54歳からの欧州一人旅と日々をつれづれに

思いつくまま時、場所を選ばず綴ります。

私が旅したバッハゆかりの地 3

2014-03-02 19:37:57 | 『冊子バッハ』
 
*手作り冊子バッハ編 《私の旅Ⅳ 写真》 次頁コピー
 『 アイゼナハ時代 』 1685~1695
 バッハは1685年3月.21日アイゼナハで8人兄弟の末子として生まれた。バッハ家の源流はファイト・バッハ(1577年ごろ没)にいきつく。ファイトはボヘミア地方に住むドイツ系移民だったが、カトリックによるプロテスタント教徒の追放により、ルター派プロテスタント信仰の牙城だったチューリンゲン地方に移住した。彼は音楽好きで子孫にその血が受け継がれた。息子のヨハネス(1626没)の3人の息子から4家系が生じ、その次男クリストフ(1613-61)の末息子がアンブロジウス(1645-95)で、その末息子がJ.S.バッハである。彼らはアイゼナハ、エアフルト、アルンシュタット、マイニンゲンといった中部ドイツで職業音楽家の地位を占めた。17世紀に至るまで音楽家は市民階級より低い地位が与えられていたことも一族の結束を強いものにした。バッハの父は1671年アイゼナハの町楽師となった。
 この町はルター(1483-1546)がヴォルムス帝国議会で帝国追放刑とされての帰路、ルター支持者のザクセン選帝侯フリードリヒに匿われワルトブルク城で新約聖書のドイツ語訳を完成させた町であり、ルターは15歳から17歳にかけてゲオルク教会付属の修道院学校で学んでいる。
 1517年に始まった宗教改革は1555年アウグスブルク宗教和議で漸く終止符をうった。その中で親しみある旋律とドイツ語の歌詞でつくられたコラールを中心としたルター派教会音楽は、民衆の心の糧として地味な歩みを一歩一歩続けていった。
 幼いバッハの記録はないが父の指導でヴァイオリンを始め、ゲオルク教会では父の従兄ゲオルク(J.S.バッハ以前における一族最高の音楽家1642-1703)のオルガンに耳を傾けていただろう。7歳でルターも学んだゲオルク教会のラテン語学校に入学した。生徒は小編成の合唱隊をつくり、週3日アイゼナハの街を歌い歩き、町の人々の喜捨を受けていた。 9歳で最愛の母が他界、翌年父も世を去り、10歳のバッハと13歳の兄ヤーコブはオールドルフの長兄クリストフに引き取られた。

