風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

パラダイム転換(上)人を活かす

2010-12-30 22:22:51 | 日々の生活
 かつてペナンに駐在していた時の駐在仲間だった同僚が、今月限りで会社を辞めました。まだ30代の今こその決断だったのだろうと思いますが、社費でMITに留学し、MBAを取得していた彼を、結局、会社は活用出来なかったようです。
 私の周囲を振り返ってみると、かつて社費留学をして今でも会社に残っている知人はごく僅かで、殆どが会社を去り、会社に見切りをつけて辞めてから大学院に進学したツワモノもいます。実際、こうして海外の大学院に留学する志の高い社員がMBAなどを取得して辞めてしまうのは、私の会社に限った話ではなく、どうやら多くの日本の企業に共通する悩みのようで、留学で研究するテーマを業務に近いものに絞る、といったような企業の自衛的な動きが報じられたこともありました。そもそも海外の大学院を選ぶこと自体に海外志向あるいは日本的経営とは違うところに働く場を求める強い志向を認めることが出来るわけで、社内に留め置くのは簡単ではなさそうです。しかし現状に満足しない上昇志向や変化への志向が強いのもまた事実であり、そうした社員を核に、同質性の強い社内組織に新しい風を吹き込み、刺激を与え、変化を起こすことにもっと期待してもよいように思うのですが、日本の企業は社員教育の領域でも、目先の「費用投下」と回収に拘って、中・長期的な「投資」とみなす余裕はなくなったのでしょうか。
 本来、MBAのような経営の科学は、例えばアメリカでも、いったん企業で数年勤務した後で、大学院に進んで勉強し直す対象ですが、MBAを取得すると職種転換したり給与水準が上がったりする通り、MBAホルダーはマネジメントのポテンシャルがある即戦力として扱われます。ところが、日本の企業社会では、苦労して取得するMBAがキャリアとして余り評価されず、また元の職場や職種に戻って、同じような給与水準で元の仕事を続ける例が多いため、卒業後に活躍する外国人の同級生の話を聞くと、自分も活躍の場を外に求めたいという思いが募るであろうことは想像に難くありません。結局、中途採用がまだ少なく、大低は新卒で採用して徒弟制度の名残りの中で育て上げる日本の企業風土の中で、同じ技能に対して企業の枠を越えて給与レベルが変わらないような、技能毎に給与相場が決まるオープンな労働市場が成熟していない、企業毎に閉塞的な日本の雇用環境に問題がありそうです。
 同じ問題が、学生の就職率が統計を取り始めて以来最低を記録して、就職氷河期からなかなか抜け出せないという文脈の中で、大きくクローズアップされました。人生における貴重な学生時代に、腰を据えて学問に取り組むことなく、大学院への進学も避け、海外留学・遊学する暇も惜しんで、就職に有利と見なされるような資格取得に勤しむといったような昨今の学生気質が紹介されるにつけ、暗澹たる気持ちになります。目先の就職という課題に囚われるばかりに、その後の人生の基盤を形造るリベラルアーツや海外の異文化に触れる機会が失われるのは、実に惜しい。これは学生にとっては自己防衛本能のなせるワザで罪があるとは言えません。むしろ責められるべきは、学生に十分な就労の機会を提供できない企業人や政治家たるオトナの方です。11月に雇用対策法に基づく「青少年雇用機会確保指針」(=「青少年の雇用機会の確保等に関して事業主が適切に対処するための指針」)が一部改正され、事業主は、新卒者の採用枠に卒業者が卒業後少なくとも3年間は応募できるようにすべきものとすることが新たに盛り込まれましたが、付け焼刃の感が拭えません。こうして、日本の経済基盤が、人材という足元から、脆くも崩れつつあるような気がしてなりません。
 最近、日経新聞に興味深い数字が掲載されていました。トヨタの来年度の販売計画は770万台、内、国内販売は130万台、国内生産は310万台というものでした(記憶が正しければ)。プラザ合意以降の1980年代後半の急激な円高や、1990年代以降のグローバリゼーションの進展、更に2000年代の新興国市場の立ち上がりの中で、生産の海外移転を進めて来た日本ですが、トヨタは流石に海外売上比率が高いこと、しかし今なお国内需要を満たして国内市場に倍する国内生産を輸出に振り向けていることが、私にはちょっとした驚きでした。しかし、今の円高は企業努力ではとても克服し得ないレベルであり、更にEVが主流になれば、もはやトヨタのものづくりのノウハウが十分に活かせなくなり、他のエレクトロニクス製品同様、世界の工場たる中国や新興国にその地位を脅かされる可能性があります。
 グローバリゼーションと呼ばれる現象は、ヒト・モノ・カネが国境を越えて自由に行き来し、あらゆるレベルで競争がグローバル化すること(個人や企業はもとより、都市間や国家間の競争もあります)を言い、その本質は、グローバルな市場と近代国民国家との間の相克にあります。人類はまだそれをアウフヘーベンする枠組みも知恵も産み出し得ていません。
 その過渡期の現代にあっては、企業だけが富めば良いということはありませんし、ある都市だけが、あるいは国だけが豊かになることもまた不可能です。さながら複雑な方程式のようであり、その全てのレベルをそれなりに満足させるのは、生半可ではありません。そして日本は、どのレベルの競争にも後れを取りつつあります。だからと言って、アメリカやオーストラリアといった移民社会の自由を目指せと言うつもりはありませんし、中国のようなガチガチの管理社会で勝ち組と負け組の緊張を内に抱えながら、国家としてはまがりなりにも成長を続けるというのも、もとより無理があります。その間のいずれかにあって、同質ながら高品質で厚みのある日本人=人材をベースに考えざるを得ませんが、固定的な社会を260年にわたって続けた歴史があり、相応の外圧がなければ自ら変れないほど我慢強い耐性をもった国民性です。守るべきものと変えなければならないものを見極めながら、数百年に一度というパラダイム転換を、乗り切ることが出来るのかどうか。なんだか閾値に近づきつつあることを感じた2010年も、あと一日になりました。
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