54歳からの欧州一人旅と日々をつれづれに

思いつくまま時、場所を選ばず綴ります。

府中「新・クラシック大好き」 1回-3回 雑記

2015-08-31 11:37:54 | 日記・雑記2011.1~
府中生涯学習センター教養講座「新・クラシック大好き」全6回 講師 音楽評論家 奥田佳道
前回のN饗メンバーの講座全6回に続き申込み 6回3000円 水曜14:00-16:00
7/22  第1回 猛暑と腰痛で不安だったが気分転換優先で出掛けた
テーマ: 「楽の音と戯れたモーツアルト~協奏曲とオペラの喜びを皆さまと~」
モーツアルトについて知っている話が多く「楽の音と戯れたモーツアルト」というテーマは?
プリント:「交響曲31番」 「ピアノ協奏曲17番」 「交響曲41番」
私のメモ:当時フルートは今のリコーダーを横にしたものに近く難しくてモーツアルトは好きでなかった
交響曲にクラリネットが入らないものが多い オーボエやファゴットが好きでフルート・クラリネットが邪魔だった 
思い浮かぶ私の旅リンク Stギルゲン  ロベレ-ト インスブルック

8/5  第2回猛暑と腰痛で不安だったが気分転換優先で出掛けた
テーマ: 「次代を切り拓いたベートーヴェンを聴く~名曲の愛称をめぐって~」 
プリント:「交響曲1~9番 ピアノ協奏曲 5番 ヴァイオリンソナタ 5番・9番 ピアノソナタ 8・14・21・23・26・29番」 
私のメモ:ベートーヴェンが題名をつけたのは交響曲3番「英雄」6番「田園」ピアノソナタ8番「悲愴」29番「告別」
印象に残ったのは「英雄」のベートーヴェンの貴重な自筆表紙の大画面 有名な話だがナポレオンに失望し
エロイカ=ヒーローのサインを上からクシャクシャに書き消した 当時上等なサインはラテン語の次イタリア語、次に
フランス語だったのでル-ドヴィッヒではなくイタリア語のルイス・ベートーヴェンとサインした
「運命」のダダダダーンは始まる前に8分休符があること 交響曲の最後にフェルマータを付けたのは初めて 
宗教曲にはあったのでクラリネットを伸ばすと宗教曲になってしまうなど…私は楽譜知識なく難しい 
フラット3つのハ短調と変ホ長調の聴き比べ 3度下げて緊張を解し飽きさせないように(ハ短調→変イ長調)
フラット多く使うと優しい音になる フラット3つには自由・平等・博愛のフリーメイソンの意味も
ドミソドソミドのシンプルな繰り返し 当時小編成で演奏するため編曲はたくさん存在する
最後に涼しい「運命」としてベートーヴェンの友人が編曲した弦楽5重奏を当時の楽器で3分聴いた
私の旅リンク ハイリゲンシュタット2  バーデン  ベルギーメヘレン カルロヴィ・ヴァリ

