哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

『一般意志2.0』

2012-01-23 04:32:00 | 
今話題の本である。新聞書評でもいくつか取り上げられていたが、その中にはこの本の内容をSFとして考えるとわかりやすいと書いてあったりして、否定的な見解までは見られなくても、実現性を疑問視していそうな書評が多くみられた。そのくらい発想は大胆だが、ツイッターやグーグルの活用という提言としてとらえたら、現実に利用されているIT技術の応用であり、アラブの春や、事業仕分けの時のツイッターのリアルタイムの反応を考えると、著者の言っているとおり何かできそうな気になる。それを「一般意志」と捉えたところが著者の斬新さであり、しかも新しい民主主義の形態として考えるところは大変面白い。


これについて、池田晶子さんなら何というか。あれだけネット上にあふれる言葉の愚劣性を指摘していたのだから、否定的に考えたであろうとは思われる。この本において一般意志として立ち現れるものを“欲望"として捉えるとしていたが、欲望の総体としてネット上に現れるとするモノが、一体どのように政治的に何か志向するものになるのか、果たして一般意志として統一的に捉えることができるのか、考え出すとどうしても否定的な方向になってしまう。


それでも、疑問に思うことが多かろうが、こればかりはやってみないとわからないから、まずはやってみてほしいところだ。ツイッターやグーグルなら、まさに今既にある技術の応用だから、政治へのコミットメントは別として、実験であれば可能なのではないか。確かに池田晶子さんもよく書いているように、ネットの言葉は大体においてよく考えられた言葉とは思えないから、結果として政治的に使える意思が汲み取れるのか疑問ではあるが、何か新しいことが得られるかもしれない。


そもそも、今のメディアでまさに一般意志のごとく取り上げられる、世論調査での政党支持率や政権支持率は、その調査の母数は2000人に満たず、回答数は1000人程度である。電話調査での手法と聞くが、その結果が“世論"として大きな影響をもっているとすれば、かなり少数の意見が国民の意志とされていないだろうか。老若男女がスマホを利用する今の時代なら、もう少しましなデータは簡単に取れそうな気もする。



原子力は神か?

2011-12-05 02:55:02 | 
最近、「江夏の21球」をDVDでまた見てしまった。悲運の闘将が亡くなったからではなく、大澤真幸氏の『ThinkingO」10号の内容が3.11をテーマにした脱原発論で、その文章では、原発とキリストとノンアルコールビールと江夏の21球が一緒に論じられていたからだ。これらが一体どう繋がるのであろうか。ざっとまとめると、次のような感じである。


原子力発電は神の如く安全なものとして崇められていたが、それを、キリストが神のごとく崇められていたことに例える。しかし、キリストは処刑されて死ぬ。原子力発電も、キリストが死んだ如く、その安全神話が大震災により葬られたとする。また、原発はノンアルコールビールのように安全と信じられてきたが、実はアルコール入りであったというような、実は危険なものであることがわかった。そして、原子力発電を安全に運営できるという技術神話は、江夏の19球目のように、神がかり的な技によって原発を安全に運転できるとするような、現実にはまず不可能な前提なのであると。


どうやったらこんな突拍子もない比喩の発想ができるのだろうか。結果として、大澤氏は脱原発を支持するようだ。確かに、臭いものに蓋をするように現実を直視せず、根拠もなく安全や快適さの永続を信じてしまうことが、実際に多いのかもしれない。

池田晶子さんも、原発は絶対安全というのはありえないと指摘していたのは前に引用したとおりだ。池田さんが原発の将来についてどう考えていたのかはわからないが、きっと電気が不足するなら、それを前提に生活すればいいだけだ、と言うことだろう。電気が不足すれば、家庭の家電品の多くは動かなくなり、テレビやエアコン、パソコンなど、主に娯楽用や快楽的なものから利用できなくなるかもしれない。そうなったら、現代の生活状態から考えると確かに不便にはなるが、震災時には一時期でもその状況で生活していたし、そのような生活に戻ったからといって、「考える」ということそのものは全く揺るがないと言うことだろう。ブログやツィッターがなくなれば、むしろ質の悪い言葉の氾濫に歯止めがかかると、池田さんなら歓迎しそうである。

