でバルバラと結婚することもできた。
 バッハの向上心は存分に発揮され、オルガンの改造計画案も受け入れられた。だが彼はわずか1年で「解雇願い」を出したのだ。理由には諸説あるが、思うような教会音楽を書ける状態でなかったことは確かだろう。今回も次のワイマールの職を決めてから行動した。1708年夏、新妻バルバラとその姉を連れて馬車で旅立った。そのときバルバラは長女をお腹に宿していた。「チューリンゲンのローテンブルク」とも呼ばれる町で旧市街の周りには市壁の跡、塔の遺構が残っている。

『 ケーテン時代 』 1717~1723
 ワイマールの宮廷楽長を諦めざるを得なかったバッハにとって、ケーテンの宮廷楽長へ高給での招聘は願ってもないこと。ワイマール公に再三解雇を願い出るが拒否され、ついに「禁固処分」になる。4週間で釈放され、早々にケーテンに向かった。
 ケーテンは小さな城下町で、当時23歳の若い領主レオポルト候の統治するアンハルト侯国の首都であった。ライプツィヒから50km、ルターの町ヴッテンベルクから40kmにあり、宗教改革後はルター派の影響下にあった。ところが1596年以降カルヴァン派であり、ルター派に対する圧制が続いていた。
レオポルト候もカルヴァン派であった。彼は幼少より音楽を愛し、領主になる前にオランダ、イギリス、イタリアを旅行し見聞を広め、また実際に学んだ。ヴァイオリン、クラヴィーア、ヴィオラ・ダ・ガンバの演奏は素人の域を脱した腕前で、美しいバスの声を持つ歌い手でもあった。彼はバッハを尊敬すべき友人として扱い、バッハの息子の洗礼の際は代父もつとめた。二人の結び付きはバッハがケーテンを去ってからも続き、バッハは何度もケーテン宮廷で演奏している。
 1713年ベルリンの宮廷楽団が解散になった。プロイセン国王フリードリヒは音楽より軍の拡張に熱心であったからで解雇された楽団員の中の少なくも5人はケーテン宮廷楽団に入った。1716年には18名の楽師を誇るまでになったが1717年宮廷楽長のラインハルトが去り、その後任としてバッハに白羽の矢がたてられたのだ。そしてレオポルト候に招聘され、破格ともいえるほどに厚遇された。
ケーテンで残された作品は少ないが宮廷生活を反映するかのように明るく力強い表現にあふれている。
だがレオポルト候はカルヴァン派であるため、宮廷楽長のバッハは教会カンタータを書く機会はなかった。カルヴァン派は礼拝に音楽を禁じ斉唱のみであった。このような環境でも年2回バッハのカンタータが鳴り響いた。それはレオポルト候の誕生日と元旦の祝賀カンタータである。
 1718年5月、レオポルト候はバッハと5人の楽師、さらにチェンバロまで持参のうえ、保養地カールスバート(カルロヴィ・ヴァリ)に旅立った。ここは当時貴族たちの集う場所で、候とバッハは2年後の1720年5月にも訪れた。7月に帰宅したバッハを待っていたのは悲嘆にくれた4人の子供たちであった。元気に見送ってくれた13年連れ添った妻バルバラが突然世を去り、7月7日にすでに葬られていた。35歳のバッハは12歳をかしらに5歳までのこどもをかかえ途方にくれた。
 家庭生活の激変したこのころ、仕事のうえでもレオポルト候の音楽に対する出費が減少し、宮廷楽団も
縮小され始めていた。1720年9月バッハはハンブルクに向かった。聖ヤコビ教会のオルガニスト、ハインリヒ・フリードリヒが世を去り後任を探していた。11月28日の試験演奏に名乗り出たのはバッハを含め8名であった。しかしバッハは12月10日のレオポルト候の誕生日の準備のため滞在できず、これに先立ち聖カタリナ教会で2時間以上のオルガン演奏を行った。かつてリューネブルク時代、憧れのラインケンの演奏を聴いた演奏台にケーテン宮廷楽長として登ったのである。97歳になっていたラインケンはじめ、市参事会員や有力者たちを含む聴衆はバッハの即興演奏を絶賛した。ケーテンのバッハに採用通知が届けられるが12月12日の委員会にバッハからの返答はなく、1週間後に再会した委員たちは、彼がハンブルクの申し出を断ったことを知ったのである。この理由は、採用された人物が多額の寄付をしていることから金銭面からと思われている。
 1721年バッハは再婚した。2度目の妻のアンナ・マグダレーネはソプラノ歌手で16歳年下であった。突然4人の子供の母になった彼女の日常は楽ではなかったろう。12歳の長女ドロテアの助けがあったに違いない。すぐれた音楽家であった彼女は夫の作品の筆写作業を数多く手伝っている。バッハも彼女のために2冊の「音楽帖」を贈っている。バッハの再婚の8日後、レオポルト候が結婚した。その妃は音楽嫌いであり、バッハは本気になってライプツィッヒに目を向けた。

