かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

あの大豆が味噌になるぞ!

2013-03-21 07:59:54 | わが健康生きがいづくり三重の会記録

 その寄り合いを”健生みえ”という。

 県政ではない。2年前、はじめたころは馴染めなくて困った。

 「健康生きがいづくり協議会」という全国組織の三重の部を

立ち上げた。

 といっても、組織で何かするというのが目的ではなく、それぞれの

人がそれぞれの場や暮らしで営んでいることを、お互いが知り合って

ときには面白がって、その人のやっていることに参加したりしてきた。


 この会、三重県内のジジババ、おっさん・おばさんが、なにやら

寄るのが楽しみになってきている。ときには、句会なんぞもやったりして。

 この間は、鈴鹿市にあるはたけ公園で味噌づくりをした。


 ふりかえると、昨年7月14 日、三重県産大豆を子どもたちと

コラボして、種まきした。

 その後、大平さんや中井さんが世話して、昨年秋収穫できた。

 

 きょうは育てた美里地大豆で味噌をつくるど。

 朝7時から始まった。なんと優雅なひと時だろうか。

 鈴木さん、中井さん、僕。

 勢いよくかまどの火が燃えだした。

 かまどに薪をくべて大鍋で大豆を茹でていく。

 

 余川さんが8時ごろ、にこにこして登場。

 待ちきれない様子で9時が8時になったのだろうか?

 

 一週間前にうるち米を蒸篭にかけ、中井さん指導で蒸した米に

麹菌をまぶした。それぞれが持ち帰って38時間かけて麹にした。。

 それを夫々持ち寄った。麹の出来栄えや、いかに?

 八重子さん、敏正さん、辻屋夫妻、宮地夫妻、麹の出来栄えはほぼ完ぺき

 僕のは5割の出来。

 さすが八重子さんのは、麹の花が漂っている。市販の物より美しい。

 

 大豆が茹ったぞー!

 ここに、餅つき機が登場。

 

えっ?なんで餅つき機かって

英二さん友人に頼んだ改良羽根付さ

うまくいくよ!


 

全員の目が注がれた

上手くいかないな!

入れる量が多いかな!

大豆が少し硬いかな!

よし!うまくいってる!

うまくいってるよ

・・・・・・

 

 

 麹と塩と潰れた大豆を混ぜ,手で丸めて気合とともに樽に投げ込む。

 空気を押し出す工夫らしい

 

その上から手の甲で力を入れて平らに均す。

茹でた大豆の香ばしさと湯気で、熱気につつまれている。

丸いテーブルを埋め尽くして、なんと楽しそうな風景だろうか。

 

豆の世話から一貫して。手前でつくる本物の味噌が仕込まれたのは11時。

予定どおりかな

 

 かまどでは食事の鍋がかけられている。

 ファームで作られた野菜を使ったもつ鍋。康子さんが持参した餅が入れられたり。

 宮地さん作っているネギがあったり、いろんな人が寄せてくれた鍋。

八重子さん持参の黒糖ナッツ、敏正さん全員用にあんまん。

 団欒の食卓、談笑に華がさいた。


 そうそう、それにはたけ公園名物、早咲き桜の蕾がほころんだ。

     

あっ、春!        

                              

                 (文・大平達男  写真・宮地小浪 構成・宮地

 

                



 

 


春を愁える?

2013-03-20 06:59:18 | アズワンコミュニテイ暮らし

 春の陽気をきょうカラダが察知した。

 股引きが暑苦しい。長袖の肌着を半袖に 股引もハーフに

着替えた。

 

 昨日、三重大病院に診察を受けに出かけた。

 11月18日、心臓発作で倒れてから約4ヶ月。

 除細動器も左鎖骨の下に植え込んだ。(”植え込む”ってだって・・)

