54歳からの欧州一人旅と日々をつれづれに

思いつくまま時、場所を選ばず綴ります。

私が旅したバッハゆかりの地 4

2014-03-03 22:09:14 | 『冊子バッハ』
  私の旅 〔Ⅴ〕
 1998.5.25~6.10 (18日間)
8回目になるとリュックもだいぶ軽くでき旅慣れてきた 航空機もキャセイにしてみた ビルの谷間に下りていく香港の夜景はすばらしかった フランクフルトに早朝5:30に着いたのだが静まり返った空港にはだ~れもいなくて戸惑った 7:22発ドレスデンに向かった (ホテルを日本で2泊予約済み)  途中エアフルト 1時間半散策して3日後のホテル予約もした 再び乗車ナウムブルク3時間余を過ごしバッハの鑑定したオルガンも見た ナウムブルク15:38→18:06ドレスデン着の列車はバッハ号だった ドレスデン駅前は一面工事中で宿泊Hグループのイビスが3棟ポツンとそびえていた  ドレスデン2泊 マイセンにも行き5時間半を過ごし大聖堂と磁器工場も見て食事もできた 次の宿泊地エアフルトに向かう途中チェコとの国境にあるツィッタウで1時間強とゲルリッツで3時間寄り道をした エアフルト2泊  庄司紗矢香(パガニーニコンクールで日本人初の優勝者になったばかり16歳)のヴィバルディ「四季」ほかをカイザーザールで聴くことができた すごい拍手だった エアフルト8:06→9:14ザールフェルト3泊 ルドルシュタット チューリンゲン祭りやクローテンベルクを楽しんだ

*手作り冊子バッハ編 《私の旅Ⅴ 写真》 次頁コピー
*ナウムブルク:「大聖堂の町」として知られ、この地に最初の皇帝が居を定めた1000年の歴史の町。初期ゴシックの「ドーム」で有名。聖ヴェンツェル都市教区教会には後期バロックのヒルデブラント・オルガンが堂内の高みに荘厳な祭壇のように聳え立っている。このオルガンは1616年取り付けられ何度も改修工事が繰り返された。バッハも1743年と1746年の2回鑑定を依頼された。バッハ自身はこのオルガン台を職場にすることはなかったが、その後愛弟子アルコニコルが座ることになる。1748年「どこに出しても恥ずかしくない弟子」としてバッハが推薦し就任したのだ。彼は翌年バッハの4女フリーデリカと結婚、生まれた孫の洗礼式にはバッハは体調不良で出席は叶わなかった。 現在はワインの産地。

*エアフルト:現在チューリンゲン地方で最も大きな町。バッハの両親が結婚式を挙げ、長兄クリストフがヨハン・バッヘルベルのもとで修行した。ルターはアイゼナハで学んだ後エアフルト大学に進み音楽理論と実践の徹底的な教育を受けた。ルターによって基礎づけられたプロテスタント・コラールの伝統がハスラー、ブレトリウスなどを経てバッハでその頂点を極めることになる。

*ドレスデン:バッハの時代すでにツヴィンガー宮殿はじめ美の粋を集めた建築物が競う最も美しいバロック都市であったが、第2次大戦で一夜にして破壊された。バッハはワイマール時代1717年マルシャイとの競演の逸話を生んだが、ライプツィヒに移ってからもしばしば訪れ演奏している。長男フリーデマンはソフィア教会のオルガニストに就任した。

ルドルシュタット:ベルリン大学創設者フンボルトは“ドイツで最も美しい町のひとつだ”と称賛した中世の薫りただよう町。シラーが彼の妻やゲーテとはじめて逢った地で、ハイデックスブルク城からの眺めに感動している。ゲーテ監督のワイマール劇団や、ワーグナー、リスト、パガニーニなども訪れている。

*ゲルリッツ:戦争の被害のなかった町。町の真ん中をドイツとポーランドの国境が通っている。国境のナイセ川。旧市街の中世の建物や路地はプラハの町を思い起こさせる。

 



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