追記:バッハが生活した町の中で10歳から15歳までを過ごしたオールドルフだけ行くことができなかった。ここは第2次大戦で破壊され尽くされ、その後バッハが仰ぎ見た「聖ミカエル」はいち早く蘇っていたらしいが、交通手段、町の地図など調べることができず諦めた。
『オールドルフ時代』1695~1700
9歳で最愛の母が他界、翌年には父も世を去り10歳のバッハと13歳の兄ヤーコブはオールドルフの長兄クリストフ(24才)に引き取られた。クリストフは優秀な音楽家でバッハはクラヴィーアの基礎を学んだ。有名な逸話として“兄の持つ「南ドイツ楽派の巨匠たちの作品集」を、こっそり月の光のもと6ヶ月かけて書き写したが兄に取り上げられ世を去るまで戻らなかった”という話が追悼記にある。兄ヤーコブはすでにアイゼナハに戻り修行していた。バッハは15歳を目前にして共にラテン語学校で優等生であったエルトマンと連れ立ち、豊かなハンザ都市リューネブルクへ300kmの道のりを徒歩で向かった


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私が旅したバッハゆかりの地 5

2014-03-07 18:31:10 | 『冊子バッハ』
 私の旅 〔Ⅵ〕
 2001.6.15~7.06 (22日間)13回目の旅の前半プランはバッハを意識した フランクフルト駅そばで2泊したので鉄道駅インフォメーションでゆっくり相談でき予想もしないヴェルニゲローデへSL列車旅もできた ミュールハウゼンへの途中アルスフェルトで下車し2時間ほど町を見て11:25→12:10フルダ13:08→15:23ミュールハウゼン1泊 宿はすぐ駅近くに決まった 日曜で町に人がみえずホテルの客もいなかった 小さな町で着いた日に一回りできた 翌早朝また聖ブラジウスに行った 扉が開いていたのでだれもいないバッハの教会で感慨に浸っていたら外から関係者が扉を閉めていた 危うく閉じ込められるところで声をかけたらその人は笑顔で待ってくれた バッハが22歳から23歳の新婚時代を過ごした町、その空気の中に自分がいたのが不思議に思える その後ハルツ縦断鉄道のSL列車でハルツ地方1,2を争う古い家並みの残るベルニゲローテ゛へ ミュールハウゼン8:31→ライネフェルト→ノルトハウゼン→ドライアンネンホーネ→ベルニゲローデ13:18着 また駅前に宿がすぐ決まった 1泊して翌早朝お城まで30分歩いて登ってからベルリンへ 途中大きな町ヴォルフォンヴュッテル下車1時間、ブラウンシュヴァイクにも下車2時間を過ごし14:21ベルリンツォー駅着
ベルリン2泊 全てが大きく“ちょっと散策”とはいかない 駅そばの高層ホテル「フォーラム」2泊したが上階だったため揺れて気持ちが悪かった ベルリン大聖堂のコンサートに行けたのは幸運 コンサートには軽食と内部の案内まで付いていた ベルガモン美術館も見応えがあった 次にポツダム1泊 サンスーシー宮殿、ツェツィーリエンホーフ宮殿の“ポツダム宣言の間”も見た 次の宿泊地ライプツィッヒに行く途中ユネスコ遺産のクヴェトリンブルクに寄った すばらしい町だったが1時間の散策でがまんして ケーテンへ13:31着 ベルリン、ポツダムと大きな町からケーテンに来てほっとした 疲れてしまい2時間しかいなかったが小さな町なのでほゞ見れた 
16:47ライプツィヒ着 ライプツィヒ2泊 駅前のHノボテルを予約しておいた 上階で眺めよく部屋も食事も今までの最高 2度目のライプツィヒは初回から10年経ちきれいになっていた メンデルスゾーンの家 ゲヴァントハウスでプロムシュテット指揮のコンサートも行けた 
6/24(日)「戦いの記念碑やマルクト広場など12:26の列車までライプツィッヒで過ごしケムニッツへ
6/25ケムニッツは高層ビルが目だって工事中も多く、翌朝ツヴィッカウに向かった 気にいって2泊した 「シューマンの生家」にも入った 急遽決めたチェコとの国境駅ヨハンゲオルゲンシュタットへの往復の車窓は山間を走る一味違う旅を満喫できた 次にツヴィッカウ8:44→12:17アルンシュタット2泊 駅前にすぐホテルが決まったのでゴータまで往復し2時間過ごしてきた ゴータも印象に残る町で行っておいてよかった アルンシュタットは今回の旅のメイン “バッハ一族の町” だ 市庁舎は小高い場所にあり何本かの道が放射線状に下っていた 市庁舎前広場には生誕300年記念に立てられた血気盛んなバッハが、市庁舎を真正面に見て足を投げ出している銅像があった 近くのバッハが住んでいたという壊れかけた家にも行ってみた
アルンシュタットから次の予定地ニュルンベルクに向かう途中、マイニンゲンで3時間過ごすことができた マイニンゲンからアイスフェルトへの車窓、そこからゾンネベルクへのバス旅は感動した 乗換駅のコーブルクは駅の近くを30分ほど見ただけでニュルンベルクに向かい2泊(日本で予約済み)した
トラブル発生:一昨日2014.3.5 goo編集画面の「プレビュー」表示が出なくなった その日最初に編集画面至る所に黄色の線が出たがすぐ直った バッハ編の続きをやってプレビュ‐画面がないのに気づいた
gooに問い合わせ翌日回答が来たが専門用語を理解できない上かなり複雑なので、電話で質問したい旨送信したがまだ返事はない  
プレビュー出来なくても投稿はできるが公開投稿してから編集を直すことになる
簡単に自分で治せそうもない バッハ編を早く終わらせ8年目になるブログをこれを機会に休もうかと思っている トラブルの原因は全く分からない 投稿済み写真をたくさん纏めて再利用したりリンクしたからか?



