風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

万里の長城の荒廃

2016-10-10 12:01:16 | 日々の生活
 前々回、前回と、ノーベル賞受賞をキッカケに多少は次元の違う話を思いつくまま芋づる式に書いてきて、しつこく今回まで続けてみたい。
 万里の長城は、観光化されているところ以外は、自然の風化だけでなく、れんがの盗難(周辺住民が住宅の資材にしたり、抜き取ったレンガを30元で売却したりするケースも)によっても荒廃が進み、明朝時代に造られた約6,260キロの3割が既に消失したとも言われている。そして二週間ほど前に、遼寧省の小河口村で2013~14年に行なわれた修復作業で、上部が(本来使われるはずのしっくいではなく)コンクリートのようなもので塗り固められた疑いがあると報じられ、話題になった。観光客向けに整備されていない「野長城」の中でも最も美しいと言われてきた地域だったのに、まるで平坦な歩道か自転車道のように変わり果てた姿がネットを通じて広がって、さすがの中国でも非難が殺到したようだ。日本でも、中国人のやることは・・・式の、やや突き放した批判が出ていたが、そうだろうか。
 日本に城壁はないが「城」があり、それこそ戦国時代には3~4万あったとされるが、当時は天守がなかった。現代の私たちに馴染みがある天守を備えた威風堂々たる「城」は信長が基本理念を打ち立てたもので、その後、全国に広まり、しかし当時の姿を今に残すのは所謂「現存12天守」だけである(内、5つは国宝、その内の1つは世界文化遺産)。明治4年の廃城令で、全国200余りの城の天守や櫓などが解体・破却されたからで、維持費がないため木材として売られた例もあったという。それでも残った約60棟は、1940年代に入っても20棟が残っていたが、太平洋戦争で消失した。
 時代背景が違うと言われればその通りで、明治維新の頃、一種の革命に燃えていた新政府にとって、旧体制の残した「城」に文化的な価値があろうなどとは思いもよらなかっただろう。しかし誤解を恐れずに言えば、中国の地方に行けば、今でもその程度ではないかと思ったりするわけだ。沿岸部こそ(情報や経済力という点で)先進国に肩を並べるほどになったかも知れないが、地方は30年と言わず50年、あるいはそれ以上に後れているのではあるまいか。勿論、現世利益を求める度合いが強いとか、政策あれば対策ありと言われるほど法の抜け道を探す敏さ(狡猾さ)と言うか上に従わないしぶとさといった中国人らしさが背景に厳然としてあるとは思う。しかしそれ以上に中国の地方は貧しく、情報もなく、世界文化遺産など知る由もないはずだ。衣食足りて礼節を知る、とも言う(もっとも、朽ち果てるものをどういう形で保存するかという議論はあるがここでは触れない)。
 連想はさらに飛ぶ。
 三等海佐として海上自衛隊・特殊部隊創設に携わった伊藤祐靖氏は著書「国のために死ねるか」の中で鋭い指摘をされていた。「日本という国は、何に関してもトップのレベルに特出したものがない。ところが、どういうわけか、ボトムのレベルが、他国に比べると非常に高い。優秀な人が多いのではなく、優秀じゃない人が極端に少ないのだ。日本人はモラルが高いと言われるが、それは、モラルの高い人が多いのではなくて、モラルのない人が殆どいないということである」と。そうして更に続けて、「あくまで一般的傾向としてだが、軍隊には、その国の底辺に近い者が多く集まってくるものなのだ。だから戦争というのは、オリンピックやワールドカップのようにその国のエリート同士が勝負する戦いではない。その逆なのである。」 ところが、「自衛隊が他国と共同訓練をすると、『何て優秀な兵隊なんだ。こんな国と戦争したら絶対に負ける』と、毎回必ず言われる」そうだ。そこで、「最強の軍隊は、アメリカの将軍、ドイツの将校、日本の下士官」などというよく知られたジョークに繋がるわけだが、日本の教育問題を見事に言い当てているとは言えないだろうか。この国を導くエリート教育の貧しさと、しかし平均を高める(正確には落ちこぼれをなるべく出さない)教育こそが日本の社会の高品質を支えている現実を。
 敢えてここでは一方の、底上げされた(しかし突出したところの少ない)平均レベルの高さのことを言いたい。1億2千6百万人という、決して国としては少なくない人口(実際に先進国では移民大国アメリカに次ぎ、東西統一したドイツですら82百万、その次のフランスに至っては63百万と、日本の半分である)をもちながら、高品質を保つのは並大抵ではないということだ(最近は格差が広がっているとの言説が見られるが、勉強不足でもあり稿を改める)。況や13億5千万人の中国においてをや。中国の現在の停滞、そして今後の発展を困難たらしめるものの一つは、国内に富や情報が偏在していることにあり、如何に是正できるか(そのために中国共産党の統治が進化できるか)にかかっている。
 そんな中国を鑑に(と言っても反面教師としての鑑だが)日本を振り返ると、試験の点数だけにとどまらず、伊藤祐靖氏が言われるようなモラルの問題、更に言えば、大陸とは隔絶された島国で、多様な文化を受け容れ咀嚼しながらなお独自性の高い文化を何千年にもわたって育んできた素養のレベルの問題として、日本の品質の高さやそれを基礎とした社会のありよう、もっと言えば日本人の美意識を思わないわけには行かないのである。それはもとより美術品や工芸品の美しさを愛でるだけではなく、日常の所作に及ぶものである。前回、引用した原研哉氏の言葉を、部分的に再掲したい。

(前略)こうした普通の環境を丁寧にしつらえる意識は作業をしている当人たちの問題のみならず、その環境を共有する一般の人々の意識のレベルにも繋がっているような気がする。特別な職人の領域だけに高邁な意識を持ち込むのではなく、ありふれた日常空間の始末をきちんとすることや、それをひとつの常識として社会全体で暗黙裡に共有すること。美意識とはそのような文化のありようではないか。(後略)
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