かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

りゅうれぇんれんの物語

2012-10-05 08:32:01 | わがうちなるつれづれの記

 10年以上も前に読んだ、茨木のり子の詩。

 「りゅうれぇんれんの物語」

 

 語りかけられたもの、容易に忘れがたく、いまになって、

牛が胃袋で咀嚼するように、読みかえしている。

 どうして、そんな気になったのか。

 いまの時代を身心に感じるから。

  通じ合うことを求めているのに、気が付いてみると、正しいか

否かと爭っている。

 言葉は世に氾濫しているのに、物も豊かなのに、なにか満ち足り

ないもの、生き難さがつきまとう時代の空気。

 どこへ、行こうとしているのか?

 

 長い詩だ。

 こんなはじまり。

ーー劉連仁(りゅうりぇんれん)、中国のひと

   くやみごとがあって

   知り合いの家に赴くところを

   日本軍に攫われた 

   山東省の草泊(ツアオポ)という村で

   昭和十九年 九月 或る朝のこと

 

   りゅうりぇんれんが攫われた 

   六尺もある偉丈夫が

   鍬をもたせたらこのあたり一番の百姓が

   為すすべもなく攫われた

   山東省の苛酷に使っても持ちがいい

   このあたり一帯が

   「華人労務者移入方針」のための

   日本軍の狩場であるこなどはつゆ知らず

 

 バッタでも捕まえるかのように、村人は、道々、てあたり次第とらえ

られて数珠つなぎ。青島の大埠頭に集められた。その数八百人。

 

ーーりゅうりぇんれんは胸が痛い

   結婚したての若い妻、初々しい前髪の妻は

   七か月の身重だ

 

 暗い貨物船の底に家畜のように押し込められ、玄海灘を越える。

 りゅうりぇんれんは、暗い船底で、この事態をうけとめかねている。

 

ーーあの朝・・・・

   さつまいもをひょいとつまんで 

   道々喰いながら歩いて行ったが、

   もしゆっくり家で朝めしを喰ってから

   出かけたならば 悪魔をやりすごすことができたろうか

   いや 妻が縫ってくれた黒の綿入れ

   それにはまだ衿がついていなかった

   俺はいやだと言ったんだ

   あいつは寒いから着ていけと言う

   この他愛ない爭いがもうすこし長びいていたら

   掴らないで済んだろうか めいふぁーず

 

 着いたところは、門司。そこで、二百人が選ばれ、汽車にのせられ、

船にのり、ついたところは、ハコダテ。

 そして雨竜郡の炭坑に追いたてられていった。

 十月末、厳寒のなか、裸で入坑。

棒くい、鉄棒、ツルハシ、シャベルで殴られながら、苛酷な仕事

 逃亡する者が相次いだ。連れ戻されて、目を覆うようなリンチ。

 

 そして、迎えた翌年の夏。

 「逃げるのなら今だ」

 りゅうりぇんれんは、便所の汲み取り口から逃げ出した。

 途中、その日に逃げ出した四人にばったり会う。

 

ーー山また山 峰また峰

   野ニラをつまみ 山白菜をたべ 毒茸にのたうち

   けものと野鳥の声に脅え

   猟師もこない奥深くへと移動した

   何か月目かに里に下りた 飢えのあまりに

   二人は見つけられ 引き立てられていった

 

 それから三人の逃亡生活がはじまる。

 昭和二十年八月十五日に日本は敗戦し、そのときは戦争は終わって

いたのだ!逃げる必要なんて、どこにもない。

 

 三人は稚内まで行き、そこで越冬。六月の空のもと、網走まで歩き、

釧路の近くの海に出る。そこで、二人の仲間が掴まった。

 二人は殺されたに違いない。

 りゅうりぇんれんは、悲嘆のあまり、自死を試みるが、失敗。

 そのとき、しっかり肝が坐る。「生きて、生きて、生きのびてみせる」

 