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私が旅したバッハゆかりの地写真3

2014-03-06 09:16:16 | 『冊子バッハ』
私の旅[Ⅴ] 1998.5/25 香港 →05:30フランクフルト07:22→ 09:43エアフルト11:21→
12:13 ナウムブルク15:38→ 18:06ドレスデン
  
左:8回目の旅地に赤印し 2番目香港カイタック空港 エアフルト27,28日の宿探し 
エアフルトのインフォメーションが開くのを待ち、予約料5DM払って聞いた宿は探すのが大変 
親切な人が一緒に探してくれたがベルを押しても留守、駅前のホテルで予約できてナウムブルクへ

最初の目的地はナウムブルク 左:バッハが弾いたSt.Wenzel“ヒルデブラントのオルガン”
後期ロマネスク/初期ゴティック様式の“聖ペテロとパウロ大聖堂”はこの町の象徴 
ルネッサンスとバロック建築が並ぶ広場に建つ“聖ヴェンツェル教会” にバッハのオルガンはある 

上11枚 ナウムブルク(3時間25分散策) 後ろから2番目17世紀からの薬屋
 
ドレスデン18:06着 ライプツィッヒ乗り換え(91年の時よりずっときれいになっていた)
Hイビス2泊日本で予約正解(現地換算より安い)荷物を置いてすぐエルベ川まで行った
フィルム取り出し失敗し後半写真ツヴィンガー宮殿などない 疲れてぐっすり寝たと日記にある

5/26ドレスデン滞在  マイセン往復 ドレスデン10:30→11:00マイセン16:37→17:07
   
トドレスデン駅近い大通りにHイビスが並んで建つ 駅でプラン相談している時、日本人ご夫妻に
声を掛けられ一緒にマイセンに行くことに  右3枚ドレスデン写真他、後日送っていただいた

5/27 ドレスデン08:07→ 10:32ツィッタウ11:42→ 12:36ゲルリッツ15:39→ 20:14エアフルト 
 
ドレスデンイビスの朝食に満足 駅は工事だらけ、遠回りさせられる
昨日、駅のインフォメーションで地図まで書いて薦めてくれたチェコとポーランド国境の町へ行くことに

5/28(木)エアフルト昨夜8時過ぎに着いたホテルBauerは2泊240DM(2万円以下) 駅近く親切で満足 

エアフルトゆっくり寝て朝食を楽しむ 洗面台の右からティッシュが出るのにも感心
近隣のお薦め地は「ツビッカウ」などの情報も…  写真:右のチュービンゲン民族博物館に入った 

エアフルト郵便局でテレホンカードを買う(12DM) 不用になった資料など自宅に送る(12DM)
いくつかの教会に入ったり、町外れまで行ったり 壊れた建築物が目立った


エアフルト市電には乗らず町を散歩 可愛い店があちこちに 右の店で手彫りのアヒル購入(4DM)

エアフルトフロントで手配してくれたカイザーザールのコンサートは20:00~ 20DM(約1600円)
翌年パガニーニ国際コンクールで優勝した庄司紗矢香さんは、この頃ドイツ在住だった
演奏が終わった時、拍手が鳴りやまなかったのを思い出す 私は明日のプランのこともあり
後半シューベルトのクァルテットは聴かず、もう一度駅のインフォメーションで相談、ザールフェルトへ行くことに 
右:5/29朝ホテルBauerフロント (バッハに関係ないが…2014.3.5雨の日、思い出に浸って作成)


 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私が旅したバッハゆかりの地写真2

2014-03-05 12:03:05 | 『冊子バッハ』
私の旅[Ⅲ] 1993.7/6 シュターデ8:13→ 8:45ハンブルク 9:17→ 9:43リューネブルク/
リューネブルク13:16→ 14:00メルン 15:05→ 15:39リューベック 18:00→18:59リューネブルク

リューネブルク 3番目:駅近くにすぐ素敵な宿が見つかった 1泊60DM(約4千円)すぐ街へ
 隣りは北ドイツ最古の木造建築の「市庁舎」と見事な市庁舎の裁判の間

リューネブルク 15歳のバッハが友人と300キロ歩いて来た街だ 聖ミカエル寄宿学校はどの辺?
美声の少年バッハがここで過ごしたのは1700.3-1702年 右は私の宿泊ホテル入口 
3時間半散策してリューベックへ(1回目に6時間滞在)もう一度行くことに
 
メルンで途中下車 陽気な道化師ティル・オイレンシュピーゲルの街1時間半散策


リューベック2時間半散策 右4枚絵はがき  リューネブルクに戻る 
7/7(水)リューネブルク 10:13→ 11:09 ハノーファー 11:30→ 12:57 ゴスラー
   
       
リューネブルク また来たい心残りな街 (ゴスラーへ向う前に)

私の旅[Ⅳ] 1994.6/17フルダ8:20→09:38アイゼナハ13:30→14:40ワイマール18:54→
19:14エアフルト19:34→21:37フルダ
 