 担当医は「まあ、いいんじゃないですか」と講評。

 「あの、睡眠時無呼吸症候群の検査、どうなりました?」とぼく。

 「ああ、そうそう。えーと、」とパソコンに向かう。

 検査結果は、パソコンにちゃんと入っている。

 「10秒以上の無呼吸状態が1時間に14.5回。20回以上でなければ、

治療はしなくてもいいですね。心不全が改善されると、もっとよくなるで

しょう」

 「除細動器、左骨にあたりで違和感があるんですが・・・」

 「まあ、そのうちなれるでしょう」

 「そうかなあ?」

 これは、こころのなかでつぶやいただけ。マッチ箱が入っている

感触。慣れない。

 

 冬籠もりしていたクマがのそのそ地上に這い上がってきた。

 なにか体内の血が巡りはじめている。

 はたけ公園に行こうという気持ちがむっくと起きてくる。

 午後3時すぎ、歩いて畑へ。

 秋まきのネギ、10センチ以上に伸びている。苗の周りの草引きをする。

 ニラも春の芽を出しはじめている。冬は、どこに消えたのかと見えて

いたのに。

 春菊がいまごろ、葉を伸ばしはじめた。

 そら豆は、ホトケノザの花畑のなかで、いちおう頭一つ飛び出している。

 ここも、草引きが要る。


 中井さんたちが2月はじめごろ、椎茸の植菌をした。

 いま、保温しながら養生している。

 菌がどうなっているか、見てみた。

 木口に白い菌が広がりはじめているホダ木もある。

 菌の春をカラダで感受している。

 

 以前、寺田寅彦の「春六題」という随筆読んだ。

 春になると、「わあ、うれしい」というより、そわそわと落ち着かない

気分になるが「どうして?」とおもうときがあり、「ああ、これこれ」と

妙に共感してしまった。

 

ーー冬の間はからだじゅうの乏しい血液がからだの内部のほうへ

   集合しているような気がする。それで手足の指などは自分の

   からだの一部とは思われないように冷え凍えてこちこちしている

   代わりに頭の中などはいいかげんにあたたかいものがよい程度に

   充実しているような気がしている。

    ところが桜の花が咲く時分になるとこの血液がからだの外郭と

   末梢のほうへ出払ってしまって、急に頭の中が萎縮してしまうような

   気がする。・・・そうしてなんとなく空虚と倦怠を感じると同時に妙な

   精神の不安が頭をもたげてくる。

    なにかしなくてはならない要件を打ち捨ててでもあるかのような

   心持ちが始終つきまっとっている。

 

 随筆では、悪事を犯していて、その報いを受けるような心持ちにも

なってしまうとまで書いてある。

 たしかに言われたら、そんな心持ち、なきにしもあらず。

 

 春宵の気配。

 滋賀から同年輩のご夫婦が、中井宅に来訪された。

 顔だした、食事の席で、お部屋でたくさんお話し。

 聞いてみると、ご主人1947年3月生まれ。

 「ぼくも、同じ年の3月生まれです」

 「何日」

 「2日」

 「あっ、わたし15日」

 「1947年の干支はイノシシですよね」

 「じつは、女房は一周り若いイノシシなんです」

 「へえー」


 たわいないといえば、そうに違いない。

 でも、こんなやりとりで身近な心持ちになるというのも、ヒトの

不思議というものではないかなあ。

あっちいき、こっちいきしながら、春宵は深夜に向かう。

 「じゃあ、またあした」

 

 このご夫婦は、あしたからサイエンズスクールの「マイライフ

セミナー」コースに6日間合宿で参加する。

 帰り途、ほどよく涼しい。こころがポカポカして、弾んでいた。

 

 

 

    

    

 

 

 


瞬間的に立ち上がるもの

2013-03-15 09:56:45 | アズワンコミュニテイ暮らし

  ふだんの暮らしの動きのなかでは、あれやって、これやって、

こうおもった、ああおもった、こうしよう、ああしようと流れていく。

それで、1日が過ぎる。なんの不思議もない。そういうもんだ。

 なにか、じぶんの外に”こと”というのが生起していて、じぶんは

それにかかわって、いろいろおもったり、やったりしている。

 

