かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

瞬間的に立ち上がるもの

2013-03-15 09:56:45 | アズワンコミュニテイ暮らし

  ふだんの暮らしの動きのなかでは、あれやって、これやって、

こうおもった、ああおもった、こうしよう、ああしようと流れていく。

それで、1日が過ぎる。なんの不思議もない。そういうもんだ。

 なにか、じぶんの外に”こと”というのが生起していて、じぶんは

それにかかわって、いろいろおもったり、やったりしている。

 

 サイエンズスクールには、「日常化レッスン」というコースがある。

 今回は、3月11日から4日間つづけて、午後1時から3時半まで、

開かれた。参加した。

 6人の参加者で、自分のなかで起きていることの観察、検討をした。


 たしかに周囲ではなにかが実際起きているし、じぶんもかかわっ

いる。

 じぶんの実例で観察、検討する。

 1月のこと。来訪の人を車で案内する日の朝。

 車の運転をしてくれる人から、電話。

  「雪なので、運転しない」

  「・・・・。ああ、そう。わかった」

  (この時点で、じぶんのなかでなにか起きている)

  道路を見にゆく。

  道には、雪が積もっていない。

 「これなら問題なく、走れる」とおもった。

 「でも、彼は”運転しない”と言っていた。だったら、他の人探そう」

 他の人を探して、その場は滞りなくできた。

 

 あのとき、「運転しない」と聞いたが、じぶんが見て「いけるんじゃないか」と

おもったとき、なぜ、その人に「ぼくは行けるとおもうけど、どうか?」と

問い返さなかったのか、というのが残った。それが、、けっこう、いまに尾

を引いていた。

 

 

 「運転しない」と相手から聞いたときの、その瞬間だけに限って、なにを

おもったか、をおもいだしてみた。

 けっこう、手間がかかる。

 「うーん、”運転しない”と断定的に言ってきた、というところになにか

起きてきたものがある。コトバにすると、”決めてしまっている””決めるの

はおかしい”、運転したくないけど、どうか”というなら、いいけど・・・」

みたいなもの。

 

 このコトバにしたものも、そういうものが、どんなこころの状態から

出てきたのか?と自問してみると、すぐにコトバにできない。

 

 相手は断定的に言ってきた。決め付けている。

 断定的じゃ、いけないのか。決めつけちゃ、いけないのか。

 「いけない」とするようなこころの状態があるのだろうか?

 その人がそうしていることを、ダメだとかおかしいと言えるのか。

 

 その人は、ほんとうに断定的なのか、決めつけているのか。

 それは、相手の人が「そうだ」としているのか、じぶんのなかで

「そうとらえた」、捉えたことについて言っているのか。

 「運転しない」と聞いたら、実際「しない人」ととらえるようなこころの

状態がじぶんのなかにあるのだろうか?

 

 しっつこいようだけど、「運転しない」と聞いたとき、なにかがじぶんの

こころのなかで起きた。「えっ」とか「あっ」とか。

 でも、その反応は何にたいして起きた反応だろう?

 

 「運転しない」という声を聞いて、それに反応した。

 そうだよな、ふだんならそれで動いているよなあ、あったりまえじゃん。

 

 「わかるとはどういうことか」という本を読んだことがある。

 神経内科の分野で研究している山鳥重さんの見解。

  ーー知覚はまわりに生起する現象(客観的世界の出来事)を

     取り込み、その現象を心像という形式に再構成します。

      ここは大事です。

      事実がそのまま、たとえばよく磨きぬかぬかれた鏡に映る

    ように、心に映し出されることはないのです。

      心は事実をいったん五感に分解して脳(神経系)に取り込み

     神経系で処理しきれる部分だけを組立て直します。

      その組立て直されたもののうち、意識化されたものが知覚心像

     です。

      この知覚心像を記憶心像に照らし合わせ、ああこれはエンピツ、

     あ、これはクローバー、あ、あれはアダタラ山、と知るのです。

 

 この解説は分かりやすい。

 じぶんが見たり、聞いたり、思ったりしているけど、じっさい何しているか、

振り返ることがおもしろさを感じる。

 

 「運転しない」と聞いて、何に反応したのかといえば、どうも、聞いて

じぶんのなかで立ち上がったものに反応してるかも。

 そこに焦点を当てていくと、意識には上ってきていないけど、表現したら

いろいろに言えるこころの状態があるようだ。

 

 「決めつけないのが、ほんとうだ」とおもっていても、こころの底では

「決め付けるのはおかしい」というような、「決め付け」の状態のまま

だったり・・・

 

 あれ、あれ。

 そこに焦点当てて暮らしているつもりだったけど・・・

 ここに照明があたり、昼の世界に向いてないと、社会を変える、といっても

何を変えるのか、ということになりかねないのでは・・・

 

 知的に理解し合って、よりよき人生、暮らしをしていきたい。

 願いはある。

 実現するには。知的な働きが自他ともに発揮できる基盤づくりに

エネルギーを注ぐこと、これ欠かせないとおもった。

 いろいろ、なにやかや、やっているのも、つまるところ、この辺を

やりたいからやっているのかなあ。


 あんまり、これっといって、やってるという実感が薄いかんじも

するけど・・・