今回の旅でまず決めたバッハ生誕地アイゼナハへ そのため選んだフルダ朝食(左)  右:アイゼナハ駅前 
 
バッハが受洗されたゲオルクキルヘへ(左2枚一人静かな時間を持てた)  坂を上がりバッハの家へ(右3枚)
 
バッハの家 (左:感動の演奏後に写真OK?と聞いたらまた弾いてくれた) 

バッハの家から一緒だったアルゼンチンのダニエラさんとルターの家へ ルターの家からの眺め
一緒にワイマールに行くことになった ダニエラさんはパタゴニア地方のことをドイツ語で説明
とても住みやすく富士山に似た山もあるとか… 今回4ヶ月のヨーロッパ旅行で10日が過ぎたと
今日の宿は駅すぐのユーゲントハウスに決め身軽になって一緒にワイマールを散策したが電車が遅れて
滞在4時間 ワイマールはリストの家やゲーテの山荘など見るものがたくさんあるのだが…


ワイマール 左がゲーテハウスは8DM 広い家 入るとすぐこの馬車が ヘルダーキルヘ絵はがき 1518年
ルターが説教をし1803年牧師のヘルダーも訓戒を述べた 祭壇画はクラナハとその息子2代の作(写真なし) 右:有名なゲーテ・シラー像の前  ダニエラさんから後日アルゼンチンの絵はがきが届いた

(再三同じ文を入れることを迷うがその頁を見ただけでも分かるように削除せず投稿)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私が旅したバッハゆかりの地写真1

2014-03-04 19:17:28 | 『冊子バッハ』
私の旅[Ⅰ] 1990.5.30-31  ツェレ2泊
    
「地球の歩き方」を参考に初めて自分で探した安い宿(上写真2番目)川の傍で気に入った
   
宿から駅への途中大きな公園を通ったがそのフランス庭園と17世紀の城を見学しなかったのを悔やむ
5/31 ツエレ→リューネブルク→リューベック→ツエレ
     
左写真:リューネブルク駅前 町までの行き方を聞いたが分からず止めて次の電車でリューベックへ 
    
    
リューベック 6時間滞在 5/31(木)何の日?北ドイツにしては明るい雰囲気 ワインをご馳走してくれた 
      
リューベック ヤコビ教会(6枚)で静かな時を過ごしていたら何とオルガン演奏が始まり感激!
6/1 ツエレ9:20→ 10:30ハンブルク   17:05 フィンエアー→ 19:55ヘルシンキ マッティが車で迎えに
   
ハンブルク4枚 飛行機に乗るので時間をたっぷりとって出たが大きな町は分かりにくくて…
駅のコインロッカーは壊れているものが多くて手間取ったりしたが買い物は楽しめた
盆栽の店があった 右2番目は空港行きのバスを待っていたらこんな乗り物が…

私の旅[Ⅱ] 1992 6/9(日)バンベルク 10:24→ 14:21ライプツィッヒ 18:18→ 22:04バンベルク
      
左3枚バンベルク  右:ライプツィヒへの列車は綺麗だが人は少なく車窓は黒い屋根や壁… 何もが暗い

ライプツィヒ 駅は立派に出来ていたが市内は壊れた建物だらけ トーマス教会前のバッハ像に逢えた~ 
右:トーマス教会内 ルターとバッハの入ったステンドグラス、主祭壇の前のバッハの墓 感動!!

左:トーマス教会そばのメンデルスゾーンが建立した「バッハ像」 再建された建物と小さな車と…
(写真を再投稿するコピーが意外に簡単だったのでリンクした頁から選び投稿することに)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私が旅したバッハゆかりの地 4

2014-03-03 22:09:14 | 『冊子バッハ』
  私の旅 〔Ⅴ〕
 1998.5.25~6.10 (18日間)
8回目になるとリュックもだいぶ軽くでき旅慣れてきた 航空機もキャセイにしてみた ビルの谷間に下りていく香港の夜景はすばらしかった フランクフルトに早朝5:30に着いたのだが静まり返った空港にはだ~れもいなくて戸惑った 7:22発ドレスデンに向かった (ホテルを日本で2泊予約済み)  途中エアフルト 1時間半散策して3日後のホテル予約もした 再び乗車ナウムブルク3時間余を過ごしバッハの鑑定したオルガンも見た ナウムブルク15:38→18:06ドレスデン着の列車はバッハ号だった ドレスデン駅前は一面工事中で宿泊Hグループのイビスが3棟ポツンとそびえていた  ドレスデン2泊 マイセンにも行き5時間半を過ごし大聖堂と磁器工場も見て食事もできた 次の宿泊地エアフルトに向かう途中チェコとの国境にあるツィッタウで1時間強とゲルリッツで3時間寄り道をした エアフルト2泊  庄司紗矢香(パガニーニコンクールで日本人初の優勝者になったばかり16歳)のヴィバルディ「四季」ほかをカイザーザールで聴くことができた すごい拍手だった エアフルト8:06→9:14ザールフェルト3泊 ルドルシュタット チューリンゲン祭りやクローテンベルクを楽しんだ