 サイエンズスクールには、「日常化レッスン」というコースがある。

 今回は、3月11日から4日間つづけて、午後1時から3時半まで、

開かれた。参加した。

 6人の参加者で、自分のなかで起きていることの観察、検討をした。


 たしかに周囲ではなにかが実際起きているし、じぶんもかかわっ

いる。

 じぶんの実例で観察、検討する。

 1月のこと。来訪の人を車で案内する日の朝。

 車の運転をしてくれる人から、電話。

  「雪なので、運転しない」

  「・・・・。ああ、そう。わかった」

  (この時点で、じぶんのなかでなにか起きている)

  道路を見にゆく。

  道には、雪が積もっていない。

 「これなら問題なく、走れる」とおもった。

 「でも、彼は”運転しない”と言っていた。だったら、他の人探そう」

 他の人を探して、その場は滞りなくできた。

 

 あのとき、「運転しない」と聞いたが、じぶんが見て「いけるんじゃないか」と

おもったとき、なぜ、その人に「ぼくは行けるとおもうけど、どうか?」と

問い返さなかったのか、というのが残った。それが、、けっこう、いまに尾

を引いていた。

 

 

 「運転しない」と相手から聞いたときの、その瞬間だけに限って、なにを

おもったか、をおもいだしてみた。

 けっこう、手間がかかる。

 「うーん、”運転しない”と断定的に言ってきた、というところになにか

起きてきたものがある。コトバにすると、”決めてしまっている””決めるの

はおかしい”、運転したくないけど、どうか”というなら、いいけど・・・」

みたいなもの。

 

 このコトバにしたものも、そういうものが、どんなこころの状態から

出てきたのか?と自問してみると、すぐにコトバにできない。

 

 相手は断定的に言ってきた。決め付けている。

 断定的じゃ、いけないのか。決めつけちゃ、いけないのか。

 「いけない」とするようなこころの状態があるのだろうか?

 その人がそうしていることを、ダメだとかおかしいと言えるのか。

 

 その人は、ほんとうに断定的なのか、決めつけているのか。

 それは、相手の人が「そうだ」としているのか、じぶんのなかで

「そうとらえた」、捉えたことについて言っているのか。

 「運転しない」と聞いたら、実際「しない人」ととらえるようなこころの

状態がじぶんのなかにあるのだろうか?

 

 しっつこいようだけど、「運転しない」と聞いたとき、なにかがじぶんの

こころのなかで起きた。「えっ」とか「あっ」とか。

 でも、その反応は何にたいして起きた反応だろう?

 

 「運転しない」という声を聞いて、それに反応した。

 そうだよな、ふだんならそれで動いているよなあ、あったりまえじゃん。

 

 「わかるとはどういうことか」という本を読んだことがある。

 神経内科の分野で研究している山鳥重さんの見解。

  ーー知覚はまわりに生起する現象(客観的世界の出来事)を

     取り込み、その現象を心像という形式に再構成します。

      ここは大事です。

      事実がそのまま、たとえばよく磨きぬかぬかれた鏡に映る

    ように、心に映し出されることはないのです。

      心は事実をいったん五感に分解して脳(神経系)に取り込み

     神経系で処理しきれる部分だけを組立て直します。

      その組立て直されたもののうち、意識化されたものが知覚心像

     です。

      この知覚心像を記憶心像に照らし合わせ、ああこれはエンピツ、

     あ、これはクローバー、あ、あれはアダタラ山、と知るのです。

 

 この解説は分かりやすい。

 じぶんが見たり、聞いたり、思ったりしているけど、じっさい何しているか、

振り返ることがおもしろさを感じる。

 

 「運転しない」と聞いて、何に反応したのかといえば、どうも、聞いて

じぶんのなかで立ち上がったものに反応してるかも。

 そこに焦点を当てていくと、意識には上ってきていないけど、表現したら

いろいろに言えるこころの状態があるようだ。

 