文庫版『ローマ人の物語』完結

2011-10-31 21:05:55 | 
 文庫版の『ローマ人の物語』がやっと完結した。塩野七生さんの最も有名な作品で、愛読者も多いことだろう。前回の池田晶子さんの言う通り、歴史を自分で思い出す材料となるのであろうか。ローマ人と現代の日本人がすぐにつながるようには思えないが、歴史は繰り返すというように、何か共通項があるようにも思える。とくに最後に書かれたローマ帝国の末期の姿は、様々の問題を抱える日本の姿にも重なる。例えばこんなフレーズがあった。


「一国の最高権力者がしばしば変わるのは、痛みに耐えかねるあまりに寝床で身体の向きを始終変える病人に似ている。」(文庫版『ローマ人の物語 ローマ人世界の終焉(中)』より)


 これを読んだ日本人は、ここ最近の首相交代の多さを思い出すことだろう。そして、首相交代の多さが政治力の弱い日本の姿を象徴していることも、メディアに指摘されるまでもなく感じ取れる現象だ。新しい首相が海外に行くたびに、だんだん軽くあしらわれているふうに見える。どうせ、またすぐに交代してしまうと見られているからだろうか。
 また、こんなフレーズもあった。


「亡国の悲劇とは、人材の欠乏から来るのではなく、人材を活用するメカニズムが機能しなくなるがゆえに起こる悲劇、ということである。」(文庫版『ローマ人の物語 ローマ人世界の終焉(上)』より)


 衰退期も優れた人材は居るのに、興隆期と異なり衰退期にはそのような人材は活用されないという。日本の政治状況についてのメディアでは、有能な政治家がいないという言い方がよく聞かれるが、これも単に埋もれているだけで活用できていないからなのだろうか。最近も、ある改革推進派の官僚の罷免が、保守派官僚の抵抗の結果として話題になっているが、官僚の世界も同様のことがあるのかもしれない。官僚の指揮を政治家がするのならば、その政治家を選挙で選ぶと民主主義国家における国民なのだが、さて国民がそれをどう判断できるのか。




『映画の構造分析』(文春文庫)

2011-09-10 02:39:39 | 
 新聞か何かの媒体で薦められていたので読んでみた。内田樹氏の本は、これまでもいくつか読んでおり、比較的好印象であったが、映画に関する分析というのは意外性があって面白そうに感じた。実際に読んでみて、取り上げられている映画の数がそう多いわけではないし、新しい映画もあまり取り上げられていないが、分析手法は大変面白い。

 本書を読んでみて、興味をもった部分を少し引用してみよう。


「退蔵してはならない、交換せよ。
 それが人間に告げられた人類学的な命令です。
 なぜ、そういう命令を人間が引き受けることになったのか、私たちはその太古的な起源を知りません。しかし、その命令を受け入れたものだけが「人間」として認知されるようになったということは否定のしようのない事実と思われます。」(P,137)


「人類学が教えるように、死者を安らかに眠らせるというのは生者の重大な仕事である。死者が「それを聞くと心安らぐような弔いのための物語」を語り継ぐことは、死者が蘇って、生者の世界に災禍をもたらすことを防ぐための人類学的なコストなのである。」(P,230)



 人類学について言及が少しづつあるのだが、人類学の知識は暗黙の前提とされているようで、詳しい説明があるわけではない。それにしても、退蔵せずに交換せよと引き受け続けるのが人類額的な命令で、しかも交換していく対象の正体は明かされない、とあるのは一体どういうことか。確かに全ての生物は命をつないでいくが、人類は命だけではなく、文明や文化の基礎となる英知を後世につないでいっている。その英知は、人間とは何か、宇宙は何故存在するのかといった究極の真理を探ろうとするものだが、究極の真理はついぞ明かされない。結局、無知の知をつないでいくのが人類なのか。「シーシュポスの神話」を思いおこすではないか。