*手作り冊子バッハ編 《私の旅Ⅴ 写真》 次頁コピー
*ナウムブルク:「大聖堂の町」として知られ、この地に最初の皇帝が居を定めた1000年の歴史の町。初期ゴシックの「ドーム」で有名。聖ヴェンツェル都市教区教会には後期バロックのヒルデブラント・オルガンが堂内の高みに荘厳な祭壇のように聳え立っている。このオルガンは1616年取り付けられ何度も改修工事が繰り返された。バッハも1743年と1746年の2回鑑定を依頼された。バッハ自身はこのオルガン台を職場にすることはなかったが、その後愛弟子アルコニコルが座ることになる。1748年「どこに出しても恥ずかしくない弟子」としてバッハが推薦し就任したのだ。彼は翌年バッハの4女フリーデリカと結婚、生まれた孫の洗礼式にはバッハは体調不良で出席は叶わなかった。 現在はワインの産地。

*エアフルト:現在チューリンゲン地方で最も大きな町。バッハの両親が結婚式を挙げ、長兄クリストフがヨハン・バッヘルベルのもとで修行した。ルターはアイゼナハで学んだ後エアフルト大学に進み音楽理論と実践の徹底的な教育を受けた。ルターによって基礎づけられたプロテスタント・コラールの伝統がハスラー、ブレトリウスなどを経てバッハでその頂点を極めることになる。

*ドレスデン:バッハの時代すでにツヴィンガー宮殿はじめ美の粋を集めた建築物が競う最も美しいバロック都市であったが、第2次大戦で一夜にして破壊された。バッハはワイマール時代1717年マルシャイとの競演の逸話を生んだが、ライプツィヒに移ってからもしばしば訪れ演奏している。長男フリーデマンはソフィア教会のオルガニストに就任した。

ルドルシュタット:ベルリン大学創設者フンボルトは“ドイツで最も美しい町のひとつだ”と称賛した中世の薫りただよう町。シラーが彼の妻やゲーテとはじめて逢った地で、ハイデックスブルク城からの眺めに感動している。ゲーテ監督のワイマール劇団や、ワーグナー、リスト、パガニーニなども訪れている。

*ゲルリッツ:戦争の被害のなかった町。町の真ん中をドイツとポーランドの国境が通っている。国境のナイセ川。旧市街の中世の建物や路地はプラハの町を思い起こさせる。

 



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私が旅したバッハゆかりの地 3

2014-03-02 19:37:57 | 『冊子バッハ』
 
*手作り冊子バッハ編 《私の旅Ⅳ 写真》 次頁コピー
 『 アイゼナハ時代 』 1685~1695
 バッハは1685年3月.21日アイゼナハで8人兄弟の末子として生まれた。バッハ家の源流はファイト・バッハ(1577年ごろ没)にいきつく。ファイトはボヘミア地方に住むドイツ系移民だったが、カトリックによるプロテスタント教徒の追放により、ルター派プロテスタント信仰の牙城だったチューリンゲン地方に移住した。彼は音楽好きで子孫にその血が受け継がれた。息子のヨハネス(1626没)の3人の息子から4家系が生じ、その次男クリストフ(1613-61)の末息子がアンブロジウス(1645-95)で、その末息子がJ.S.バッハである。彼らはアイゼナハ、エアフルト、アルンシュタット、マイニンゲンといった中部ドイツで職業音楽家の地位を占めた。17世紀に至るまで音楽家は市民階級より低い地位が与えられていたことも一族の結束を強いものにした。バッハの父は1671年アイゼナハの町楽師となった。
 この町はルター(1483-1546)がヴォルムス帝国議会で帝国追放刑とされての帰路、ルター支持者のザクセン選帝侯フリードリヒに匿われワルトブルク城で新約聖書のドイツ語訳を完成させた町であり、ルターは15歳から17歳にかけてゲオルク教会付属の修道院学校で学んでいる。
 1517年に始まった宗教改革は1555年アウグスブルク宗教和議で漸く終止符をうった。その中で親しみある旋律とドイツ語の歌詞でつくられたコラールを中心としたルター派教会音楽は、民衆の心の糧として地味な歩みを一歩一歩続けていった。
 幼いバッハの記録はないが父の指導でヴァイオリンを始め、ゲオルク教会では父の従兄ゲオルク(J.S.バッハ以前における一族最高の音楽家1642-1703)のオルガンに耳を傾けていただろう。7歳でルターも学んだゲオルク教会のラテン語学校に入学した。生徒は小編成の合唱隊をつくり、週3日アイゼナハの街を歌い歩き、町の人々の喜捨を受けていた。 9歳で最愛の母が他界、翌年父も世を去り、10歳のバッハと13歳の兄ヤーコブはオールドルフの長兄クリストフに引き取られた。