 「決めつけないのが、ほんとうだ」とおもっていても、こころの底では

「決め付けるのはおかしい」というような、「決め付け」の状態のまま

だったり・・・

 

 あれ、あれ。

 そこに焦点当てて暮らしているつもりだったけど・・・

 ここに照明があたり、昼の世界に向いてないと、社会を変える、といっても

何を変えるのか、ということになりかねないのでは・・・

 

 知的に理解し合って、よりよき人生、暮らしをしていきたい。

 願いはある。

 実現するには。知的な働きが自他ともに発揮できる基盤づくりに

エネルギーを注ぐこと、これ欠かせないとおもった。

 いろいろ、なにやかや、やっているのも、つまるところ、この辺を

やりたいからやっているのかなあ。


 あんまり、これっといって、やってるという実感が薄いかんじも

するけど・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


恵那の山里に親しさで繋がる社会を・・・

2013-03-14 04:47:05 | アズワンコミュニテイ暮らし

 先週、岐阜県恵那の岩村・山岡で暮らしている二人の男性、

瑞浪から陶芸をしている男の人、東京の”芝の家”という活動をしている

女の人の四人が”ふだん着で探訪DAY"で鈴鹿に来訪した。


 男の人たちは、恵み自然農園づくりに着手している。

http://www.natural-farm.info/


 芝の家の活動は以下を見てください。

http://shiba-news.com/topics/3516.html

 

 3月5日の昼からは、はたけ公園・お弁当屋さん、それに最近

オープンした「ライフストア」など見学。

 「ライフストア」は、コミュニテイ通貨やってきた本当の願い、

プレゼントし合って暮らす社会の一端を、できるところからやって

みようとする試み。

 

 夜は、コミュニティにかかわる人たちと懇談。

 翌朝は、近くの里山を味わいに行った。

 案内する人、高崎広さん。

 「山にいること自体すきなんですが、ここに子どもたちがやって

くるのが、なにより楽しみなんです」

 

 探訪DAYの人たち、代わる代わる森のブランコに乗る。

 若手の長江さん「いや、ぼくは感じは分かってますから」と

乗るつもりなさそうだったけど、いざ乗ってみると、

 「わあ、おもしろい」

 「立ってものれるかな」

 にわかに、子どもみたいになっていた。

 

  そのあとの懇談会にて。

  早川さん(恵那・山岡・農業)

   ーー昨日から今日にかけて、ショッキングな感じ、消化しきれない。

      これまでも、自然の教えにそう暮らしを探ってきた。

       ルールもなく、こだわるものもなく、何かをやるということより、

      それぞれが自分の中のベースをしかっりしたものにしようと

      している。

       そこから、話し合いがはじまるのか?

       帰ってから、何からはじめるか、何に取り組むか、いまそれを

      考えている。

 

  伊藤さん(陶芸・詩人)

   ーーコミュニテイと地域に境界がない。アズワンは地域に自然に

      溶け込んでいる、と感じた。”とけこんでいる”というのも、

      おかしいかも・・・


 渡辺久美さん(芝の家スタッフ)

  ーー地域の人とうまくやっていくのがむずかしい。鈴鹿は新しいし、

     「こうでなきゃ・・・」というのが、薄いのかしら。


 伊藤さん

 ーーお互いが、こころを開きあって検討できる、それがすごい。

    情緒的なベタつき感を感じない。

 

 長江さん(恵那・岩村、農の営みしながら、親しい人のつながり探っている)

 ーー消化しきれないなあ・・・


 渡辺久美さん

 ーーきのう、「お弁当屋がやりたいわけじゃない」とやっている人から

    聞いた。なにがしたくて、活動してるんだろう。将来の不安を

    解消するため?