ーー彼の上にそれから十二年の歳月が流れていった

   りゅうりぇんれんにとって生活は

   穴に入り、穴からでることでしかなかった

   深い雪に押しつぶされず 湧水に悩まされず

   冬を過ごす穴を

   幾冬かのにがい経験のはてに ようやく学び  

   穴は注意深く年ごとに移動した

 

 この長い詩のなかで、ぼくにとって、印象深い一章がこのつぎに

出てくる。

 

ーー風がアカシヤの匂いを運んでくる

   或る夏のこと

   林を縫う小さなせせらぎに とっぷり躰を浸し

   ああ謝々(シェシェ) おてんとうさま

   日本の山野を逃げて逃げて逃げ廻っている俺にも

   こんな蓮の花のような美しい一日を

   ぽっかり恵んで下されたんだね

   木漏れ陽を仰ぎながら

   水浴の飛沫をはねとばしているとき

   不意に一人の子供が樹々のあいだから

   ちょろりと零れた 栗鼠のように

   「男のくせに なんしてお下げ髪?」

   「ホ お前 いくつだ」

   日本語と中国語は交叉せず いたずらに飛び交うばかり

   えらくケロッとした餓鬼だな

   開拓村の子供だろうか

   俺のの子供も生まれていればこれ位のかわいい小孫(ショウハイ)

   開拓村の小屋からいろんなものを盗んだが  

   俺は子供のものだけは取らなかった

   やわらかい布団は目が眩むほど欲しかったが

   赤ん坊の夜具だったからそいつばかりは

   手をつけなかったぜ

   言葉は通じないまま

   幾つかの問いと答えは受取られないまま

   古く親しい伯父 甥のように

   二人は水をはねちらかした

   りゅうりぇんれんはやっと気づく

   いけねえ 子供は禁物 子供の口からすべてはひろがる

   俺としたことがなんたる不覚!

   それにしても不思議な子供だ

   すっぱだかのまま アッという間に木立に消えた

 

 厳しい冬の朝、昭和三十三年、りゅうりぇんれんは発見された。

 (じぶんにひきつければ、11歳、小学5年生のころ?)

 

ーー凍傷にまみれた六尺ゆたかな見事な男

   一尺半のお下げ髪の 言葉の通じない変な男

   「イダイ イダイ」と連発する男

 

 りゅうりぇんれんにとって、そのときに戦争は終わった。

 すべての縛りから解き放たれると思いきや、日本政府は、

彼を「不法入国者」「不法在留者」としてかたずけようとしたという。

 りゅうりぇんれんの物語を知っていたら、知ろうとしたら、恥ずかし

くて、いたたまれなかったろうに・・・

 

 りゅうりぇんれんは、妻と息子が生きているという知らせを受ける。

 息子は、14歳。

 昭和三十三年四月、懐かしの故郷にもどる。

 

ーーひしめく出迎えのひとびとに囲まれ

   三人目に握手した中年の女

   それが妻の趙玉蘭

   りゅうりぇんれんは気づかずに前へ進む

   別れた時 二十三歳の若妻は三十七歳になっていた

   「おとっつあん!」

   抱きついた美少年 これこそは尋児(シュンアル)

   髪の毛もつやつやと涼しげな男の子

   読むことも 書くことも

   みづからの意志を述べることことも

   衆よりすぐれ 村一番のインテリに育っていた

 

 この長い長い詩の最終章。

 この章だけで、詩人が表出したい、そのものが溢れている。

 長い物語は、このものをみちびき出すための長い前奏だった?

ーー一ツの運命と一ツの運命とが

   ぱったり出会う

   その意味も知らず

   その深さも知らずに

   逃亡の大男と 開拓のちび

 

   風が花の種子を遠くに飛ばすように

   虫が花粉にまみれた足で飛びまわるように

   一ツの運命と一ツの運命とが交錯する

   本人さえもそれと気づかずに

 

   ひとつの村と もうひとつの遠くの村とが

   ぱったり出会う

   その意味も知らずに

   満足な会話すら交せずに

   もどかしさをただ酸漿のように鳴らして

   一ツの村の魂と もう一ツの村の魂とが

   ぱったり出会う

   名もない川べりで

 

   時がたち

   月日が流れ

   一人の男はふるさとの村へ

   遂に帰ることができた

   十三回の春と

   十三回の夏と

   十三回の秋と

   十四回の冬に耐えて

   青春を穴のいもぐって すっかり使い果たしたのちに

 

   時がたち

   月日が流れ

   一人のちびは大きくなった

   楡の木よりも逞しい若者に

   若者はふと思う

   幼い日の あの交されざりし対話

   あの隙間

   いましっかりと 自分の言葉で埋めてみたいと

 

  形の無いものに、関心がいきにくい。

  形あるものが、目の前のことが、そこからはじめなければ、

生きていけないではないか?いいこといっても、そうはいっても・・・

 人は、こころの底の底では、なにを求めているのだろう?


                     じぶんのための覚書

   

 

   

   

 

   

   

 

  

  

 

 

   

 

  

 

   

 

 

 

 

 

 

 


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4 コメント

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捕まえてみたいもの (ninjin)
2012-10-07 10:44:34
時々、私は本当はどうしたいのかなあと、思うことがあります。

京都の銘菓をひとついただきました。
ひとつです。

一緒にお茶をいただいている人に
・・「どうぞ・・」といいました。
その方も・・「貴方こそどうぞ・・」と。

そうしてちょっとだけ間が出来て
「半分づつにしましょうか・・」といってみました。

それで何事も無かったように
私の気持ちは流れていきます。


かたつむりさんの、この記事を読んでいて
ふっと、このときの自分の中が知りたくなりました。つまらないことですが・・・。




返信する
捕まえてみたいもの (ninjin)
2012-10-07 10:50:54
時々、私は本当はどうしたいのかなあと、思うことがあります。

京都の銘菓をひとついただきました。
ひとつです。

一緒にお茶をいただいている人に
・・「どうぞ・・」といいました。
その方も・・「貴方こそどうぞ・・」と。

そうしてちょっとだけ間が出来て
「半分づつにしましょうか・・」といってみました。

お菓子はふた切れになって
それで何事も無かったように
私の気持ちは流れていきます。

かたつむりさんの、この記事を読んでいて
ふっと、このときの自分の中が知りたくなりました。つまらないことですが・・・。




返信する
おもいだしたこと (宮地昌幸)
2012-10-08 05:52:02
 もう、、ずいぶん前、娘が保育園のころだったか。
その保育園でののエピソードを聞いたことがあり
ます。
 
 何人かの幼児たちがいるところで、あめが一つ、
みんなの前にあるよういな場面になった。
 係りの人は、「一つしかないのに、どうしよう?」と
おもって見ていたら、一人の子がそのアメを舐めて、
なんと、隣の子にまわしたというのでした。
 「へええー」と、なにか難問が解けた、なぞなぞで
「なーんだ、そうだった、そうだよね」みたいな、知った
あとの爽快感が、そのときありました。

 じぶんのなかに、囲うようなものがなく、相手にも
なければ、じぶんのなかの気持ちのままに、”問題”
というのは、どこにあるのかということになるのでは
ないか?
 幼児が同士、ときに喧嘩してると見えることでも、
じぶんの気持ちを言っているだけで、相手を責める
とか、恨むとか、そういうものが、ないのでは、と最近

孫たちを見てて、おもうことがあります。
 だって、彼らはいつまでも前のことを、ひきずって
いない、けろっとしている。そのくりかえし。
 でも、どこからか、そうではなくなったいくんですね。
 そこは、周囲の環境がおおきいかな?じぶんも、そのひとり・・・
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ほお~ (ninjin)
2012-10-09 03:45:58
ほお~と言うか、まあ~と言うか・・・子供のその状態って言い表しがたくすてきですね。
そのような感じ、かんじなんですが、気持ちが真空状態な
そういう瞬間が自分の中では、そこが捉えにくいです。
鈍磨してしまったんでしょうか。

りゅうりぇんれんの物語を、このところしきりに思い出してしまうのは、なぜなのかしらと思っています。
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