『 ワイマール時代 』 1708~1717
 1703年(18歳)リューネブルクでの学業に終止符をうちワイマール公ヨハン・エルンストの宮廷楽師となる。エルンスト公は領主ヴィルヘルム公の弟で同じワイマールに小さな宮廷を構えていた。半年をそこで過ごしたが、よりふさわしい地アルンシュタットに向かった。その後ミュールハウゼン時代にひとつ年上のマリア・バルバラ(23歳)とドルンハイムで結婚式をあげた。1708年突然ミュールハウゼンの市参事会に辞表を提出した。ワイマールで宮廷オルガニストヨハン・エフラーが辞任し後任を求めていた。オルガンは修復したばかりであり、待遇はミュールハウゼンの2倍の年額を提示された。
 1708年 5年ぶりにワイマールに戻ってきた。今度は領主ヴィルヘルムの宮廷オルガニスト兼宮廷楽師である。ワイマールは当時すでに将来の文化的繁栄の素地が作られていた。宮廷ではルター派の信仰が生活のあらゆる面を支配し、教会音楽はきわめて重要視された。ワイマール時代のバッハは悲劇的な結末を度外視すれば、おおむね平和で恵まれていた。「天の城」と呼ばれた美しい城内教会には改修されたばかりのオルガンがあり、バッハは主君ヴィルヘルムを説得してさらに改修もした。ワイマールの職業音楽家の数は当時としてはかなりのものであった。初任給はミュールハウゼンの倍もあり、その後さらに引き上げられた。かなりの休暇も認められテレマンをはじめ交友関係を広めることもできた。
 家庭でもこの町で6人の子宝に恵まれ、長男フリーデマンと次男エマニエルは18世紀中葉を代表する音楽家となった。たくさんの友人、先輩に恵まれたが中でもゴットフリート・ヴァルターとの親交はバッハに多くのものをもたらした。ヴァルターは優れた作曲家、オルガニスト、理論家でバッハの縁者でもあった。
また、最新のイタリア音楽に接する機会も得た。ヴィヴァルディの協奏曲はバッハを惹きつけ彼の曲の編曲もした。後年の「ブランデンブルク協奏曲」やそのほか室内楽曲にその跡が認められる。
 1713年、バッハはハレの聖母教会のオルガニストに応募し採用が決定したのだが、ワイマール公の年俸昇給によって引き止められ1714年3月楽師長に就任した。これは宮廷楽長、副楽長に次ぐ地位でバッハには毎月1曲のカンタータの作曲と上演が義務付けられた。1716年1月まで4週間ごとに1曲のカンタータが作曲され続けていたが突然中断する。12月に老楽長のドレーゼが世を去ると再び作曲のピッチをあげた。後任を狙ったのだがドレーゼの息子がなってしまうとまたやめてしまう。
 1716年4月.17日から20日にかけてハレを再訪する。大オルガンが完成し、ライプツィヒのトマスカントルのクーナウとクヴェドリンブルクのカントルのロレの3人が試奏に招待されたのである。バッハの足裁きはなみはずれていたという。今日残っている祝宴のメニューから、彼らがいかに手厚く歓迎されたかがうかがえる。あれほど熱心だったカンタータの創作の空白は、領主エルンスト公と甥のアウグスト公「赤い城」との対立の板ばさみと考えられる。この複雑な状況に新しい道が開ける。アウグスト公の妃はケーテン公レオポルトの妹であったことから、ケーテン楽長に異例の高給で招聘されたのである。だがワイマール公は解雇を許否した。決着のつかぬままバッハはその年9月ドレスデンを訪れる。楽士長で大ヴァイオリニストのヴォリュミエの招聘に応じたもので、目的は当時フランス最高の鍵盤楽器奏者ルイ・マルシャンと即興演奏の決闘をさせようとしたのだがマルシャンは早朝に去ってしまい実現しなかった。意気揚々と帰ってきたバッハはケーテンへの移籍を再び口にしはじめ、ワイマール公はついに禁固刑にしてしまう。
 1717年11月6日収監されたバッハ(32才)は12月2日解任され釈放された。(拘留4週中に《平均律クラビア曲集》第1巻の構想を練ったという )12月10日はケーテン公レオポルト(23歳)の誕生日であり、宮廷楽長として最初の仕事を捧げるために直ちにケーテンに旅だったに違いない。
 ワイマール時代に彼の感性は花開き、勉学の日々が結実する。おびただしい数の作品群がとめどなくあふれ出る。オルガン作品の大半がこの時代に練り上げられた。

●ヴィルヘルム・エルンスト公は当時大部分の宮廷が軽薄放縦な気風であった中、真面目で禁欲的で、娯楽にはわずかな出費しか許さず、福祉事業や文化施設に相当額を費やし、45年におよぶ治世の間、公国を慎重に責任感を持って統治した。特に音楽はチューリンゲンの中心にまで押し上げた。
●城内教会のバッハの職場は、天井のすぐ下、4階建ての回廊の最上階にあった。縦に高く天井に空の絵が描かれているため「天の城」と呼ばれた。これに対し甥のエルンスト・アウグストが住む「赤い城」があり、ヴィルヘルム城より世俗的で賑やかだった。バッハの住まいはこの前にあった。
●後にワイマールは「武のプロイセン」に対し「文のワイマール」として栄え、ゲーテ、シラーのほかヘルダー、フィヒテ、ニーチェ、ヘーゲル、ショウペンハウダーが住み、リストが晩年をおくった家は博物館となって保存されている。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私が旅したバッハゆかりの地 2