 探訪DAYが縁で、これからゆっくりとでも、お付き合いしていきたい。

 あれや、これや、こころの底にあるものも、オープンに話あいたいなあ。

 

 あとで、長江さんや伊藤さんから、メールが来た。

 

 これから、よろしくね。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 


一茶かるた

2013-03-13 06:14:23 | アズワンコミュニテイ暮らし

 居間のテーブルの上に洒落た本のようなものが置いてある。

 近づいてみると、「一茶かるた」

 「これ、どうしたんだい」と妻に聞く。

 「学習支援のとき、子どもと遊ぶので買ったのよ」


 妻は、週二回木と金の夕方1時間、鈴鹿・箕田にある養護施設

に行く。それぞれの曜日に、二人の小学生の子のお母さんとして、

宿題をみたり、いっしょに遊んでいる。


 一茶の俳句は、耳慣れている。

 おもわぬときに、ある情感とリズムで口をついてでくるときがある。

 かるたを一枚一枚、字を読んで、絵と合わせてみた。

 切り絵はこころに滲みる。

 

  一茶の俳句は、動物を観察している句がなじんでいる。

 「一茶かるた」のなかに、わが愛すべきかたつむりの句が

二つも選ばれていた。


 この句は、どんな情感をそのコトバの底に蔵しているのか

という句もあった。



 おもいだしたことがある。

 一茶の俳句をめぐって、「理解する」ことについてかんがえたこと

があった。

  

   手向くるやむしりたがしり赤い花


 この句は一茶がとても可愛がっていた幼い女の子が死んでしまった

とき、悲しみを抑えて詠んだものだという。

 それが分かっても、「むしりたがりし 赤い花」がどんな意味か

詠んで湧いてくるものがない。

 この句は柳田国男が日本人の生活とその感覚について洞察した

際、その実例にしたものだという。


 きのうの晩、小1の孫の晴空(はるく)が一茶かるたを見つけた。

    かたつむり そろそろ登れ 富士の山

を、何回か声を出して読んでいた。

 晴空は、どんな世界でそれを読んでおるのだろう?


 おとといの朝、寝坊して学校に行きそびれた晴空と近くの神社に

梅を見に行った。

 行く途中、晴空が「何時?」と聞いてきた。

 「梅をやめて、学校に送っていこうか?」

 「やあだ」

 あれ、晴空は、学校に行こうという気持ちもあるんだあ。

 子どものときのじぶんをおもいだす。こういうときの気持ち。

 「みんなから外れていて、なんとなく不安だけど、かといって

どうしてよいかわからない」

 

 次の朝、、娘の長屋(アパート)に顔出すと、学校へ行く

時間を過ぎて、晴空が宿題をやっていた。パジャマを着ていた。

 さて、晴空の運命や、いかに?

 夕方、娘から晴空のその後の顛末を聞く。

 

 娘は、そのあと晴空を遅れて学校に送っていった。

 ちょうど、教室の中は朝の挨拶がはじまっていた。

 晴空はワーワー泣き出した。

 担任の先生、娘いわく、「泣いている晴空をそこのけで、お母さん、

この子にさびしいおもいさせていませんか?」と問うてきた。

 「はい、あの、えー、そうですか」と娘?

 先生は晴空に「きのうはなぜ学校こなかったの?学校休んで、

何してたの?」

 晴空「梅を見に」

 先生「それって、ズル休みっていうのよ!」

 最初に、それかあ・・・・

 そのあと、「梅はきれいだった?」と先生。

 ああ、もう遅いのでは・・・

 

 子どもの世界というのがあるようにおもう。

 大人は大人の考えもある。

 子どもの挙動やコトバに現れてきたものを、大人のとらえかたで、

「そうだ」として、それに反応したらどんなことになるかなあ・・

 

 そんなことがあった日の夜、晴空といっしょに風呂に入った。

 「また、いっしょにでかけような」

 晴空「学校がない日に・・・」

 

 晴空の気持ちが分かっていたら、担任の先生はかんたんに

「ズル休み」と言えただろうか?

 

 一茶かるたは、これから養護施設の子どもと遊ぶのに使われる。

 その子にとって、独り占めにできるお母さんをつくるのが狙いという。

 妻は、地道に通い続けている。