8/12  第3回 猛暑と腰痛で不安だったが気分転換優先で出掛けた
テーマ: 「シベリウス生誕150周年に寄せて~フィンランディア秘話~」
プリント:「フィンランディア」 「交響曲 2番」 帝政ロシア支配下1899年2月フィンランドで「新聞の日」という
愛国的な行事が3日間開催されることになりその最終日に「歴史的情景劇」上演 33歳のシベリウスにより
序曲と6景が創られた 交響詩「フィンランディア」はその終曲「フィンランドは目覚める」を改訂した作品
独立を果たすまで「suomi(フインランド)」「祖国」「即興曲」の別名で演奏を許された
私のメモ:フィンランドはスカンジナ半島に属さない民族 言語が所々共通するハンガリー・エストニア
フィンもハンもFinと書きアクセントは前にある 次期N饗首席指揮者エストニアのパーボ・ヤルビのパーボはフィンランド語
バルト3国の中でもエストニアだけが共通点多い国 世界で1番短い国際線はタリン~ヘルシンキ15分
テインパニ-で森の針葉樹の囁きが続く…この神聖さをヨーロッパ人は理解できずフィンランドファンは日本人に多い
ヨーロッパで演奏される事は少なくウィーンで顕著 理解して演奏し聴衆も好むのは日本・イギリス・フランス
特徴ある振動音ティンパニの長いトレモロは強弱がとても難しい 神聖、静寂、喜び…
私の一人旅初回1990年6月7日リンク シベリウス晩年のアイノラ家と墓 ヘルシンキのシベリウス公園
8/12 後半は前回のベートーヴェンの補足40分
病気上がりのアバドが故郷ローマで振った「ベートーヴェン交響曲2番」映像見て感動
ベートーヴェン交響曲1番・2番に作曲の新しい試みがたくさんある 偶数が女性的で奇数が男性的の定説
楽器編成が指定より1人多い時は音を強調したい時と首席奏者の負担を少なくするための優秀な奏者
ライブラリアンという指揮者の指示をパートごとに書き込む裏方の仕事はもっと優遇されるべき
音楽界にとってオリンピックどころでない2020年はベートーヴェン生誕250年
***************************************************:
先生は100人ほどの聴衆に話すのだから仕方ないが私には知っていることピンとこないこと混在
メモを見て気になったことを書き並べ自分だけ分る内容だが日記の積りで… 
4回目8/26 鍵盤の詩人ショパン 5回目9/9 音楽の都ウィーン  6回目9/30 華麗なるウィンナ・ワルツの世界
こんな機会にアルバムを広げず思い出写真にリンクし懐かしむ時間がもてるブログの利点発見
今日8/31 一気に秋の気配 体操の効果か腰痛良くなってきた感じ 投稿したくなる写真撮りたいな!   

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8/21(金)雑記・日記

2015-08-21 14:10:32 | 日記・雑記2011.1~
腰痛経緯:5/8三鷹まで歩く途中歩けない痛さ やっとの思いでメガロスに着いたが太極拳は無理
5/9レントゲンとCT検査したが病名? 年齢相応、痛み止めで海外旅行OKと
1日3錠ロキソニン2週間続けても変化なし 決めていた海外旅行は5/29キャンセル
6/29痛み止めを飲み続けると胃に穴が開くと別の医師から坐薬を薦められたが家事に
支障ないなら坐薬しなくてもそのうち治るといわれ 痛み止め飲むのを止めた
7/3知人に聞いた神経ブロック治療の医者に行き薬リリカを10日分飲んだが変化なし 続けるか迷ったが… 
8/4他の知人から聞いたMRI検査できるS整形外科へ 11:30に行くと待ち時間2時間半の表示 
クラシック音楽流れ快適だが検査、薬処方で帰宅夜20時 MRI映像と骨密度のコピーを貰った
病名「腰椎椎間板ヘルニア」 ロキソニンとリリカは体験済みなので血行を改善するオパルモン14日分処方 
8/18再度S整形外科へ 16:30に行くとまた待ち時間2時間半の表示 同薬28日分処方 帰宅21時
こんなに混んでいてはゆっくり先生に話は聞けないし話せない 腰痛の本を読み体操するのみ…
8/21症状:朝起きた時特にきつい 右腰から下へしびれあり姿勢によりとても痛い 
3か月前より外を歩くのは少し早くなり楽だが常に痛いのでかばいながら歩く それ以前は
痛み止めを飲んで直ったり、自然にいつの間にか治り気候のせい?くらいで済んだのに…

8/10是政橋を渡って稲城の天然温泉に行ってみた 予想以上に快適 8/12再度行った 快適 
8/16家のそばのバス停が駅前が整備されバス経路変更になり遠くなってしまいショック!
好奇心を持ちよく歩き、食事に気を配る日々に努めれば元気な老後が…と思っていたけど 