『塩狩峠』(新潮文庫)

2011-08-27 19:33:33 | 
 つい最近、北海道へ行く船の中でこの小説を読んだ。この小説の主人公も船で北海道へ渡っており、ささやかな偶然の一致に不思議な気分であった。この小説は実話をもとにしていて、塩狩峠も北海道にあるという。


 この古い小説を読むきっかけは、文藝春秋誌(五月号)で佐藤優氏が「自己犠牲」(「命を捧げる気構え」)をテーマにしてこの小説を紹介していたからだ。この小説自体はキリスト教関連の機関紙のようなものに連載されたそうで、キリスト教に関する啓蒙的な内容も多く触れられているが、佐藤氏は必ずしもキリスト教にかぎらず、仏でも八百万の神々でもよいとし、「外部にある超越的な力に対して畏敬の念を持つことが重要」としている。この、超越的な力を認める考え方は、決して池田晶子さんと相容れないものではないだろう。


 その点については、池田晶子さんの文章を引用しておこう。

「自分を超えたものを認めるということは、本当に大事なことである。それのみが、我々の人生を豊かにする。認めるためには、特別な修行も勉強も要らない。万物が存在していることに不思議に、気がつくだけでいいのである。」(『41歳からの哲学』「なんと自在でいい加減-神道」より)




 佐藤氏の上記紹介の文章の最後の方では、「生命至上主義では、三月十一日の東日本大震災以後の状況の中で、日本国家と日本人が生き残っていくことができない。」として、日本国家と日本人のために、命を捨てる気構えのある新しい日本人が形成され始めているとしている。

 こちらの言い方は、決して池田晶子さんと相容れるとはいえない。国家や民族のために命を捨てるというのが本末転倒であることは、繰り返し池田さんが指摘していることだからだ。池田さんももちろん生命至上主義ではない。生きることが重要なのではなく、よく生きることが重要であり、つまりただ「生きる」ことよりも「よく(善)」が重要と考えるのである。だから、池田さんなら『塩狩峠』をそのような考え方において捉えたことだろう。

『日本語教室』(新潮新書)

2011-08-14 19:38:00 | 
 井上ひさし氏の講演を新書にした本である。かなり軽い内容で、話し言葉なので分量も多くないが、なかなか面白い内容であった。

 とくに意外だったのは、母語として日本語を話す人は、無意識のうちに、漢語とやまとことばとを使い分けているというところだ。

 実際に学生に、一から十まで数を数えさせた上で、それを今度は逆に言わせてみる。そうすると、上っていくときに七は「シチ」と数えたのに、下がるときは「ナナ」と無意識に言ったのだ。四も同じようなことが起こる。ためしに自分で数えてみても同じだった。

 さらに井上氏は、芝居の台詞もやまとことばにしないといけないといい、漢語だと観客の理解が一瞬遅れるという。そういわれると確かにそうかも知れない。言葉は確かに話し言葉から習得するのだから、日常で最も基本に話している言葉がやまとことばであるのであれば、その通りであろう。

 言葉というものが、人間にとってどういうものか、少し考えさせてくれる本である。また言葉だけでなく、少し物事の見方的な見解も示したりしているが、池田晶子ファンとしてはそれほど違和感は感じなかった。

『競争の作法』(ちくま新書)

2011-06-05 00:23:00 | 
 表題の書は、以前紹介した『競争と公平感』と昨年同時期に、経済書として話題になった本である。各書の著者は同世代と言っていいくらい近い年齢層で、2人とも経済学者らしく市場に対する信頼感が大変強い。

 読んでみた印象としては、以前紹介した本よりも、表題の本の方が扱う事象を絞っていて(失われた10年と戦後最長の景気回復が主)、かつ主張したいことが明確かつラディカルである(労働生産性を2割上げるか、労働コスト=賃金を2割下げるか)。そのラディカルな分だけ、『競争と公平感』に比較して少し推薦される度合いが低いようだ。

