かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

韓国ミネサクラブ、来訪の記(3)--「人の本性に至っているか?」

2012-08-30 10:16:39 | アズワンコミュニテイ暮らし

 一日のアズワンコミュニテイーの探訪を終えて。

 夜、コミュニテイーにかかわる人たちも参加して、懇談会が

 あった。

 

 まず、一日まわってみて、お一人おひとりの感想。

 

 カン・ホギさん

  --見てみて、実態ができている。何よりも、探究という焦点が

     はっきりしている。

      人間の本性を求めていて、宗教臭がない。過去の

     共同体でできなかった本質探究がなされているように

     見えた。

      サイエンズスクールのコースを全部受けてみないと、

     アズワンは理解できないかもね。

 

チェ・スンヒさん

 --アズワンでやられていることは、当たり前のこと。私は、そのように

    生きていないなあ。

     お金のこと、家族のこと、貯金しなくては、など不安がいっぱい。

     現実から離れて、意識上の探究をしてきたけど、実際の暮らしに

    染み込んでくるほどの効果がなかったかなあ。

     お弁当屋さんでも、仕事の場が「人間の本性を探っていく場」という

    話があったけど、仕事やりたくないと言ってやらない人が出てきたら、

    どうなるかな。頭で理解できても、実際は・・・考えてしまう。

 

キム・ミヨンさん

 --コミュニテイーの人たちにたくさん質問した。そのとき、じぶんを前に

    出さないで、静かに応えるのを見ていて、内面の”コンプレックス”が

    解決してきた人たちだとおもった。

     個人の内面の探究が、社会にどうつながっていくか、サイエンズ

    研究所やサイエンズスクールがどのようなはたらきをしているか、

    質問に応える人たちの姿から、感じるものがあった。

 

オ・テホさん

 --サイエンズスクールの説明を聞いて、昨日はそのへんを知ってから

    話をすればよかったかなとおもっている。

     コース、全部参加すると42日。じぶんを見ていく、省察していく

    活動は、一つの実験だ。

     そこをやろうとしても、解脱とか悟りまで、すぐにはいかない。

     コミュニテイーでは、安心・自由というのがベースになっているが、

    それがどこまでやれていくか、よくよく見ていく必要があるのでは

    ないか。

 

イ・ワンキョさん

 --実際の仕事や暮らしでは、いろいろなことが起こる。そのなかで、

    崩れない親しさがどう実現しているか、見てみたかった。

     コミュニテイーは開放的という印象。

     鈴鹿カルチャーステーションでも、物の面では豊かでないかも。

    でも、そこにはなにかを成し遂げようという意志、意欲があるという

    より好奇心や探究心が原動力になっている。

      健康な人体は部分部分が光っていると言われる。光と光が

     響きあう余裕がある。コミュニテイーの人たち同士、そんな

     余裕がある。

      固定がない、決めつけがない、じぶんの考えを押し付けない。

      アズワンコミュニテイーには、形がない。形がないのが、

     アズワンコミュニテイーとも言えるか。

      人の本性をベースにしている、そこのところ、明日のサイエンズ

     研究所のメンバーとの話しあいが、楽しみ。

 

  参加しているコミュニテイーの人たちも、ミネサクラブの人たちに問われて、

どんなことをしているか、そのときどんなことをおもってやっているか、なんと

いえばいいか、「エー」とか「ウーン」と言いながら、ありのままに話そうと

している風だった。

 

 懇談会も佳境に入ると、現象面のことというより、「そこがそうなってくる

には何があったのか」と、問う場面が増えていった。

 「”人の本性に適した社会”というが、そこを目指してやっているか?」

 「本性とは、どんなものだとおもっているか?」

 「船はオールで漕ぐ。本性を発見できて、楽な状態といっても、その本性を

活用するまでいく必要があるのでは・・・」

 

 夜は更けていく。

 「人の本性に至った、とか、悟ったという体験はあるのか?」

 問いかけが続いた。

 その場にいた、一人ひとりが、じぶんの場合、どうだろう?と、じぶんの

なかをいっしょ懸命見ていた。

 他の人のことは、分からなかったが、じぶんのなかでは、本性に至った

とは言えないが、その焦点を究明しようとしてるとは、言えそうにおもった。

 

 じぶんの人間観・社会観のベースが、本来の人間性に基ずくもので

ありたい。

 ”しなければならない”というのは、あまり本来的と言えないのでは・・・

 子どもに”やらなくちゃ”は、ないもんね。

 どこが、じぶんのベースになっているのか?

 この問いかけは、なにか途切れずに、じぶんの中にありそう・・・

 

 でも、その夜、懇談会では、そんなこと考えているうち、頭がもうろうと

するような感じになった。

 幸い、そのころ、きょうはこんなところに、しましょうとなった。


                                                                 (つづく)

 

 

 

     

 

 

 

 


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