54歳からの欧州一人旅と日々をつれづれに

思いつくまま時、場所を選ばず綴ります。

私が旅したバッハゆかりの地 2

2014-03-01 14:01:59 | 『冊子バッハ』
*手作り冊子バッハ編 《私の旅Ⅰ 写真》 次頁コピー
 ◇ バッハと 「リューネブルク・ツェレ・ハンブルク・リューベック」
 1700年3月25日バッハは15歳の時オールドルフの長兄の家を出て、親友ゲオルク・エルトマンと300Kmを歩いてリューネブルクに来た。当時この都市は豊かで聖ミカエル教会は2つの学校で名高かった。北に貴族の子弟の騎士学校、南に市民階級の子弟のための聖ミカエル寄宿学校があり入団は大変難しかったが二人は「朝課合唱隊」に採用され、わずかながら給与も支給されたうえミカエル学校で学ぶこともできた。バッハは美しいボーイソプラノで音楽能力もあり喜んで迎えられた。ほどなくして変声期となったが楽器奏者・副指揮者として重宝がられた。彼はさらに一層の好奇心をもち近隣を旅行して学んだ。50Kmほどのハンブルクには従兄のヨハン・エルンストが学んでいたし、聖カタリナ教会では北ドイツ・オルガン楽派の雄ラインケン(80歳)が活躍、オペラ劇場ではラインハルト・カイザーを頂点とするオペラ芸術が花開いていた。ハンブルクには何回か訪れラインケンから直接曲集も渡されていたらしい。
 南へ80キロほどのツェレは宮廷楽団員のほとんどがフランス人、楽譜もフランスから取り寄せるというフランス文化一色の小都だった。バッハはたびたび訪れて宮廷楽団を聴いたという。貧乏学生がそこに出入りできたのはリューネブルクの騎士学院の舞踏教師ド・ラ・セルの推薦があったことがバッハの「追悼記」からうかがえる。
 リューネブルクをいつ去ったか定かでないが1702年の復活祭前と思われる。1703年3月、彼はふるさとに戻る。ワイマール公ヨハン・エルンストの宮廷楽師となったのだが半年ほどでアルンシュタットに向かうことになる。
(1707年6月帝国自由都市ミュールハウゼンのブラ‐ジウス教会オルガニストに就くため辞表提出) 
 《バッハ編補足:リューベック:1705.11~1706.2アルンシュタット時代リューベックにブクステフーデを訪ねた この旅行を独断で延長した(4週間後でなく4か月後)ことから普段はバッハに好意的であった教区監督オレアリウスとの関係に亀裂 バッハの生徒ガイヤースバッハとの喧嘩の調書もある血気盛んな時代 「故人略伝」1754年にこの重要な旅について、バッハが優れた作曲家の作品を検討し、オルガンの技術にも出来る限り多くを聴きたいという強い衝動による徒歩の旅であった と。 アルンシュタットからの行程はゴータ、ミュールハウゼン、ライネフェルト、ノルトハイム、ブラウンシュヴァイク… ヒルデスハイム、ハノーファー、ツェレ… 古くからの塩の道でエルベ川の南岸に出て船で北岸に渡りメルン… など考えられる》

