哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

原子力は神か?

2011-12-05 02:55:02 | 
最近、「江夏の21球」をDVDでまた見てしまった。悲運の闘将が亡くなったからではなく、大澤真幸氏の『ThinkingO」10号の内容が3.11をテーマにした脱原発論で、その文章では、原発とキリストとノンアルコールビールと江夏の21球が一緒に論じられていたからだ。これらが一体どう繋がるのであろうか。ざっとまとめると、次のような感じである。


原子力発電は神の如く安全なものとして崇められていたが、それを、キリストが神のごとく崇められていたことに例える。しかし、キリストは処刑されて死ぬ。原子力発電も、キリストが死んだ如く、その安全神話が大震災により葬られたとする。また、原発はノンアルコールビールのように安全と信じられてきたが、実はアルコール入りであったというような、実は危険なものであることがわかった。そして、原子力発電を安全に運営できるという技術神話は、江夏の19球目のように、神がかり的な技によって原発を安全に運転できるとするような、現実にはまず不可能な前提なのであると。


どうやったらこんな突拍子もない比喩の発想ができるのだろうか。結果として、大澤氏は脱原発を支持するようだ。確かに、臭いものに蓋をするように現実を直視せず、根拠もなく安全や快適さの永続を信じてしまうことが、実際に多いのかもしれない。

池田晶子さんも、原発は絶対安全というのはありえないと指摘していたのは前に引用したとおりだ。池田さんが原発の将来についてどう考えていたのかはわからないが、きっと電気が不足するなら、それを前提に生活すればいいだけだ、と言うことだろう。電気が不足すれば、家庭の家電品の多くは動かなくなり、テレビやエアコン、パソコンなど、主に娯楽用や快楽的なものから利用できなくなるかもしれない。そうなったら、現代の生活状態から考えると確かに不便にはなるが、震災時には一時期でもその状況で生活していたし、そのような生活に戻ったからといって、「考える」ということそのものは全く揺るがないと言うことだろう。ブログやツィッターがなくなれば、むしろ質の悪い言葉の氾濫に歯止めがかかると、池田さんなら歓迎しそうである。