風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

受験勉強と学びの違い

2024-05-26 08:55:38 | 日々の生活

 十日程前の池上彰さんの大岡山通信(日経朝刊)は、「大型連休が明けて学生がキャンパスに帰ってきました」との書き出しで、新入生に向けて、「大事なことは、良き問いを立て、答えを求めて自ら学ぶという姿勢」だと、受験勉強からの脱皮を勧めておられた。これ自体は陳腐ではあるものの、その通りだろう。高校までは「授業」と呼んで、授けられるものを有り難く受けていたが、大学では「講義」と呼んで、自ら学ぶことが大切だと言って、講義をサボって遊ぶ口実にしていたのを懐かしく思い出す。あの頃、しっかり主体的に勉強していたら人生は変わっていただろう(笑)。

 大岡山通信に戻ると、しかし、その前提にはやや違和感がある。「君たちは小学校のころから、先生が何か問題を出すと、先生が求めている正解は何かをいち早く察知して答えることを繰り返してきたのでしょう。要するに忖度力です。ある意味で、求められている答えを忖度する力を高めることが受験競争に打ち勝つ手段でもあったのです」と言われるのもステレオタイプで、しかし、それだけではないはずだ。勿論、点数を確実に稼ぐには、問題文を読み込み何を求められているかをいち早く察知し的確に「答え」を纏め、採点者の心を捉えなければならない。それはその通りだが、それは後半分でしかない。前半分は、そもそも何が出題されるかを、池上さんの言葉を借りるならば「忖度」する。それを中途半端にやれば、ヤマが当たったとか外れたということになるが、普通に試験に備える場合は、定期考査と大学受験ではやや違うとは言え、教師視点で何が「問題」として出題されそうか忖度し、あるいは赤本に当たって大学の出題傾向を「忖度」して重点的に対策を練る。いずれも所詮は「忖度」には違いないが、試験(教師)が求めるものを先回りする努力をしていた。何が重要か、流れを、ポイントを、掴むことには長けていなければならなかった。こうした受験という狭い世界から自由になった解放感を、あの季節の眩いばかりの明るさとともに懐かしく思い出す。ようやく自分が好きなことに目が向けられる。そして私は長い五月病を患った(笑)。

 社会に出れば、大岡山通信にあるように「世界はどうあるべきか、日本はどうあるべきか、そして私はどうあるべきなのかという問いを立ててみる。その力が求められてくる」と言われる。「忖度」に慣れ親しんだ私たちには必ずしも苦手なことではなく、求められているものを探そうとして、そこからはスティーブ・ジョブズは出てこないなどと世間ではステレオタイプに批判される。しかし日本にだってソニーやニンテンドーが活躍したことがあったし、小さい企業の中にはいろいろ面白い取り組みをしているところがある。GAFAMが出て来ない日本に足りないのは、(中国という意識的に巨大を求めて力で圧倒する経済が現れた今)リスクを取って大規模に先行投資する実行力ではないだろうか(かつて半導体投資で後れをとったように)。構想力では負けていないのではないだろうか。そして、巨大を求めても勝てそうにない日本は別の戦い方を探さなければならないのではないだろうか。

 大岡山通信は、「自分の未来や幸福のために良き問いを立てるということは人間にしかできないこと」「技術とはあくまでも、情報を集め、考えるための道具に過ぎない」として、AI時代を生き抜く指針を与え、「考える力とは生きる力に通じるかもしれません。学生生活を大事に過ごしてほしいと思います」と締めておられる。分かりやすく伝えることを信条とされる氏の本領発揮と言え、その通りだと思う。AIは身近に欠かせないものとなるだろうが、まだ稚拙なAIを評価する感性が、またAIが進化してもAIを超える人間自身の感性が評価されるのは間違いないのであって、その感性は学びの中でこそ磨かれる。そこに老若男女の関わりはない、ということを、まだ限りない未来が広がる新入生ばかりでなく、定年を迎えて初めて自由の身になる方々へのハナムケの言葉にしたいと思う。なんだか他人事のようだが(笑)

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