風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

日本人の美意識

2016-10-07 00:14:37 | 時事放談
 前回は、大隅良典・東京工業大栄誉教授のノーベル賞受賞をきっかけに、戦後の日本経済が絶好調で日本の社会活動の全てに好循環をもたらした(その分、摩擦も振り撒いた)1980~90年代という時代背景を振り返り、「ノーベル賞に関して言うと、今は過去の遺産を食いつぶしている」との大隅教授の言葉を引きながら、2000年以降、産業界でも物議を醸した成果主義がもたらすマイナス・インパクト、その最たるものとして、長期的な展望で仕事をすることが難しくなっている今の日本のありようを問題視した。
 しかし本当にそうだろうか。たかだか戦後70年で、日本人の本質が変わるはずはないのだ。
 月曜日の日経朝刊に掲載された新連載「新・産業創世記」と題するコラムが記憶に残る。「NASAも羨むガラパゴス」などと、内向きでネガティブ・イメージの手垢にまみれた「ガラパゴス」をポジティブに捉える挑発的なタイトルである。紹介されていたのはスパイバーという山形県の会社で、微生物が作り出すたんぱく質を主成分に、鋼の340倍の強度がありながら伸縮性もある、クモの糸に着想を得た「夢の素材」の開発を進めているという。そのコラムの中で、米ハーバード大の研究者などが算出する「経済複雑性指標」が紹介される。国内で生み出される製品の多様性と特異性を示し、点数が高いほど、多様な産業基盤を抱えていることを示すものらしく、その指標で日本は世界一の座を守り続けているという。これはノーベル賞といった華やかな世界とは趣の違う、前回ブログで引用した韓国メディアが言う「匠の世界」に通じる面目躍如と言うべきではないかと思う。
 デザイナーの原研哉氏は著書「日本のデザイン」の前書きの中で次のように述べておられる(大いに感銘を受けたところなので、長くなるが敢えて引用する)。

(前略)今の東京の夜景は、世界で一番美しいかもしれない。そういう感想を漏らすと、異論を唱える人は少なからずいる。(中略)やはり、思い過ごしかも知れないと思いはじめていた矢先、都市をテーマとしたテレビのドキュメンタリー番組で、世界の空を飛び回るパイロットたちの言葉が紹介されていた。
 「いま、上空から眺めて一番きれいな夜景は東京」
 世界の夜景を機上から眺め続けている人々の意見だけに説得力がある。まさに我が意を得た思いがした。世界広しといえども、東京ほど広大な広がりを持つ都市はないし、信頼感あるひとつひとつの灯りがそういう規模で結集しているわけである。このあたりに僕はひとつの確信を持つ。
 掃除をする人も、工事をする人も、料理をする人も、灯りを管理する人も、すべて丁寧に篤実に仕事をしている。あえて言葉にするなら「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」。そんな価値観が根底にある。日本とはそういう国である。
 これは海外では簡単に手に入らない価値観である。パリでも、ミラノでも、ロンドンでも、たとえば展覧会の会場ひとつ日本並みの完成度で作ろうとするなら、その骨折りは並大抵ではない。基本的に何かをよりよく丁寧にやろうという意識が希薄である。労働者は時間がくれば作業をやめる。効率や品質を向上させようという意欲よりもマイペースを貫く個の尊厳が仕事に優先するとでも言うか。それを前提に、管理する側がほどよく制御して仕事を勧めていく。確かに、ヨーロッパには職人気質というものが存在するが、日常の掃除や、展示会場の設営などは、職人気質の及ぶ範囲ではないのかもしれない。さらに言えば、こうした普通の環境を丁寧にしつらえる意識は作業をしている当人たちの問題のみならず、その環境を共有する一般の人々の意識のレベルにも繋がっているような気がする。特別な職人の領域だけに高邁な意識を持ち込むのではなく、ありふれた日常空間の始末をきちんとすることや、それをひとつの常識として社会全体で暗黙裡に共有すること。美意識とはそのような文化のありようではないか。
 ものづくりに必要な資源とはまさにこの「美意識」ではないかと僕は最近思いはじめている。これは決して比喩やたとえではない。ものの作り手にも、生み出されたものを喜ぶ受け手にも共有される感受性があってこそ、ものはその文化の中で育まれ成長する。まさに美意識こそものづくりを継続していくための不断の資源である。(後略)

 個々の言葉のもつイメージは厳密には若干異なっていたりするのかも知れないが、ざっくりと、日本の品質の高さをデザイナー視点で捉えたユニークな見立てだと思う。ノーベル賞といった尖がった天才の次元の話ではなく、日本人一般に見られる美意識が、日本の文化を特徴づけ、その中でモノづくりが鍛えられる、というわけだ。日本人の美意識は、2000年や3000年といったレベルの悠久の時の流れの中で、大陸辺境の島国という立地特性から、流れ込むさまざまな文化を取捨選択し咀嚼する中で形作られてきたもので、いくら戦後の高度経済成長による変化が劇的でも、僅か数十年の経済という表層で起こる変化によって揺らぐものではなく、日本人の存在の基層を形づくるもののはずだ。
 そんな日本人の美意識を信頼するとすれば、仮に将来、日本人のノーベル賞受賞者が減るとしても、悲観するに及ばない。それは日本人が劣化するからではなく、日本人にとってノーベル賞の価値が減ずるからか、あるいは単にノーベル賞以外の領域で日本人らしい美意識を発揮するからであろう。もしかしたら、グローバルやオープン・イノベーションといったキーワードで特徴づけられる現代にあって一国のノーベル賞受賞を競うのは、相変わらず国内総生産(GDP)という形式的なフローの経済指標のみに頼って一国の豊かさを推し量るのに似た過ちを犯しているのかも知れない。GDPが一つの有力な指標たり得るのは事実だけれども。
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