*FM2:00-4:00「吉田秀和が語ったベートーヴェン」1998年「名曲のたのしみ」他の特集
8/17第1回「作曲家のの全体像」8/18第2回「カルロスクライバー」8/19第3回「ピアノソナタの数々」
8/20第4回「弦楽四重奏曲の魅力」室内楽  (高校野球より優先で聴く) 
*FM7:25-9:20「あなたの知らない作曲家の素顔」西村朗・羽田美智子 再放送 
8/17ハイドン  8/18ベートーヴェン  8/19チャイコフスキー  8/20ラベル 知らないことが多く有意義
吉田秀和さんの話しぶり名解説に聞き入り本を開いて確認し、西村さんの話で知らなかった
チャイコフスキーをもっと知りたいと思い… ハイドンやベートーヴェンのことも楽しい話だった 
 
手持ちの本で聴いている曲の頁を読むと更に感動 右1987年初めての海外旅行で遺書と私の手が 
「ハイリゲンシュタットの遺書」の家の2階で鐘の音が聞こえないベートーヴェンを想ったことを思い出す
「昭和天皇7つの謎」最後まで読み終えた 驚きがいっぱい! 腰痛の本参考部分コピー
「昭和天皇7つの謎」 読んで特に驚いたのは終戦後天皇は退位とキリスト教信仰を思ったこと
昭和23年良子皇后と3人の皇女(3女孝宮、4女順宮、5清宮)の讃美歌のハーモニーが…天皇は苦手で
歌には加わらず口元だけ盛んに動かし真剣な表情で月1度参加された そこから正田美智子さんへと
繋がる糸 聖心女子大が出来るまでとそこが良子皇后と縁がある地だったこと…バイニング夫人のこと…
宮城を「皇居」と呼ぶようになるのは昭和23年からで徳川将軍の城へ明治天皇が来られたいきさつ…

「ふりさけみれば」 8/20 大正10年5.29 3週間に渡るイギリス日程を終えフランスへ 非公式だったのでパリ
の日常を比較的自由に見学できエッフェル塔では婚約者良子女王への土産として塔の模型を購入…
(「昭和天皇7つの謎」に、この時良子女王への反対派山県有朋らが婚約を破棄させる企てをしていた)
8/21 大正10年6.10パリから列車でブリュッセルへ当時英雄国王と呼ばれたアルベール皇帝の出迎え
1914年サラエボ事件発火点にドイツがベルギー国境突破 この時アルベール皇帝が進撃を遅らせた
4年半に及ぶ大戦でベルギー国土大半を蹂躙されながら最後までドイツに屈しなかった
アルベール皇帝は戦争の悲惨さを感じてもらいたく激戦地イープルへ案内 英国国王ジョージ5世は
イープルの戦跡を見学するよう勧めた 裕仁皇太子は涙の中ジョージ5世に電報 その返電が届く 

8/21 高校野球が終わり猛暑からも解放され少し落ち着いた気分 昨日投稿予定を投稿


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8/15(土)70回目の終戦記念日…

2015-08-15 19:07:01 | 日記・雑記2011.1~

原爆投下の8/6広島8:45 8/9長崎11:02 そして終戦の8/15正午 3回共黙祷した
8/15 今年も式典に天皇・皇后ご出席 そのお姿にご健康を祈らずにいられませんでした
今日高校野球は1回戦が早実 8:4で勝利 1年生清宮はあどけなさも好感 また見れるな~
高校生たちの苗字より名前が気になる私 いい名前が多い 付けた人の願いに思いを巡らす
今夜BS10:00~ 錦織が7戦全敗のナダルとどう戦うか楽しみ 素晴らしい若者いっぱいだ
原爆の恐ろしさが分っても持つ国があるのが現実 どうしようもない複雑な人間社会だが
この素晴らしい若者たちなら平和を守っていけると… 明るい気持ちにしてくれる
65回目の終戦記念日にも投稿してあったので久々の投稿)