2014-03-01 14:01:59 | 『冊子バッハ』
*手作り冊子バッハ編 《私の旅Ⅰ 写真》 次頁コピー
 ◇ バッハと 「リューネブルク・ツェレ・ハンブルク・リューベック」
 1700年3月25日バッハは15歳の時オールドルフの長兄の家を出て、親友ゲオルク・エルトマンと300Kmを歩いてリューネブルクに来た。当時この都市は豊かで聖ミカエル教会は2つの学校で名高かった。北に貴族の子弟の騎士学校、南に市民階級の子弟のための聖ミカエル寄宿学校があり入団は大変難しかったが二人は「朝課合唱隊」に採用され、わずかながら給与も支給されたうえミカエル学校で学ぶこともできた。バッハは美しいボーイソプラノで音楽能力もあり喜んで迎えられた。ほどなくして変声期となったが楽器奏者・副指揮者として重宝がられた。彼はさらに一層の好奇心をもち近隣を旅行して学んだ。50Kmほどのハンブルクには従兄のヨハン・エルンストが学んでいたし、聖カタリナ教会では北ドイツ・オルガン楽派の雄ラインケン(80歳)が活躍、オペラ劇場ではラインハルト・カイザーを頂点とするオペラ芸術が花開いていた。ハンブルクには何回か訪れラインケンから直接曲集も渡されていたらしい。
 南へ80キロほどのツェレは宮廷楽団員のほとんどがフランス人、楽譜もフランスから取り寄せるというフランス文化一色の小都だった。バッハはたびたび訪れて宮廷楽団を聴いたという。貧乏学生がそこに出入りできたのはリューネブルクの騎士学院の舞踏教師ド・ラ・セルの推薦があったことがバッハの「追悼記」からうかがえる。
 リューネブルクをいつ去ったか定かでないが1702年の復活祭前と思われる。1703年3月、彼はふるさとに戻る。ワイマール公ヨハン・エルンストの宮廷楽師となったのだが半年ほどでアルンシュタットに向かうことになる。
(1707年6月帝国自由都市ミュールハウゼンのブラ‐ジウス教会オルガニストに就くため辞表提出) 
 《バッハ編補足:リューベック:1705.11~1706.2アルンシュタット時代リューベックにブクステフーデを訪ねた この旅行を独断で延長した(4週間後でなく4か月後)ことから普段はバッハに好意的であった教区監督オレアリウスとの関係に亀裂 バッハの生徒ガイヤースバッハとの喧嘩の調書もある血気盛んな時代 「故人略伝」1754年にこの重要な旅について、バッハが優れた作曲家の作品を検討し、オルガンの技術にも出来る限り多くを聴きたいという強い衝動による徒歩の旅であった と。 アルンシュタットからの行程はゴータ、ミュールハウゼン、ライネフェルト、ノルトハイム、ブラウンシュヴァイク… ヒルデスハイム、ハノーファー、ツェレ… 古くからの塩の道でエルベ川の南岸に出て船で北岸に渡りメルン… など考えられる》

