54歳からの欧州一人旅と日々をつれづれに

思いつくまま時、場所を選ばず綴ります。

私が旅したバッハゆかりの地 6 

2014-03-08 21:18:02 | 『冊子バッハ』
*手作り冊子バッハ編 《私の旅 6 写真》 次頁コピー

『 アルンシュタット時代 』 1703~1707
 アルンシュタットはワイマールからほぼ30キロにある城下町。1703年6月同地の新教会のオルガンが完成した。このオルガンの鑑定を18歳のバッハが行った。その試奏はすばらしく、8月9日バッハはこの新教会のオルガニストの地位を得た。ワイマールのヨハン・エルンストのもとで「楽師兼従僕」を5ヶ月あまり勤めた後、本格的に音楽に専念できる職をやっと得たのだ。労働条件もよく自分の勉強のための時間もふんだんにとれた。だが聖歌隊と楽団は悩みの種だった。
 新教会は3つある教会の中で最下位のランクで、礼拝音楽に必要な聖歌隊や楽団を構成するとき、主力となる教会学校の生徒や市の楽師のなかで、一番能力の劣るメンバーしか回してもらえなかったのだ。そんな彼らを指揮することは若く、教えた経験もないバッハにとって耐え難いものであった。年長のメンバーでも妥協せず怒鳴りつけていた。憎まれ役となったバッハは報復をうける。市庁舎広場を通りかかったバッハに、たむろしていた聖歌隊のひとりが殴りかかってきた。バッハは反射的に剣を抜いていた。二人の争いは聖職会議でとりあげられ、ふだんから生徒達と折り合いの悪いことが公に暴露されてしまった。北ドイツの空気が吸いたくなり、4週間の休暇を願い出てリューベックに向かったのも頷ける。ブクステフーデのオルガン演奏を聴くために出かけたのだが、この巨匠の演奏のすばらしさに魅了され休暇はいつの間にか4倍も延長されていた。久しぶりに帰ってきた彼の演奏を会衆は理解できず、見知らぬ婦人(バルバラ?)に教会内で歌わせたと非難されたりもした。
 しかしこの町には、親族と集い騒ぐ楽しいひとときがあった。後に妻となるバラバラもいただろう。ビールの町であったことも、ワインやビールに目がなかったバッハにはたまらなかったに違いない。恵まれた私生活のできたこの時期には、二人の兄にクラヴィ-ア作品を書いている。ヤーコブに「旅立つ最愛の兄に寄せるカプリッチョ BWV992」、長兄に「カプリッチォ ホ長調 BWV993」を。
 彼は新天地を北へ30キロのミュールハウゼンに見つけることができ 1707年6月29日アルンシュタット市参事会に新教会の鍵を返した。
 音楽にはあくまで自己を貫き、生活の場では十二分に楽しむ…… 青春の4年間であった。

『 ミュールハウゼン時代 』 1707~1708
 アルンシュタットの環境に不満を抱いていたバッハはひそかに転職先を探していた。生活の辛酸をなめてきたバッハは慎重に行動した。ミュールハウゼンの主要教会のひとつである聖ブラジウスの就職試験の結果を手にし、任命式を終えて、はじめてアルンシュタットの市参事会に辞職を申し出た。歴史ある帝国自由都市ミュールハウゼンの主要教会のオルガニストという地位はアルンシュタットとは格段の差があった。年報は同じだったが前任者よりは多く、現物支給や引越し費用の支給もあった。
 この町で作曲されたカンタータは5曲残っているが、おびただしい数のカンタータの中でも人気のある作品だ。母方の伯父が遺産を遺してくれたお蔭でバルバラと結婚することもできた。
 バッハの向上心は存分に発揮され、オルガンの改造計画案も受け入れられた。だが彼はわずか1年で「解雇願い」を出したのだ。理由には諸説あるが、思うような教会音楽を書ける状態でなかったことは確かだろう。今回も次のワイマールの職を決めてから行動した。1708年夏、新妻バルバラとその姉を連れて馬車で旅立った。そのときバルバラは長女をお腹に宿していた。「チューリンゲンのローテンブルク」とも呼ばれる町で旧市街の周りには市壁の跡、塔の遺構が残っている。

『 ケーテン時代 』 1717~1723
 ワイマールの宮廷楽長を諦めざるを得なかったバッハにとって、ケーテンの宮廷楽長へ高給での招聘は願ってもないこと。ワイマール公に再三解雇を願い出るが拒否され、ついに「禁固処分」になる。4週間で釈放され、早々にケーテンに向かった。
 ケーテンは小さな城下町で、当時23歳の若い領主レオポルト候の統治するアンハルト侯国の首都であった。ライプツィヒから50km、ルターの町ヴッテンベルクから40kmにあり、宗教改革後はルター派の影響下にあった。ところが1596年以降カルヴァン派であり、ルター派に対する圧制が続いていた。
レオポルト候もカルヴァン派であった。彼は幼少より音楽を愛し、領主になる前にオランダ、イギリス、イタリアを旅行し見聞を広め、また実際に学んだ。ヴァイオリン、クラヴィーア、ヴィオラ・ダ・ガンバの演奏は素人の域を脱した腕前で、美しいバスの声を持つ歌い手でもあった。彼はバッハを尊敬すべき友人として扱い、バッハの息子の洗礼の際は代父もつとめた。二人の結び付きはバッハがケーテンを去ってからも続き、バッハは何度もケーテン宮廷で演奏している。
 1713年ベルリンの宮廷楽団が解散になった。プロイセン国王フリードリヒは音楽より軍の拡張に熱心であったからで解雇された楽団員の中の少なくも5人はケーテン宮廷楽団に入った。1716年には18名の楽師を誇るまでになったが1717年宮廷楽長のラインハルトが去り、その後任としてバッハに白羽の矢がたてられたのだ。そしてレオポルト候に招聘され、破格ともいえるほどに厚遇された。
ケーテンで残された作品は少ないが宮廷生活を反映するかのように明るく力強い表現にあふれている。
だがレオポルト候はカルヴァン派であるため、宮廷楽長のバッハは教会カンタータを書く機会はなかった。カルヴァン派は礼拝に音楽を禁じ斉唱のみであった。このような環境でも年2回バッハのカンタータが鳴り響いた。それはレオポルト候の誕生日と元旦の祝賀カンタータである。
 1718年5月、レオポルト候はバッハと5人の楽師、さらにチェンバロまで持参のうえ、保養地カールスバート(カルロヴィ・ヴァリ)に旅立った。ここは当時貴族たちの集う場所で、候とバッハは2年後の1720年5月にも訪れた。7月に帰宅したバッハを待っていたのは悲嘆にくれた4人の子供たちであった。元気に見送ってくれた13年連れ添った妻バルバラが突然世を去り、7月7日にすでに葬られていた。35歳のバッハは12歳をかしらに5歳までのこどもをかかえ途方にくれた。
 家庭生活の激変したこのころ、仕事のうえでもレオポルト候の音楽に対する出費が減少し、宮廷楽団も
縮小され始めていた。1720年9月バッハはハンブルクに向かった。聖ヤコビ教会のオルガニスト、ハインリヒ・フリードリヒが世を去り後任を探していた。11月28日の試験演奏に名乗り出たのはバッハを含め8名であった。しかしバッハは12月10日のレオポルト候の誕生日の準備のため滞在できず、これに先立ち聖カタリナ教会で2時間以上のオルガン演奏を行った。かつてリューネブルク時代、憧れのラインケンの演奏を聴いた演奏台にケーテン宮廷楽長として登ったのである。97歳になっていたラインケンはじめ、市参事会員や有力者たちを含む聴衆はバッハの即興演奏を絶賛した。ケーテンのバッハに採用通知が届けられるが12月12日の委員会にバッハからの返答はなく、1週間後に再会した委員たちは、彼がハンブルクの申し出を断ったことを知ったのである。この理由は、採用された人物が多額の寄付をしていることから金銭面からと思われている。
 1721年バッハは再婚した。2度目の妻のアンナ・マグダレーネはソプラノ歌手で16歳年下であった。突然4人の子供の母になった彼女の日常は楽ではなかったろう。12歳の長女ドロテアの助けがあったに違いない。すぐれた音楽家であった彼女は夫の作品の筆写作業を数多く手伝っている。バッハも彼女のために2冊の「音楽帖」を贈っている。バッハの再婚の8日後、レオポルト候が結婚した。その妃は音楽嫌いであり、バッハは本気になってライプツィッヒに目を向けた。

追記:バッハが生活した町の中で10歳から15歳までを過ごしたオールドルフだけ行くことができなかった。ここは第2次大戦で破壊され尽くされ、その後バッハが仰ぎ見た「聖ミカエル」はいち早く蘇っていたらしいが、交通手段、町の地図など調べることができず諦めた。
『オールドルフ時代』1695~1700
9歳で最愛の母が他界、翌年には父も世を去り10歳のバッハと13歳の兄ヤーコブはオールドルフの長兄クリストフ(24才)に引き取られた。クリストフは優秀な音楽家でバッハはクラヴィーアの基礎を学んだ。有名な逸話として“兄の持つ「南ドイツ楽派の巨匠たちの作品集」を、こっそり月の光のもと6ヶ月かけて書き写したが兄に取り上げられ世を去るまで戻らなかった”という話が追悼記にある。兄ヤーコブはすでにアイゼナハに戻り修行していた。バッハは15歳を目前にして共にラテン語学校で優等生であったエルトマンと連れ立ち、豊かなハンザ都市リューネブルクへ300kmの道のりを徒歩で向かった

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