哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

『「正義」を考える』 (NHK出版新書 339)

2011-03-05 18:32:32 | 
 社会学者の大澤真幸氏の本である。最初はサンデルブームに多く見られる便乗本かと思ったが、大澤真幸氏がそんな安易な本を出すはずはないと思いつつ、半信半疑で読み進めていった。読んでみると、もちろんサンデル氏も取り上げられているが、話題は多岐にわたり、現代社会をいろんな切り口から分析している。サンデル氏の立場であるコミュニタリアンに関する批判も行っている。


 この書物の底流にある、現代社会の病的な要素を一言でいうならば、「物語性の困難」ということだろう。冒頭の『八日目の蝉』の話もつまるところ、人生の物語性を肯定できない状態を指している。この物語性の困難が、コミュニタリアンに対する批判にもなっているのだ。コミュニタリアンは共通善を正義とするが、それは共同体内の共通性の中にとどまる見方であり、共同体は物語を共有するはずである。しかし、大澤氏は前述の通り、現代においては物語性の困難があるため、コミュニタリアンの前提が破綻していると指摘する。


 コミュニタリアンの難点はともかく、この本の中で大澤氏が主張していることの多くの部分が、なぜか池田晶子さんがよく書いていた直観的結論の部分に似ているように思えた。大澤氏はいろいろ事例を挙げて、立証するかのように分析していくのだが、その結論が、池田さんの端的な直観的結論に同じ内容になっているのだ。


 ただよくわからなかったのは、アリストテレスのアクラシア(悪いとわかっているのについやってしまうこと)について述べているところで、大澤氏はメタレベルでの快(=善)と苦を考えればよいという。メタレベルで考えるということは、さらにその上の階層のメタレベルが考えられることになり、その階層は無限に続いて、どこまでいっても最終的な、決定的な善が出てこないことになる。大澤氏はその無限の階層性を、現代の特徴である「資本主義」における貨幣の再投資という動きと重ね合わせて論じる。ただ、ソクラテスは、端的にアクラシアはないとしたそうだが、その方がすっきりしそうではある。


 メタフィジカルな池田さんならどう説明するだろうか。