*ツェレ:戦争の被害を免れ童話の中から抜け出たような “北ドイツの真珠”といわれているエリカ街道沿いの古い町 19世紀中ごろまで公爵の居城があり16~18世紀建築の木組みの立派な家々が並び、商業の町ではない
*リューネブルク:1980年まで千年もの間、塩を採掘していた ツェレと同様戦災を免れ貴重な建物が数多く残っている ヒースの生い茂った荒野が南のツェレに向かって広がり、イルメナウ川沿いにリューベックへと「塩の道」が残る
*リューベック:バルト海に面し“ハンザ同盟の女王”といわれた都市 13~17世紀が繁栄期 旧市街に当時を象徴する建物が残り、1987年ユネスコ世界遺産になった トーマス・マンの祖父母の家は「ブッデンブロークハウス」として公開されている
*ハンブルク:神聖ローマ帝国に属する都市の中で、ウィーンに次ぐ規模であった。「ハンザ同盟」随一の勢力を誇る帝国自由主義の都市として成熟した社会であり、音楽もまた「華」だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*手作り冊子バッハ編 《私の旅Ⅱ 写真》 次頁コピー
  バッハと 「ライプツィッヒ」
  慨略
1717(32歳) 12月16日 ライプツィヒ聖パウロ教会オルガン鑑定
1723(38歳) 終生就くことになる聖トマス・カントルの地位に就任
1727(42歳) 「マタイ受難曲」聖トマス教会で初演
1736(51歳) ニコライ教会の礼拝でトマス合唱団と衝突・ザクセン選帝侯の宮廷作曲家に任命
1742(57歳) 世俗カンタータ初演
1745(60歳) 第2次シレジア戦争で、プロイセン軍がライプツィヒを占領
1747(62歳) ポツダムでフリードリヒ二世の宮廷を訪問 「音楽の捧げもの」献辞
1749(64歳) 「フーガの技法」作曲
1750(65歳) 3月と4月にJ.ティラーによる目の手術、7月28日死亡
  『 トマス・カントル就任まで 』
 1722.6.5 ライプツィヒのトマス・カントル、ヨハン・クーナウが世を去った。後任にまず上がったのはハンブルク教会音楽監督ゲオルク・フィリップ・テレマンだった。実力、知名度とも高かったが彼はラテン語を教えることを拒否、ハンブルクの昇給の交渉にも成功したので断ってきた。
(テレマンはバッハを高く評価していた 1714年にはバッハの次男エマヌエルの代父になるなど親交がありバッハの死に際し彼を賛美する追悼詩を寄せている) トマス教会の起源は13世紀で、歴代カントルには錚々たる名が連なりドイツプロテスタント音楽の牙城であった。バッハの名が議事録に上がるのは12月21日であり、その時点ではその他大勢の一人であった。次の有力候補ダルムシュタト宮廷楽長クリストフ・グラウブナーも、主君ヘッセン公に昇給をもって引きとめられ断ってきた。一方バッハの試験は2月7日に行われ2曲のカンタータを上演、好評を博した。4月の選抜会議でバッハが選ばれたのは、教理問答とラテン文法の授業を担当することに同意したのが最大の理由であった。
   『 ライプツィヒ時代 』  1723~1750
 1723年5月5日に契約、23日にケーテンから引越してきた。バッハの仕事は激務だった。4教会の祝祭日ごとの教会音楽提供、トマス学校の教育ともに難題がせまったが、着任後2年間は毎週自作のカンタータを供給した(改作含む)。住居はトマス学校内にあり前任クーナウが20年以上住んだ所で、それは6人家族のバッハには狭かったので大幅な増改築をし、世を去るまで27年ここで過ごした(現存しない)。
 教会カンタータの創作は1729年には峠を越え、コレギウム・ムジクムでの指導が始まり(1737年から2年の休止があったが)1741年まで続いた。1730年、市参事会は“バッハの怠慢”を議題にする。これに対するバッハの上申書はかえって参事会の感情を逆なでした。旧友ゲオルク(15歳の時リューベックへ一緒に歩いた彼はロシア行使になっていた)に就職依頼の手紙を出すが成果なく、興味はドレスデンに向けられる。1734年若いヨハン・アウグスト・エルネスティがトマス学校長となりますます争うことになる。 
 1737年ハンブルクで発行された音楽雑誌ではシャイペがバッハの音楽を批判した。1745年シャイペが旧論への無礼をわびて終結したが新しい音楽が若者を捉え始めていた。
 1741年、次男エマニエルがチェンバロ奏者として勤めるベルリンへ行く。ドレスデンで演奏もした。
 1747年5月フリードリヒ大王の招待を得てポツダムの宮殿へ。大王は自慢のジルバーマン製のフォルテピアノの前にバッハを案内し、大王の主題によるフーガの即興演奏を所望した。見事に期待に応え、翌日には再び大王はバッハを宮殿に誘った。同じ主題で6声のフーガの即興を求められ、自作の主題を用いることで切りぬけた。ライプツィヒに戻りフルートの得意な大王の好みを取り入れ「音楽の捧げもの」BWV1079を作曲した。 1748年、自らの声楽作品の集大成といえる「ミサ曲ロ短調」BWV232を完結。
 バッハの晩年は視力が減退していく毎日で、愛弟子アントニコルと娘フリーデリカとの間に生まれた孫の洗礼式がナウムブルクで行われたが出席できなかった。 1750年3月と4月にイギリスの眼科医ティラーの手術を受けたが体力を著しく消耗しただけだった
。(後年ヘンデルもティラーの手術で失敗している)。 1750年7月28日死亡。 30日か31日に聖ヨハネ教会に埋葬された。その墓は長く忘れられていたが1894年発見され確認されて1900年新しい石灰石の棺に納められ聖ヨハネ教会の地下室に安置された。その後第2次大戦で教会が破壊されたため、戦後トマス教会の内陣に新しい墓を作り遺骸を納めた。
 死後200年を経てかつての活動の本拠地に眠ることができた。
★バッハの死亡記事としてトマス学校の同僚アブラハム・クリーゲルは次のように伝えている。「ポーランド国王兼ザクセン選帝侯殿下に仕える宮廷作曲家としてケーテン並びにヴァイセンフェルス候の宮廷楽長、さらにはライプツィヒの音楽監督兼トマス・カントルなるバッハ氏は、現世より旅立った。失敗に終わった眼の治療がこの人物をこの世から奪い去った。彼は音楽上の非凡な技量によって不滅の名声を獲得し、また、音楽において彼同様に有名な息子たちを残した。」
*1750年頃バッハはオルガン、クラビーアの大演奏家ではあったが作曲家としては時代遅れの存在だった。ロンドンのヘンデル、ハンブルクのテレマンが羽振りを利かせていた。
*バッハの幸運は立派な息子たちと多くの弟子に恵まれたことである。ハレで長男フリーデマンが、ハンブルクで二男エマニエルが、ロンドンでは四男クリスティアンが父の芸術のすばらしさを広める努力をした。弟子達もドイツ各地で地味ながらバッハの伝統を伝えた。それがハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンに影響を与えることにつながっていった。 
*1829年 20歳のメンデルスゾーンによる「マタイ受難曲」上演はバッハ復活の決定的なものになった。

●メンデルスゾーンは26歳でゲバントハウスの音楽監督になり、他にも大学を創設するなど充実した仕事に加え結婚して幸福な生活を送っていたが若干37歳で他界。ゲバントハウス前に銅像が建っている。
●モーツアルトは33歳の時プラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ポツダム、ベルリンを旅行し、ライプツィヒではトマス教会のオルガンを弾いている。
●ゲーテは16歳~19歳の大学時代をライプツィヒで過ごした。
●1556年創業のヨーロッパ最古の“カフェバウム”にはシューマン、メンデルスゾーンなども集ったテーブルが1階に残っている。
●ニコライ教会は1989年、非暴力による東西ドイツ統一のきっかけとなった。

こういう記事を投稿するには著作権が関係するのかと気になるがパンフレットや旅行の本など多種参考
バッハ編完成が2008年8月 参考控えはない 文は重複、補足必要、間違い、意味不明 編集未熟…  
クラシック音楽の父バッハを理解したくて素人が興味をもった拾い読みの寄せ集め 躊躇しながら投稿



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする