54歳からの欧州一人旅と日々をつれづれに

思いつくまま時、場所を選ばず綴ります。

私の旅したバッハゆかりの地 7 完

2014-03-15 13:07:14 | 『冊子バッハ』
  私の旅 〔Ⅶ〕
 2003.7.16~7.31 (16日間)
16回目の旅はチェコの世界遺産を見ることに挑戦した チェコを一人歩き出来るのか心配したが親切な人につぎつぎ出会えて楽しい思い出で埋め尽くされた チェコへの入り方はドレスデンからプラハにエルベ川を遡るザクセンのスイスと呼ばれる列車の景色を選んだ 今回の旅のもう一つの目的にルターが晩年を過ごしたルターシュタットを訪れることもあった まずベルリン1泊(日本で予約) バルト海の港町ヴィスマール、ロストック、シュベリン、シュトゥラールズンドを宿泊しながら周り、ノイブランデンブルクに途中下車し散策してからベルリン経由、ルターの町ヴィッテンベルク13:28着 小さな町で駅前には何もなく宿を心配したが町に入る手前で良いのがすぐ見つかった その日のうちに有名な「95ヵ条の論題」を張り出した教会の扉、ルターが宗教改革のあと妻と6人の子供と暮らし亡くなるまで過ごした家、城内教会、マリエンキルヘへ、クラナハの家を見た 
7/20ヴィッテンベルク 8:04発 途中デッサウ1時間半弱、ハレ 2時間半散策、ライプツィッヒ経由ドレスデン15:47着 2度目のドレスデンは初回から5年経ち大分きれいになっていたが、まだ工事中や壊れたままのものが多かった この町は第2次大戦で全滅してしまっている 7/21 7:59ドレスデン発 ザクセンのスイスの景観を堪能して10:47プラハ・ハラショビツェ着、中央駅への乗換えでは私のへたなドイツ語を聞きとってくれる人もなく暗い気分になった プラハの駅のインフォメーションも感じが悪かった 予約してあるホテルに行くのも迷って大変だった やはり大きな町は苦手 その日のうちに世界遺産クトナホラへ往復した プラハ1泊後、ブルノ2泊、テルチ1泊、ヘプ3泊でチェコの世界遺産の予定したものは見ることが出来た ヘプ滞在中カルロヴィ・ヴァリに行った 町のようすが分からないが鉄道パスがあるので駅に着いてから考え臨機応変に移動するつもりだった 駅にいたおじさんに街への行き方を聞くと、教えて別れたものの気にかかるらしく少しずつ教えてもらううちに一日中付き合わせてしまった 私と同年代くらいで孫を駅まで送ってきたとのこと ドイツ語も少し通じて戦争体験や洪水被害の話をしてくれた 地図や温泉水を飲むかわいいカップ、名物のワッフルまで買ってもらった 町で配っていたパンフレットをこのおじさん(カールさん)が受け取ったのを覗くと教会でバッハが聴けるようだった カールさんも興味があったらしくコンサートも付き合ってくれた バッハのほかにモーツアルトの「アヴェヴェルムコルプス」などを白い高い天井の美しい教会で聴くことができた 3時からのコンサードでの間にロープウェイでディアナ山に上ったり町を案内してもらった 17:30カルロヴィ・ヴァリ発の列車でヘプ18:34に戻った
 
 チェコで7泊し、ヘプ8:23発、ニュルンベルク経由ミュンヘン12:15着 ミュンヘン2泊してコペンハーゲン経由帰国した 
 帰国後カ‐ルさんに写真を同封して手紙を出したが返事はもらえなかった


*カルロヴィ・ヴァリ: バッハはケーテン時代レオポルト候がこの保養地に滞在する際音楽は重要であり同行した 
1718.5.9発ち7.12にケーテンに戻った時13年連れ添った最愛の妻バルバラは7.7に死去埋葬されていた バッハが何度も来ていたことを私は後で知った
 ベートーヴェンとゲーテが並んで歩いた(ゲーテは紳士風にベートーヴェン反対の姿)とかベートーヴェンの不滅の恋人によく載る地だがバッハに関することはなかった
深い谷あいにある長い歴史を持つ温泉保養地 中世以来何度も洪水や火災、戦災などの被害を受けた 間欠泉ウジードロは、地下2500mの所から、毎分2000ℓの温泉水を12mの高さまで吹き上げている 名物はスパ・ワッフル、強い酒ベベヘロフカ 

後記:「バッハ編」途中まで草稿出来ていたが 3/5からのgoo編集トラブルいまだ解決せず゜パソコンに苦戦
[Ⅶ] 写真は省略します ベルリン ドレスデン カルロヴィ・ヴァリはバッハ関連の地です 下線部リンクで見てください 統一してない部分、重複など気になりますが゛編集画面が正常でないので「バッハ編」終了します


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