雑記
産経新聞連載“「ふりさけみれば」 昭和天皇の87年” 川瀬弘至 第Ⅰ章 昇陽の日々(4/1~6/27)
第2章 帝王教育75~109回(6/29~8/8) 第3章天子への道110回~(8/10~)
赤線を引いて読んでいる
3章は大正10年20歳の裕仁皇太子が丸刈りだった髪を伸ばしはじめたところから(欧州各国外遊のため)
大正天皇は生後間もなく髄膜炎を患い病気がちだったが貞明皇后とご結婚後は地方巡啓も重ねていた
だが病状悪化 原首相や山県枢密院議長ら元老、政府首脳が皇太子を摂政とし、まず世界の大勢に
ついて見聞を広め、各国元首らと直接交際し、五大国の一員となった日本の君主にふさわしい態度や
思考を磨いてほしいと考えた 貞明皇后の同意は翌年10年2月13日 同年3月3日慌ただしく横浜港出港
艦内ではデッキゴルフも楽しんだ 最初の寄港地沖縄で真心こもった歓迎(昭和天皇はこの訪問を終生
忘れなかった)次の寄港地香港では反日朝鮮人活動家が潜入したとの情報に伊藤博文暗殺の例もあり
海軍軍装で上陸したのは替え玉の北白川宮能久親王の第4皇子小松輝久侯爵 25分後に背広姿の皇太子上陸4日間を歓迎の中で過ごした 18日シンガポール→セイロン→スエズ運河→マルタ島 30日ジブラルタル どの地でも歓迎された 艦内では作法や言語の特訓も 東宮御学問所時代泰然とした態度を求めた杉浦の教えや寡黙な東郷の姿勢を見習ってきた皇太子は社交性に欠けると批判された テーブルマナーやデッキゴルフでのフェアープレー精神も叩き込まれ身につけた 5/9英国上陸 26歳のエドワード皇太子とはフランス語で懇談した このころ日英同盟の今後にイギリスは方針が揺れていた アメリカが反対していたのだ 大正10年5月9日の晩餐会はジョージ5世メアリー皇后、ロンドンの英国皇族全員とロイド・ジョージ首相ら政府首脳…盛大に 乾杯の後立ち上がった裕仁皇太子は堂々と立派な演説をした 駐英大使館書記官の吉田茂もこの演説に感動したことを書き残している 演説は静まり返ったホールに拍手の嵐を巻き起こした 
ここまでがこの1週間6日分の拾い読み 次どうなるか…

「昭和天皇7つの謎」加藤康男著も図書館で借りて読んでいる 今までとは違う受け止め方出来る
この本からも忘備録としてここに書いておきたいこといっぱいだ 新しい資料が出ると全然
違う見方が… 偏見で決め込まないようにしなければと 返却日近いがまだ335頁の136頁  

新聞・テレビで広島・長崎のあの日の記事、特攻隊…悲惨な経験を背負ったままの生涯だった多くの人
私も集団疎開は3年生、半年で栄養失調になり田舎へたった一人疎開したのが4年生 玉音放送の日
学校行かなくていいと言われ一人で庭にいたような気がするが終戦の記憶はない 他人の家での
心細い日々、学校でいじめられる怖さで3月生まれの私は戦争のことは考えられなかったかもしれない
田舎での日々は辛く暗いものしかない 愛情を感じた思い出が欲しいが浮かばない 
 
腰痛は治らない いつまでも元気にさっさと歩き低山は行けると思っていたが…ほんとにこのまま?
与えられた人生を一所懸命生きれば神様は見ていると信じて、このブログが投稿できる現実に感謝 

追記:8/15投稿後テレビ19:00ニュースで錦織勝って準決勝はマレーと ( 8/16マレーに2:0で完敗)  
 
左:S19年夏3年生で川治ホテル疎開 H27.8.15ブログ閲覧数 「昭和天皇7つの謎」目次1部分 
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする