かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

”あっち”と”こっち”、そして・・・

2012-11-28 15:26:29 | アズワンコミュニテイ暮らし

                      (一)

 もし、”あっち”というものがあるというなら、どうも”あっち”と

”こっち”の境界をさまよってきたらしい。

 

 その日、11月18日夜11時すぎ、寝床に行った。妻は布団の

なかにいた。

 布団のなかにもぐりこんだ?途端、グーッと息が詰まった。

 あとは、意識が無くなった。

 

 全身に違和感を感じた。

 どこかに出かけて、なんかたいへん不愉快な状態になっている。

息苦しくもあり、下腹部が痛い感じもあり、閉塞感もあった。

 しばらくたって、ふと目を開けると、妻小浪と娘桃子が、「わかる?」

「わかる?」と叫んでいた。

 もちろん、わかる。しゃべれない。口や鼻になにか嵌められ

ている。大きく首を振る。

 あとで、聞くとこのときは深夜午前3時すぎだったとか。

 

 なにが起きたのかわからないが、ベットに寝ていて、口から喉に

器具が押し込まれ、両手はベットのアームに縛られていたが、

意識は明瞭。「じぶんは、そういう状態にある」とありありと分かる。

 からだは、逃げ出したいぐらいの不快感。

 とろとろ、寝ているのか起きているのか。

 

 「ここは、どこだろう?」

 いつの時か、知りたくなった。そうなると、矢も楯も堪らず・・・

 息が苦しいというより、「分からないことが苦しい」

 唯一動かせた左手の人差指で看護婦さんに合図した。

 やっと気がついた看護婦さんに、人差指で「ココハ、ドコ」と

空に指を動かすが、分かってもらえない。

 そのうち、看護婦さんが掌を差し出してくれた。その柔らかな掌に

「ココハ、ドコ」と書いた。

 「回生病院ですよ!」やっと、伝わった。

 

                     (二)

  朝を迎えた。

 どうも、救急患者用の病棟にいるらしい。隣は医師・看護師さんの

詰所らしい。

 足が窓のほうに向いていて、空が見える。昼になるにしたがって、

いろいろな形の雲が流れていく。

 「空が見えるのは、いいね」娘は言った。


 

 「宮地さん、奥さまに足を向けて寝れませんよ」と看護婦さん。

 意識不明で倒れたぼくを、妻はパニックになりながらも、心臓

マッサージを即座にやってくれたらしい。

 「そうなの、心臓マッサージはニ回講習受けていたので・・・

でも、一人では無理とおもい、二階に住むツネさん(中島実延)に

電話したの。ツネさん、起きていて、すぐ来てくれたの。ツネさんに

マッサージをかわり、それで、救急車を呼んで・・・」と妻。

 

 「あわわわ、じぶんは寝ていて、明け方、目が覚めたってぐらいの

実感なんだが、えらいことが起きていたんだあ・・・」

 

 主治医の亀井さん。

 「心室瀕拍が起きてしまったということです。心房細動の手当は

されていたようですが、足りなかったかもしれません」

 「はあ・・・」

 

 いづれにしても、”あっち”の世界に行きかけて、どうもいろいろな

方の手当をうけて、”こっち”の世界に踏みとどまった・・・

 妻に、ツネさんに、娘に、救急隊員に、医師・看護師さんに

感謝・多謝だ。

 

 その日の午後には、喉と鼻に差し込まれていた酸素の管が

はずされた。簡単なマスクになった。両手の縛りも解かれた。

 「尿道の管は、明日にしましょう」と主治医。

 

 それでも、やっと、”こっち”にいるという実感が湧いてきた。

 「生きている」、あるいは「生かされた」

 いろいろある条件の一つでも欠けたら、意識のないまま、

”あっち”の世界に行っていた。

 といっても、"あっち”がどんなところなんてなことは、わからない。

 ただ、じぶんは意識が無くなったまま、それだけのこと・・・

 からだは、そのうち腐るか、灰になって、なんといえばいいのか、

”そのへんに”では気持ち悪いし、どこか海とか山とか、土のなか

とか、どこか地球や宇宙の塵へと、なっていくのか。

 死後については、よう分からないけど、死はそんなに大仰なもの

ではないらしい。

 

 「生きている」、あるいは「生かされている」

 そうなんだよな、いままで「死は怖い」とおもってきたけど、案外

「生きている」の隣に、いつも、「そこをわすれてやしませんか?」と

真面目に寄り添っているのかなあ。

 

 おむつでウンコするは、若い看護婦さんがおむつを替えに

きてくれるは、管が入っているオチンチンやお尻を拭きに来て

くれるは、何とでもしてくれ、「生きてるんだあ!」と・・・

有難い、なにもかもそんな感じがして・・・

 

                    (三)

 

 担ぎこまれて、翌々日、普通病棟にうつされた。

 個室を選んだ。窓から、津方面の布引山脈が遠望できる。

 晩秋の山々、そのすそ野の景色がくっきり見ることができる。

 テレビやパソコンもつけるのをやめた。

 ウトウト、眠るか、ふだん読まずにいた本を読む。


 

 見舞いの人も数えきれないほど、やってきた。

 なにせ、後遺症が一切ないと、おもい込んでいる、あるいは

そうおもい込みたいのか、見舞いの人が訪ねてきてくれると

ワラワラとしゃべった。

 いっときは、老練の看護婦長さんが面会は控えて下さいとも

言われた。


 

 「心臓が止まって、倒れた。一命は取りとめた」と聞いたら、そりゃ、

死に顔を払いのけながら、無事な顔を見にいきたくなるよね。

 本人は、死を身近に感じながら、見舞いの人たちのお気持ちが

うれしくて。

 「ありがとう」としぜんにでてくる。

 この「ありがとう」、その人にむかって言っているような、なにか

それとは違うもにも言っているのかなあと、感じつつ。


 

 娘や息子、孫たちの見舞いは、やはり寛いで、こころ楽しかった。

 孫たちの、ウチから湧きいずる泉のごとき、生きて行こうとする

熱気が心地よかった。

 

 尿道から管が外され、点滴の管も減っていき、歩いてトイレに

いけるようになった。

 個室にトイレがあるけど、「動きたい」といって、点滴のポールを

押して廊下をウロウロした。

 

 ちょうど一週間目の26日、退院を許された。


 「28日まで、薬を用意しました。あとは、宮地さんの主治医と

今後の相談をしてください。微細動を抑制する器具をカラダに

埋め込むことなども、よく聞いて・・・」亀井医師からお聞きした。

 

                 (四)

 翌日、さっそく、妻の運転で、津にある行きつけ病院に行く。

 主治医の見解。

 「今回の事態が起きたということでは、いちど大学病院に

検査入院して、いまの宮地さんの心臓にとって、どんな薬が

日常暮らすうえで、適切か、あらためて見出したたらどうか。

微細動器は、車の運転中の事故など防ぐためには、必要に

なります」

 

 別に、病人だけが、死と隣あわせに暮らしているわけでは

ないのだろうが、いったん倒れる事態を起こしているじぶんは、

そんなに他人ごとではいられないなあ・・・

 よし、検査入院、早いに越したことはない。

 主治医に三重大病院の予約をお願いして、帰ってきた。

 

 お昼を過ぎていたので、妻とレストレンで食事。

 そこは、スープがとびきりうまい。

 妻はランチ、ぼくはスープとパン。

 結局、妻のランチもおすそ分けをうけた。お店の人が、

気をきかせて、フォークを持ってきてくれた。

 スープでお腹と気持ちが満たされた。

 

 2002年の春に心不全で三重大病院に入院した。

 そのときの主治医が、何年かまえに、津市内で開業したとき、

その医師に診てもらうことを選んだ。

 「宮地さんの心臓は、 2002年からだんだん機能が落ちてきて

いるというより、二回ほど、ドンドンと急激に落ちてきたんですよね」

と、きょう主治医はあらためて、説明してくれた。

 それを妻とぼくは、二人して聞いた。

 

 心筋症というのは難病の一つらしいが、そういう人でも、それと

気づかず亡くなっていく人もけっこうあるらしい。

 それが、拡張だ、心房細動だ、心室瀕拍だ、とカラダに刻印される

歴史を、ぼくはたどっているようだ。

 

 妻は「塩分控えめと言っているのに、かけなくてもいいときでも醤油を

かけたり、ほんとうにカラダのこと、かんがえているとおもえない」と言う。

 「うーん、それはそうなんだけど・・・そりゃ死ぬなんてことになったら、

周りの人に迷惑かけたり、悲しませることになるかもしれない。気持ちと

したら、お医者さんの処方にそって、ゆっくり長生きしたいともおもってい

る。

 でもなあ、ムラムラとラーメンのスープを飲み干したいとか、

ここ一番、カラダがどうなっても、これはやっておきたい、と

いったこと、あるんだよなあ。

 結局、それで、今みたいになってきたんだ、と言われても、

返すコトバはないけど、後悔してるかと問われれば、後悔の

気持がないわけではないが、それをやっていなかったときは、

もっと後悔していた感じもするんだなあ・・」

 

 これからも、無茶しようなんて、おもっているわけじゃない。

 長生き、できるならしたい。

 でも、それが一番の願いか?と問われれば、口ごもってしまう。

 

 スープで気持ちが満たされたら、三重県立図書館に行こうという

気持ちが出てきた。

 サイエンズ研究所が出版している「やさしい社会」の三冊の本を

寄贈しに行く。できたら「新刊コーナー」に置いてほしい。

 妻の運転で行ってみると、なんと休館日だった。

 「いつ、死ぬかもしれない」というのと、「やらなくっちゃ」は別だよね。


                        (五)

 

 帰ってきて、なんのきなしに徳永進さんの「死の文化を豊かに」という

本を開いた。

 谷川俊太郎さんの詩が目に止まった。

 

    からだをぬいで

  からだをぬいで

  といきのように

  わたしのこころに

  かえってきた

  ありがとう・・・・・・さん

  とけあって

  あのよとこのよ

  とけあっていつまでも

 

 この詩は、「作ろうよ、死の時の国民歌」という呼びかけに

応えて、つくられたらしい。

 いまだ、「ハッピーバースデートゥユー」ほどには、普及していない。

 「ありがとう・・・・・・さん」のところは、「ハッピーバースデートゥユー」

と同じように人の名前を入れるという。

 

   あのよとこのよ

   とけあっていつまでも

 

 しばらく、呪文のように密かにぶつぶついいつづけるかもしれない。


                                   (おしまい)

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
貴重なご体験でしたね。 (ninjin)
2012-12-04 21:47:06
本当に久しぶりにパソコンを開いてみましたところ、なんとまあ驚いてしまいました。貴重なご体験でしたね。

徳永先生と谷川さんの「死の文化を豊かに」は
うなずくことが多く、生きるゆとりをつくるのは、死をしっかり意識することではないかと思うようになりました。

河口の水のように、渾然としているのかもしれないですね。あちらとこちらは。
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