 「競争の作法」の意味は、最後まで読んで分かるようになっていて、端的にいえば、同じ土俵で競争して負けたのであれば、「負け」をきちんと認め、給料ダウンなどの結果を潔く受け入れるべきだということを言っているようだ。なぜならば、現在の日本社会においては、既得権益が保護されてしまい、公正な競争上の結果が必ずしも反映されていない常態が形成されてしまっているという問題意識があるからだ。

 この本の筆者のメッセージは、エピローグで端的に3つにまとめられている。①一人一人が真正面から競争と向き合う、②株主や地主など持てる者が当然の責任を果たす、③非効率な生産現場に塩漬けされている資本や労働を解放す、の3つである。


 意外であったのは、この本の最後の方に中島敦の「山月記」が出てきたことだ。「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」というキーワードは、高校の教科書で読んで以来、何度も反芻しつつも、未だになかなか本質に迫る理解を得たとは思えていない。ここでの筆者の謂いは、「競争を正視するとは、自身の内なる虎に克ち、他者を尊重することにある」というものだ。

 さらに筆者は坂口安吾の『堕落論』も引用したうえで、競争原理について、善悪で考えた倫理で葬り去るのではなく、美学と道徳で守りきるべきと結ぶ。

 ここで善悪を持ち出されてしまうと、池田晶子ファンとしては、市場競争原理という損得で考える経済システムと、善悪で考える倫理とは関係ない、ということになるのだろうが、それでも社会のあり方について有益な示唆に富む一冊である。

『諜報の天才 杉原千畝』(新潮選書)

2011-05-01 08:08:00 | 
 本の題名から、もしかしてこれまで認識していた杉原千畝像が変わってしまうのかも知れない、と危惧しながら読んだが、結局杉原千畝のヒューマニストたる面の印象はさして変更を迫られなかった。というか、杉原氏のヒューマニストたる一面は、あまり本書のテーマではないのだ。変わったとすれば、命のビザが守った敵はナチスではなく、ソ連からユダヤ人を守ったという点だろう。さんざん繰り返されているのは、杉原氏が諜報(インテリジェンス)について極めて有能であったとの話であり、戦前の日本外交において、結果として有能な情報士官(杉原氏を含め)の情報が必ずしも有効に用いられなかった点が日本の悲劇に大きく影響したとの内容だ。


 興味深かったのは、まさに命のビザを発給しながら、外務省にそのビザを安易に無効とさせないための工作を並行して行っている点だ。有能な情報士官は、本省にも全て手の内を明かさない面もあるそうだ。その意味で、同様のことが以前にもあったことが触れられている。ソ連に外交官として赴任を命じられたのにソ連からビザが発給されなかったことがあって、その理由は、杉原千畝氏に白系露人(反共産)の情報ネットワークの存在があることをソ連側が疑ったためだが、杉原氏は自国日本の外務省に対してもそのようなネットワークはない(実際には過去に白系露人の妻がいたくらいだから、ネットワークはあったはずと本書では指摘している)と答えたそうだ。有能な情報士官は、本省に対しても全ては開示しないという。しかし、結局それも究極的には国益のためだというのだが。


 本書は基本的に情報士官としての千畝氏にスポットを当てているので、杉原千畝氏の生涯の全てを描いているわけではないし、ビザを発行している最中の人道的なエピソードなどはほとんど書かれていない。さらに、著者は外務省内部の人だから、戦時中は不問にされたビザ問題が戦後に問題とされて杉原氏が外務省を辞めた経緯や、最近になってその名誉回復が図られた点までは触れられていない。しかし、杉原千畝氏という人物をより深く知るためには良い本だと思った。

『「正義」を考える』 (NHK出版新書 339)

2011-03-05 18:32:32 | 
 社会学者の大澤真幸氏の本である。最初はサンデルブームに多く見られる便乗本かと思ったが、大澤真幸氏がそんな安易な本を出すはずはないと思いつつ、半信半疑で読み進めていった。読んでみると、もちろんサンデル氏も取り上げられているが、話題は多岐にわたり、現代社会をいろんな切り口から分析している。サンデル氏の立場であるコミュニタリアンに関する批判も行っている。


