今日は、夏越の祓いのお祀りでした。
月末の月曜とあって、末締めのお仕事の方とかお忙しかったのではと・・・。
わたくしも、今日は、教会に専従するつもりだったので、先週末は、会社の末払いの支払い予約をし、給料計算と支払い予約、市場に出すお花の寄せ植え・・・と、三日分ほど働いた
今朝は、お供えの鮮魚の仕入れ、ちらし寿司の用意、車道の掃除、花の水やり・・・。
アラハチいやオーバー80約二名がほとんど役に立たなくなったためフル活動。
しかし、考えてみると・・・、今まで役に立っていたのかと振り返るとたいした実感もないので自分のペースでするしかない。
ちらし寿司の米の目安は、だいたい一人0.6合としている。
で、想定する人数をかけてご飯を炊く。
今日は、一升炊きの炊飯器で二回、1.5升炊きの炊飯器で一回。 こんなもんだ。
以前は、・・・できない・・・と思っていたが、・・・へ、50人分?100人分?
そんな自分がおそろしい・・・。
経験と年数は人をたくましくする。
故に、おばちゃんはたくましいのだ。 これが世の常。
今日は久しぶりの珍しい人たちも来られて充実した時を過ごせました。
久しぶりに、おじいちゃんのお話をアップ
まずは、手の組み方から。
両手の親指を合わせどちらかの手に重ね掌を上に向けたその中に玉を抱くイメージで息を大きく三回する。
手を合わせるということ・・・片方を神様、もう片方を自分としたとき、手を合わせることで神様とひとつになれる。
人間は普段たくさんの物事を抱えすぎている。考えすぎている。
息を三回大きくし、静かな気持ちになろうとするときでさえ、雑念が入ってなかなか「無」にはなれないものだ。
そのたくさんの意識を除けようとするその気持ちが神さんに近づいていける過程なのだ。
昔から、ナマズが暴れると地震が起きるとか、ネズミがいなくなると火事になるとか言われている。
雑念をもたない動物たちは自然の何かを敏感に感じとることができるということなのかもしれない。
孫から預かっているウサギをみていると、あくびをしたり伸びをしたりと実にのんびりしている。私もそんな風にしてみたいが、人間の生活というものはそうではない。しなくてはいけないことがたくさんあるし、考えなければいけないこともたくさんある。
そんな人間にとって、「無」になり自然の力を感じることはとても難しいことであるのは承知のことだ。
今日の、葦の輪をくぐる神事も・・・。
葦の輪をくぐって何になる・・・そう思う人もいるとおもう。しかし、葦の輪をくぐって元気になったという人もいるということも真実だ。
一年を振り返って、元気でいられたのは葦の輪をくぐった御蔭だと思えるような気持ちを持つことが大切だ。
「無」になろうとすることで「無」の状態に近づけるのである。
そのような状態を自分から求めなくては前には進めないものだ。
意識をすることで神さんに近づき御蔭を受けてください。
というような話でした。
ひとつの物事に触れ、それが当たり前のこととして過ごしてしまうより、その偶然に遭遇したことに意味を感じまた意味を見いだせる・・・そんな生き方を心がけたいな・・・。と改めておもうです。