哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

東日本大震災

2011-03-18 06:45:45 | 時事
 今回の地震では、津波の凄さを映像により思い知らされた。海外の地震での津波の映像は見たことがあったが、日本で実際に起こるのとでは切迫感が違うのだろう。このような悲惨な事態を目にすると、9.11のときもそうだったが、言葉を発することができなくなる。


 ところで、地震については、池田晶子さんははっきりと書いてくれている。


「大地震の直後、人々の率直な想いはこんなふうだった。すなわち、自然は畏れるべきものだ、人間はその前には無力なものだ、我々は驕っていた、人間の営みははかないものなのだ、そして異口同音にこう締め括ったのだ、「考え直そう」と。
 考え直す-。でも、何を? 何をいったい僕らは考え直すことができるというのだろう。生存と存在について、どんな新しい考えが僕らには可能だというのだろう。震災に強い待ちづくり、普段から防災の心構え、危機管理体制を強化せよ、なるほどそれらはその通りだ。しかし、これらのことごとのどこがいったい考え直されたことなんだろう。生きるために生きようとすることは、地震の前だって同じだったじゃないか。自然が人間の力を越えていることだって、忘れていたことを思い出しただけで、新たに考え直されたことじゃない。
 なら、生死かい? 生活とか生命というものは、何かがなければ何となくいつまでも続いてゆくものだと漠然と思っていた、それが間違いだったということを思い知らされた。なに言ってんだい、そんなこと、こういうことでもなければ気付かれないくらい当たり前なこと、それがようやく気付かれただけのことであって、ちっとも考え直されたことなんかじゃない。ほんとうに考え直すというのはね、考え直すことなんかできやしないということを常に新たに考え直し続けることでしかないのだよ。
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 良寛さんの手紙、〈災難に逢時節には 災難に逢がよく候 死ぬ時節には 死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法〉
 これを皆は一種の諦観だと読んでいるようだ。人間の無力さ、諸行は無常だとね。しかし、違うね。こういう考え方のどこが諦観なんだ。こんなのはただの事実を述べたにすぎん。ほんとうの諦観というのはだな、諦めることなんかできやしないのだという考えに諦め続けることでしかないのだよ。」(『ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け』「地震と人生」より)



 かつて阪神大震災のときに被災して財産を失った人が、あれ以来物に執着しなくなったと語っていたことを覚えている。一生懸命貯めた、あるいは築いた財産を一瞬で失ってしまうと、その虚無感は計り知れないようだ。しかし、所詮物は物だし、物の追求を目的にした人生が虚しくなったのは、実は地震のせいではない。そのような人生が虚しいことはもとから当たり前のことだ、と池田さんなら言うだろう。

 それにしても良寛さんの手紙の言葉は、何度読んでも簡単には腹に落ちない。確かに諦観ではなく、事実のようだ。では、なぜ災難をのがるる妙法なのだろう。災難に逢い、死ぬのであれば、災難をのがれていないではないか。いや、のがれようと思うから災難だが、のがれようと思わなければ災難ではないということか。地面が揺れるのも、寿命が尽きるのも、単に普通に起こる出来事であるならば、わざわざ災難という必要もない。そもそも誰だって死ぬのだから、死ぬことそのものが災難であるわけはないといえば、確かにそうだ。