『 ワイマール時代 』 1708~1717
 1703年(18歳)リューネブルクでの学業に終止符をうちワイマール公ヨハン・エルンストの宮廷楽師となる。エルンスト公は領主ヴィルヘルム公の弟で同じワイマールに小さな宮廷を構えていた。半年をそこで過ごしたが、よりふさわしい地アルンシュタットに向かった。その後ミュールハウゼン時代にひとつ年上のマリア・バルバラ(23歳)とドルンハイムで結婚式をあげた。1708年突然ミュールハウゼンの市参事会に辞表を提出した。ワイマールで宮廷オルガニストヨハン・エフラーが辞任し後任を求めていた。オルガンは修復したばかりであり、待遇はミュールハウゼンの2倍の年額を提示された。
 1708年 5年ぶりにワイマールに戻ってきた。今度は領主ヴィルヘルムの宮廷オルガニスト兼宮廷楽師である。ワイマールは当時すでに将来の文化的繁栄の素地が作られていた。宮廷ではルター派の信仰が生活のあらゆる面を支配し、教会音楽はきわめて重要視された。ワイマール時代のバッハは悲劇的な結末を度外視すれば、おおむね平和で恵まれていた。「天の城」と呼ばれた美しい城内教会には改修されたばかりのオルガンがあり、バッハは主君ヴィルヘルムを説得してさらに改修もした。ワイマールの職業音楽家の数は当時としてはかなりのものであった。初任給はミュールハウゼンの倍もあり、その後さらに引き上げられた。かなりの休暇も認められテレマンをはじめ交友関係を広めることもできた。
 家庭でもこの町で6人の子宝に恵まれ、長男フリーデマンと次男エマニエルは18世紀中葉を代表する音楽家となった。たくさんの友人、先輩に恵まれたが中でもゴットフリート・ヴァルターとの親交はバッハに多くのものをもたらした。ヴァルターは優れた作曲家、オルガニスト、理論家でバッハの縁者でもあった。
また、最新のイタリア音楽に接する機会も得た。ヴィヴァルディの協奏曲はバッハを惹きつけ彼の曲の編曲もした。後年の「ブランデンブルク協奏曲」やそのほか室内楽曲にその跡が認められる。
 1713年、バッハはハレの聖母教会のオルガニストに応募し採用が決定したのだが、ワイマール公の年俸昇給によって引き止められ1714年3月楽師長に就任した。これは宮廷楽長、副楽長に次ぐ地位でバッハには毎月1曲のカンタータの作曲と上演が義務付けられた。1716年1月まで4週間ごとに1曲のカンタータが作曲され続けていたが突然中断する。12月に老楽長のドレーゼが世を去ると再び作曲のピッチをあげた。後任を狙ったのだがドレーゼの息子がなってしまうとまたやめてしまう。
 1716年4月.17日から20日にかけてハレを再訪する。大オルガンが完成し、ライプツィヒのトマスカントルのクーナウとクヴェドリンブルクのカントルのロレの3人が試奏に招待されたのである。バッハの足裁きはなみはずれていたという。今日残っている祝宴のメニューから、彼らがいかに手厚く歓迎されたかがうかがえる。あれほど熱心だったカンタータの創作の空白は、領主エルンスト公と甥のアウグスト公「赤い城」との対立の板ばさみと考えられる。この複雑な状況に新しい道が開ける。アウグスト公の妃はケーテン公レオポルトの妹であったことから、ケーテン楽長に異例の高給で招聘されたのである。だがワイマール公は解雇を許否した。決着のつかぬままバッハはその年9月ドレスデンを訪れる。楽士長で大ヴァイオリニストのヴォリュミエの招聘に応じたもので、目的は当時フランス最高の鍵盤楽器奏者ルイ・マルシャンと即興演奏の決闘をさせようとしたのだがマルシャンは早朝に去ってしまい実現しなかった。意気揚々と帰ってきたバッハはケーテンへの移籍を再び口にしはじめ、ワイマール公はついに禁固刑にしてしまう。
 1717年11月6日収監されたバッハ(32才)は12月2日解任され釈放された。(拘留4週中に《平均律クラビア曲集》第1巻の構想を練ったという )12月10日はケーテン公レオポルト(23歳)の誕生日であり、宮廷楽長として最初の仕事を捧げるために直ちにケーテンに旅だったに違いない。
 ワイマール時代に彼の感性は花開き、勉学の日々が結実する。おびただしい数の作品群がとめどなくあふれ出る。オルガン作品の大半がこの時代に練り上げられた。

●ヴィルヘルム・エルンスト公は当時大部分の宮廷が軽薄放縦な気風であった中、真面目で禁欲的で、娯楽にはわずかな出費しか許さず、福祉事業や文化施設に相当額を費やし、45年におよぶ治世の間、公国を慎重に責任感を持って統治した。特に音楽はチューリンゲンの中心にまで押し上げた。
●城内教会のバッハの職場は、天井のすぐ下、4階建ての回廊の最上階にあった。縦に高く天井に空の絵が描かれているため「天の城」と呼ばれた。これに対し甥のエルンスト・アウグストが住む「赤い城」があり、ヴィルヘルム城より世俗的で賑やかだった。バッハの住まいはこの前にあった。
●後にワイマールは「武のプロイセン」に対し「文のワイマール」として栄え、ゲーテ、シラーのほかヘルダー、フィヒテ、ニーチェ、ヘーゲル、ショウペンハウダーが住み、リストが晩年をおくった家は博物館となって保存されている。



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