<サイエンズ研究所カレッジコース、この6ヶ月振り返って>
この間いろいろなことがあったけど、暮らしのなかで、自発的
自由意志というところからみたら、じぶんのなかは、どうなって
いるんだろう、自分と人はどんな関係になっているか、自他を
観察し、じぶんなかで見えたものを検討してきたかな、とおもう。
<"ココロン"に行かないことにモヤーとした感じ>
津のほうに、いまじぶんの気に入った理容店がある。
そこに行くことが多い。「コミュニティでも、ココロンで
理容できるのに・・・」みたいなモヤーとしたものが
あるなあと気がついた。
これって、コトバにすると「後ろめたさ」
これって、なんだろう。
「ココロンでやるのがいい」とか「やるのが筋じゃないか」とか
そんなものあって、出てきているようだ。
その場合のコミュニティとしているものが、自分のなかで
「よいからやっている」というようなよそよそしいものになって
いないかなあ。
じぶんの気持ちや本心から発していないような・・・
ここを検討してみたかった。
<「させる」「させられる」というのはあるのか?>
このカレッジの期間中、入院中して、カレッジの様子を録音で聞く
時期もあった。
Y子さんが、小学生のときから祖母に言われて、日本舞踊を13年間、
やってきた。本人は「いやいややらされてきた」という。
「13年もやったんだろう?」とぼくはおもう。
自分の意志でやったとはどうしてもおもえないと、言い通していた。
Y子さんの実例はベットで一人、笑っていた。
わが身をふりかえる。
「させられる」が、コトバのことではなく、そういうこころの状態は、
じぶんのなかに、染み込んで、当たり前にある。
はたして、人を「させたり」、じぶんが「させられる」ということが、
実際は、あるのかどうか。
<孫の立ち居振る舞いがどんな見えているんだろう>
現状はともかく「自発的自由意志とはどんなこと」とおもっているか。
ここを検討するときもあった。
孫がどんなふうに暮らしているかに関心がいくようになった。
「テレビ、変えていい?」こちらが見ていても、“お構いなし”
に、孫は言ってくる。
「お風呂に入るよ」とママが言っても、動かないときは動かない、なに
かの拍子でさっと動く。
孫はいつもじぶんの「したいこと」、「したくないこと」をシンプルに
コトバにしている。
ママの声かけを無視したり、拒否しているか?
じっさいは、孫のなかではどうなっているのか?
もしかしたら、ママのコトバ(気持ち・意志)をうけとっている。
そのうえで、孫のその時の気持ち、意志、それをそのままコトバに
しているのかもしれない。
「こうしたい」とか「しない」というような気持ち、欲求、意志にまで、
なったこと、その人のなかで起きることを、だれもそれを妨げたり
遮ったりできないだろう。
できないのに、ふだんの人とのかかわりの中で、案外無意識に
相手の意志をなんとかできる、とおもって、人と接している
ことがありそうだ。意識の上というより、もとのこころの状態が
「なんとかできる」ということに染まっている。
孫を見ていて、おもうこと。
「いやだ」とついさっき、あんなに頑固に言っていると見ていると、
いともあっさり、「いやだ」といっていたことをやりはじめる。
孫の意志が、「そのときはそうなった」としか言いようがない。
孫一人で「そうなった」とも言えないし、誰かに言われて「そう
させられた」ともいえない。ママやじぶんの気持ちや周囲のかかわりの
なかで、その意志を変えただけではないか。変えたのは、いくら幼い子
とはいえ、孫自身・・・
<自由意志でやれたというけれど・・・>
Eさんの例。
お弁当屋さんで、「担当を代わって」といわれって、代わってやり
はじめた。やってみると、面白い。
またもとの担当に戻るようになったとき、「続けてやりたい」と
じぶんの気持ちを出した。周りの人たちが「もとに戻って!」と言った。
Eさんは、かんがえて、じぶんの意志で、もとの担当に戻った。
自由意志でやれたかな?
そのとき「やり続ける」という選択肢があったかどうか?
