かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

自発的自由意志で営まれるコミュニテイ雑感

2013-03-28 11:42:27 | アズワンコミュニテイ暮らし

<サイエンズ研究所カレッジコース、この6ヶ月振り返って>

 

  この間いろいろなことがあったけど、暮らしのなかで、自発的

自由意志というところからみたら、じぶんのなかは、どうなって

いるんだろう、自分と人はどんな関係になっているか、自他を

観察し、じぶんなかで見えたものを検討してきたかな、とおもう。

 

 <"ココロン"に行かないことにモヤーとした感じ>  

 

  津のほうに、いまじぶんの気に入った理容店がある。

  そこに行くことが多い。「コミュニティでも、ココロンで

 理容できるのに・・・」みたいなモヤーとしたものが

 あるなあと気がついた。

  これって、コトバにすると「後ろめたさ」

  これって、なんだろう。

  「ココロンでやるのがいい」とか「やるのが筋じゃないか」とか

 そんなものあって、出てきているようだ。

  その場合のコミュニティとしているものが、自分のなかで

「よいからやっている」というようなよそよそしいものになって

いないかなあ。

 じぶんの気持ちや本心から発していないような・・・

 ここを検討してみたかった。

 

<「させる」「させられる」というのはあるのか?>

  

 このカレッジの期間中、入院中して、カレッジの様子を録音で聞く

時期もあった。

 Y子さんが、小学生のときから祖母に言われて、日本舞踊を13年間、

やってきた。本人は「いやいややらされてきた」という。

 「13年もやったんだろう?」とぼくはおもう。

 自分の意志でやったとはどうしてもおもえないと、言い通していた。

 Y子さんの実例はベットで一人、笑っていた。

 

 わが身をふりかえる。

 「させられる」が、コトバのことではなく、そういうこころの状態は、

じぶんのなかに、染み込んで、当たり前にある。

 

 はたして、人を「させたり」、じぶんが「させられる」ということが、

実際は、あるのかどうか。

 

<孫の立ち居振る舞いがどんな見えているんだろう>

 

 現状はともかく「自発的自由意志とはどんなこと」とおもっているか。

 ここを検討するときもあった。

 

 孫がどんなふうに暮らしているかに関心がいくようになった。

 「テレビ、変えていい?」こちらが見ていても、“お構いなし”

に、孫は言ってくる。

 「お風呂に入るよ」とママが言っても、動かないときは動かない、なに

かの拍子でさっと動く。

 孫はいつもじぶんの「したいこと」、「したくないこと」をシンプルに

コトバにしている。

 ママの声かけを無視したり、拒否しているか?

 じっさいは、孫のなかではどうなっているのか?

 もしかしたら、ママのコトバ(気持ち・意志)をうけとっている。   

 そのうえで、孫のその時の気持ち、意志、それをそのままコトバに

しているのかもしれない。

 

  「こうしたい」とか「しない」というような気持ち、欲求、意志にまで、

なったこと、その人のなかで起きることを、だれもそれを妨げたり

遮ったりできないだろう。

 できないのに、ふだんの人とのかかわりの中で、案外無意識に

相手の意志をなんとかできる、とおもって、人と接している

ことがありそうだ。意識の上というより、もとのこころの状態が

「なんとかできる」ということに染まっている。


 孫を見ていて、おもうこと。

 「いやだ」とついさっき、あんなに頑固に言っていると見ていると、

いともあっさり、「いやだ」といっていたことをやりはじめる。

  孫の意志が、「そのときはそうなった」としか言いようがない。

  孫一人で「そうなった」とも言えないし、誰かに言われて「そう

させられた」ともいえない。ママやじぶんの気持ちや周囲のかかわりの

なかで、その意志を変えただけではないか。変えたのは、いくら幼い子

とはいえ、孫自身・・・ 

 

<自由意志でやれたというけれど・・・>

 

 Eさんの例。

 お弁当屋さんで、「担当を代わって」といわれって、代わってやり

はじめた。やってみると、面白い。

 またもとの担当に戻るようになったとき、「続けてやりたい」と

じぶんの気持ちを出した。周りの人たちが「もとに戻って!」と言った。

 Eさんは、かんがえて、じぶんの意志で、もとの担当に戻った。

 自由意志でやれたかな?

 そのとき「やり続ける」という選択肢があったかどうか?

 この辺、検討した。

 

  じぶんの例でも。

 先ず、「やってほしい」と相手から聞いたとき、じぶんがそれを

どう聞いたか、受けとったか、というのがあるだろう。

 「言ってきた」とか「言われた」と受取っている、ときが多い。

 相手の言ったコトバがダイレクトにぼくが受けとっている、と

おもっているけど、実際はどうなっているか。

 その瞬間にズームを当てる。

 相手のコトバを聞いたとき、じぶんのなかで一瞬立ち上がったものに

反応しているのではないか。

 「言ってきた」「言われた」は、”相手がそうした”というより、じぶんが

「言われた」と受けとった。

 「やってほしい」は、相手の人がいくら「こうして!」と命令調で言って

きても、それは相手の人の気持ちを言っているのではないか。

 相手の人が「その人の気持ちを言っているんだな」と聞いたら、

相手の人はなにを言わんとしているのか?」に関心がいく。

 つぎは「じぶんはどういう気持ちか、どうしたいのか?」となって

いくのではないか。


 「自由意志で・・・」となれば、この辺がじぶんのなかで、どう

なっていたか、が急所かな。

 じぶんのなかで起きていること、と相手の人のなかで起きている

ことが、混線していない。

 

 

<じぶんを抑え、無理納得させて半世紀・・・>

  

 Sさんの中間レポート。

 そうだよな、とつくづくおもう。

 

 「周囲の目を気にする」「ここでは、こうするもの」

 「お金があればなあ」「相手を傷つけないように」

 「もうしわけない」「うしろめたい」

 「できない条件が先にでてくる」

 「こんなことしてもらったんだから、なにかお返ししなくては」

 「約束は守るもの」「返事はするもの」「~しなくっちゃ」

 「善意」「良かれと思うのが大きくて、相手の意志に無関心」

 などなど・・・・

 

 こんなじぶんの現状を分析してるだけではなあ・・・

 なぜそうなってしまうのか、原因の自覚はないがしろに

できないけど、いつまでもそういう自分だといっているだけでは、

なんか物足らない。

 希望も湧いて来ないじゃん。

 そういうじぶんとして、60年以上きてしまったけど、どうなって

いきたいの?こういうのが、ダメだからというより、ほんとうは

なにをしたいの?

 

<「こんな家あるけど、見てみない?」>


 最近、コミュニテイオフィスというものがはじまった。

 暮らしの諸事、各々の家計のことまで、オープンにしながら、

お互いに相談しなが暮らしていきたい、そんな気持ちで

ぼくもはじめている。


 コミュニテイライフオフィスとの面談で、Eさんの例。

  Eさんが、なんとなく「こうなったらいいなあ」とおもっている

ことをライフオフィスのほうで取り上げてくれて、実際に「こんな

物件があるらしいけど、見に行ってみない?」と声をかけてくれた。

 Eさん「いまのところに引っ越して1年だし」「夫もその気があまり

ないし」「お金もないし」とかじぶんのなかでは、いろいろ思っていた。

 声がかかって、じぶんのなかのことに照明が当たった。

 「見るだけでも、見てみよう」となって、見に行った。

 行ってみると、「いいかも」

 早速、夫にもはなしをする。

 実際はその物件はその過程で他所に売れてしまったが、Eさんに

とっては、晴れ晴れとした感じだった。

 

 ライフオフィスはEさんの気持ちに声をかけた。

 Eさんは、ぼんやりしていた気持ちがどんなものか、はっきりして

いった。

 実際にことがなるのは、過程があるとおもうけど、そのスタートが

自由闊達、遮るものもないし、広々として、あるのは成るように、

成るようにと知恵をはたらかすこと。

 

 

<実際を見てみたら、人と人は、どのように暮らしているの

だろう?>


 これまで検討してきて。

 一人ひとり、その人の自由意志で生きている。

 人を「させる」、人から「させられる」というモヤモヤが

各個人、そして社会のなかから一掃したら、どんなことに

なるか。

 社会の秩序が乱れて、混乱するだろうか?

 「させる」「させられる」がなければ、各々の欲求、本心、

願い、意志などお互いに自ずから、尊重し合うしかなくなる

ように見える。


 身近なところから、着手しはじめた、そんなに見える。


 コミュニテイライフストアがはじまった。

 コミュニティ通貨”リンカ”では、見えてきた社会の姿から

無理がある。

 通貨というものを介さなくとも、贈りたい人がその気持ちで

じぶんの作ったものを贈り、使う人は「お返し」なしに、ほしい

だけ使う。

 お弁当やさんからは、惣菜。ファームから野菜。

 できるところから、はじまった。


 それを見ていたNさん。

 「タダの理美容室をやりたかった」と、やりはじめた。

 「あれ、ココロンという美容室もあるのに・・・」という気持ちが

もあーと出てきた。

 これって、なんだろう。

 ココロンもあり、N美容室もある。これのどこがおかしいか?

  

 現状のじぶんかじぶんとして、おもしろ可笑しく観察し、検討も

していきながら、誰もが、シンプルにやさしく暮らしていける

社会を試みたいなあ。


                         (つづく、かな?)