 この書物の底流にある、現代社会の病的な要素を一言でいうならば、「物語性の困難」ということだろう。冒頭の『八日目の蝉』の話もつまるところ、人生の物語性を肯定できない状態を指している。この物語性の困難が、コミュニタリアンに対する批判にもなっているのだ。コミュニタリアンは共通善を正義とするが、それは共同体内の共通性の中にとどまる見方であり、共同体は物語を共有するはずである。しかし、大澤氏は前述の通り、現代においては物語性の困難があるため、コミュニタリアンの前提が破綻していると指摘する。


 コミュニタリアンの難点はともかく、この本の中で大澤氏が主張していることの多くの部分が、なぜか池田晶子さんがよく書いていた直観的結論の部分に似ているように思えた。大澤氏はいろいろ事例を挙げて、立証するかのように分析していくのだが、その結論が、池田さんの端的な直観的結論に同じ内容になっているのだ。


 ただよくわからなかったのは、アリストテレスのアクラシア(悪いとわかっているのについやってしまうこと)について述べているところで、大澤氏はメタレベルでの快(=善)と苦を考えればよいという。メタレベルで考えるということは、さらにその上の階層のメタレベルが考えられることになり、その階層は無限に続いて、どこまでいっても最終的な、決定的な善が出てこないことになる。大澤氏はその無限の階層性を、現代の特徴である「資本主義」における貨幣の再投資という動きと重ね合わせて論じる。ただ、ソクラテスは、端的にアクラシアはないとしたそうだが、その方がすっきりしそうではある。


 メタフィジカルな池田さんならどう説明するだろうか。


『民族とネイション』(岩波新書)

2011-02-17 00:34:34 | 
 題名の通り、民族と国家に関する本である。一般的に国家の形成について、民族という括りで一体性を強調されることが多いが、この本を読むと、決して「民族」というものは、先天的なものでも一義的なものでもなく、きわめて多義的・多面的であることがわかる。具体的には、民族という括りを作る要素は、血縁、言語、宗教、生活習慣、文化などから、自分たちが共通認識を持った要素がその民族を形成するという。つまり、民族というものは、自身たちの思いこみによって作られたものにすぎないということになるのだ。

 血縁的な遺伝を先天的と考えやすいが、これも必ずしも科学的な話ではなく、当事者が思い込んだ共通認識でしかない。例えば日本人という括りでも、顔つきなどで南方系や北方系とかいわれるように、歴史的にも地域を超えて混血が発生しており、どの要素で日本民族という括りにするかは、まさにその当事者が作り上げた認識によるしかないのだ。言葉の共通性だって、方言か異なる言語かの区別も明確な基準はないというのだから。


 この本の内容は、池田晶子さんなら、まさに我が意を得たり、と言うことだろう。池田さんは一足飛びに、何者でもない、という境地へ飛んでいくが、そこまで飛ばなくても、よく考えれば、国家も民族も、そこに我々が帰属意識をもつからそこに属するわけで、そうと思わなければ、そこに属することにもならないという、当たり前のことに誰でも気づくことができる。


「私が日本人なのは、何者でもない「私」が、たまたま私、池田某であり、それが生活の便宜上、日本国政府に税金を払っているからである。その意味では、確かに私は日本国民である。しかし、それだけのことである。・・・国家なんてものを目で見たことのある人はいないように、民族なんてものを目で見たことのある人はいないのである。なるほど、似たような顔かたち、似たようなDNA、それらは確かに目に見える。しかし、それらの顔かたち、それらのDNAであるところのその人そのものは、目に見えるものではない。誰でもない。「私」なんてものを目で見たことのある人はいないのである。」(『私とは何か』「私は非国民である」より)



 表題の本の最終章の方では、ナショナリズムの良し悪しについて分析しているが、どんなナショナリズムでも結局は排他性や不寛容を作り出しやすい性質を有しており、そのような暴力的な性格を強める前に対策をうつ必要性が述べられている。ただ、ナショナリズムを前提にしておいて、それに歯止めを掛けるのは、いかにも困難なことかと思う。