この辺、検討した。
じぶんの例でも。
先ず、「やってほしい」と相手から聞いたとき、じぶんがそれを
どう聞いたか、受けとったか、というのがあるだろう。
「言ってきた」とか「言われた」と受取っている、ときが多い。
相手の言ったコトバがダイレクトにぼくが受けとっている、と
おもっているけど、実際はどうなっているか。
その瞬間にズームを当てる。
相手のコトバを聞いたとき、じぶんのなかで一瞬立ち上がったものに
反応しているのではないか。
「言ってきた」「言われた」は、”相手がそうした”というより、じぶんが
「言われた」と受けとった。
「やってほしい」は、相手の人がいくら「こうして!」と命令調で言って
きても、それは相手の人の気持ちを言っているのではないか。
相手の人が「その人の気持ちを言っているんだな」と聞いたら、
相手の人はなにを言わんとしているのか?」に関心がいく。
つぎは「じぶんはどういう気持ちか、どうしたいのか?」となって
いくのではないか。
「自由意志で・・・」となれば、この辺がじぶんのなかで、どう
なっていたか、が急所かな。
じぶんのなかで起きていること、と相手の人のなかで起きている
ことが、混線していない。
<じぶんを抑え、無理納得させて半世紀・・・>
Sさんの中間レポート。
そうだよな、とつくづくおもう。
「周囲の目を気にする」「ここでは、こうするもの」
「お金があればなあ」「相手を傷つけないように」
「もうしわけない」「うしろめたい」
「できない条件が先にでてくる」
「こんなことしてもらったんだから、なにかお返ししなくては」
「約束は守るもの」「返事はするもの」「~しなくっちゃ」
「善意」「良かれと思うのが大きくて、相手の意志に無関心」
などなど・・・・
こんなじぶんの現状を分析してるだけではなあ・・・
なぜそうなってしまうのか、原因の自覚はないがしろに
できないけど、いつまでもそういう自分だといっているだけでは、
なんか物足らない。
希望も湧いて来ないじゃん。
そういうじぶんとして、60年以上きてしまったけど、どうなって
いきたいの?こういうのが、ダメだからというより、ほんとうは
なにをしたいの?
<「こんな家あるけど、見てみない?」>
最近、コミュニテイオフィスというものがはじまった。
暮らしの諸事、各々の家計のことまで、オープンにしながら、
お互いに相談しなが暮らしていきたい、そんな気持ちで
ぼくもはじめている。
コミュニテイライフオフィスとの面談で、Eさんの例。
Eさんが、なんとなく「こうなったらいいなあ」とおもっている
ことをライフオフィスのほうで取り上げてくれて、実際に「こんな
物件があるらしいけど、見に行ってみない?」と声をかけてくれた。
Eさん「いまのところに引っ越して1年だし」「夫もその気があまり
ないし」「お金もないし」とかじぶんのなかでは、いろいろ思っていた。
声がかかって、じぶんのなかのことに照明が当たった。
「見るだけでも、見てみよう」となって、見に行った。
行ってみると、「いいかも」
早速、夫にもはなしをする。
実際はその物件はその過程で他所に売れてしまったが、Eさんに
とっては、晴れ晴れとした感じだった。
ライフオフィスはEさんの気持ちに声をかけた。
Eさんは、ぼんやりしていた気持ちがどんなものか、はっきりして
いった。
実際にことがなるのは、過程があるとおもうけど、そのスタートが
自由闊達、遮るものもないし、広々として、あるのは成るように、
成るようにと知恵をはたらかすこと。
<実際を見てみたら、人と人は、どのように暮らしているの
だろう?>
これまで検討してきて。
一人ひとり、その人の自由意志で生きている。
人を「させる」、人から「させられる」というモヤモヤが
各個人、そして社会のなかから一掃したら、どんなことに
なるか。
社会の秩序が乱れて、混乱するだろうか?
「させる」「させられる」がなければ、各々の欲求、本心、
願い、意志などお互いに自ずから、尊重し合うしかなくなる
ように見える。
身近なところから、着手しはじめた、そんなに見える。
コミュニテイライフストアがはじまった。
コミュニティ通貨”リンカ”では、見えてきた社会の姿から
無理がある。
通貨というものを介さなくとも、贈りたい人がその気持ちで
じぶんの作ったものを贈り、使う人は「お返し」なしに、ほしい
だけ使う。
お弁当やさんからは、惣菜。ファームから野菜。
できるところから、はじまった。
それを見ていたNさん。
「タダの理美容室をやりたかった」と、やりはじめた。
「あれ、ココロンという美容室もあるのに・・・」という気持ちが
もあーと出てきた。
これって、なんだろう。
ココロンもあり、N美容室もある。これのどこがおかしいか?
現状のじぶんかじぶんとして、おもしろ可笑しく観察し、検討も
していきながら、誰もが、シンプルにやさしく暮らしていける
社会を試みたいなあ。
(つづく、かな?)