*ツェレ:戦争の被害を免れ童話の中から抜け出たような “北ドイツの真珠”といわれているエリカ街道沿いの古い町 19世紀中ごろまで公爵の居城があり16~18世紀建築の木組みの立派な家々が並び、商業の町ではない
*リューネブルク:1980年まで千年もの間、塩を採掘していた ツェレと同様戦災を免れ貴重な建物が数多く残っている ヒースの生い茂った荒野が南のツェレに向かって広がり、イルメナウ川沿いにリューベックへと「塩の道」が残る
*リューベック:バルト海に面し“ハンザ同盟の女王”といわれた都市 13~17世紀が繁栄期 旧市街に当時を象徴する建物が残り、1987年ユネスコ世界遺産になった トーマス・マンの祖父母の家は「ブッデンブロークハウス」として公開されている
*ハンブルク:神聖ローマ帝国に属する都市の中で、ウィーンに次ぐ規模であった。「ハンザ同盟」随一の勢力を誇る帝国自由主義の都市として成熟した社会であり、音楽もまた「華」だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*手作り冊子バッハ編 《私の旅Ⅱ 写真》 次頁コピー
  バッハと 「ライプツィッヒ」
  慨略
1717(32歳) 12月16日 ライプツィヒ聖パウロ教会オルガン鑑定
1723(38歳) 終生就くことになる聖トマス・カントルの地位に就任
1727(42歳) 「マタイ受難曲」聖トマス教会で初演
1736(51歳) ニコライ教会の礼拝でトマス合唱団と衝突・ザクセン選帝侯の宮廷作曲家に任命
1742(57歳) 世俗カンタータ初演
1745(60歳) 第2次シレジア戦争で、プロイセン軍がライプツィヒを占領
1747(62歳) ポツダムでフリードリヒ二世の宮廷を訪問 「音楽の捧げもの」献辞
1749(64歳) 「フーガの技法」作曲
1750(65歳) 3月と4月にJ.ティラーによる目の手術、7月28日死亡
  『 トマス・カントル就任まで 』
 1722.6.5 ライプツィヒのトマス・カントル、ヨハン・クーナウが世を去った。後任にまず上がったのはハンブルク教会音楽監督ゲオルク・フィリップ・テレマンだった。実力、知名度とも高かったが彼はラテン語を教えることを拒否、ハンブルクの昇給の交渉にも成功したので断ってきた。
(テレマンはバッハを高く評価していた 1714年にはバッハの次男エマヌエルの代父になるなど親交がありバッハの死に際し彼を賛美する追悼詩を寄せている) トマス教会の起源は13世紀で、歴代カントルには錚々たる名が連なりドイツプロテスタント音楽の牙城であった。バッハの名が議事録に上がるのは12月21日であり、その時点ではその他大勢の一人であった。次の有力候補ダルムシュタト宮廷楽長クリストフ・グラウブナーも、主君ヘッセン公に昇給をもって引きとめられ断ってきた。一方バッハの試験は2月7日に行われ2曲のカンタータを上演、好評を博した。4月の選抜会議でバッハが選ばれたのは、教理問答とラテン文法の授業を担当することに同意したのが最大の理由であった。
   『 ライプツィヒ時代 』  1723~1750
 1723年5月5日に契約、23日にケーテンから引越してきた。バッハの仕事は激務だった。4教会の祝祭日ごとの教会音楽提供、トマス学校の教育ともに難題がせまったが、着任後2年間は毎週自作のカンタータを供給した(改作含む)。住居はトマス学校内にあり前任クーナウが20年以上住んだ所で、それは6人家族のバッハには狭かったので大幅な増改築をし、世を去るまで27年ここで過ごした(現存しない)。
 教会カンタータの創作は1729年には峠を越え、コレギウム・ムジクムでの指導が始まり(1737年から2年の休止があったが)1741年まで続いた。1730年、市参事会は“バッハの怠慢”を議題にする。これに対するバッハの上申書はかえって参事会の感情を逆なでした。旧友ゲオルク(15歳の時リューベックへ一緒に歩いた彼はロシア行使になっていた)に就職依頼の手紙を出すが成果なく、興味はドレスデンに向けられる。1734年若いヨハン・アウグスト・エルネスティがトマス学校長となりますます争うことになる。 
 1737年ハンブルクで発行された音楽雑誌ではシャイペがバッハの音楽を批判した。1745年シャイペが旧論への無礼をわびて終結したが新しい音楽が若者を捉え始めていた。
 1741年、次男エマニエルがチェンバロ奏者として勤めるベルリンへ行く。ドレスデンで演奏もした。
 1747年5月フリードリヒ大王の招待を得てポツダムの宮殿へ。大王は自慢のジルバーマン製のフォルテピアノの前にバッハを案内し、大王の主題によるフーガの即興演奏を所望した。見事に期待に応え、翌日には再び大王はバッハを宮殿に誘った。同じ主題で6声のフーガの即興を求められ、自作の主題を用いることで切りぬけた。ライプツィヒに戻りフルートの得意な大王の好みを取り入れ「音楽の捧げもの」BWV1079を作曲した。 1748年、自らの声楽作品の集大成といえる「ミサ曲ロ短調」BWV232を完結。
 バッハの晩年は視力が減退していく毎日で、愛弟子アントニコルと娘フリーデリカとの間に生まれた孫の洗礼式がナウムブルクで行われたが出席できなかった。 1750年3月と4月にイギリスの眼科医ティラーの手術を受けたが体力を著しく消耗しただけだった
。(後年ヘンデルもティラーの手術で失敗している)。 1750年7月28日死亡。 30日か31日に聖ヨハネ教会に埋葬された。その墓は長く忘れられていたが1894年発見され確認されて1900年新しい石灰石の棺に納められ聖ヨハネ教会の地下室に安置された。その後第2次大戦で教会が破壊されたため、戦後トマス教会の内陣に新しい墓を作り遺骸を納めた。
 死後200年を経てかつての活動の本拠地に眠ることができた。
★バッハの死亡記事としてトマス学校の同僚アブラハム・クリーゲルは次のように伝えている。「ポーランド国王兼ザクセン選帝侯殿下に仕える宮廷作曲家としてケーテン並びにヴァイセンフェルス候の宮廷楽長、さらにはライプツィヒの音楽監督兼トマス・カントルなるバッハ氏は、現世より旅立った。失敗に終わった眼の治療がこの人物をこの世から奪い去った。彼は音楽上の非凡な技量によって不滅の名声を獲得し、また、音楽において彼同様に有名な息子たちを残した。」
*1750年頃バッハはオルガン、クラビーアの大演奏家ではあったが作曲家としては時代遅れの存在だった。ロンドンのヘンデル、ハンブルクのテレマンが羽振りを利かせていた。
*バッハの幸運は立派な息子たちと多くの弟子に恵まれたことである。ハレで長男フリーデマンが、ハンブルクで二男エマニエルが、ロンドンでは四男クリスティアンが父の芸術のすばらしさを広める努力をした。弟子達もドイツ各地で地味ながらバッハの伝統を伝えた。それがハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンに影響を与えることにつながっていった。 
*1829年 20歳のメンデルスゾーンによる「マタイ受難曲」上演はバッハ復活の決定的なものになった。

●メンデルスゾーンは26歳でゲバントハウスの音楽監督になり、他にも大学を創設するなど充実した仕事に加え結婚して幸福な生活を送っていたが若干37歳で他界。ゲバントハウス前に銅像が建っている。
●モーツアルトは33歳の時プラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ポツダム、ベルリンを旅行し、ライプツィヒではトマス教会のオルガンを弾いている。
●ゲーテは16歳~19歳の大学時代をライプツィヒで過ごした。
●1556年創業のヨーロッパ最古の“カフェバウム”にはシューマン、メンデルスゾーンなども集ったテーブルが1階に残っている。
●ニコライ教会は1989年、非暴力による東西ドイツ統一のきっかけとなった。

こういう記事を投稿するには著作権が関係するのかと気になるがパンフレットや旅行の本など多種参考
バッハ編完成が2008年8月 参考控えはない 文は重複、補足必要、間違い、意味不明 編集未熟…  
クラシック音楽の父バッハを理解したくて素人が興味をもった拾い読みの寄せ集め 躊躇しながら投稿



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする