風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

東芝問題

2015-09-12 10:52:02 | ビジネスパーソンとして
 不適切会計とは東芝流の表現で、実態は不正会計あるいは世間でよく言われる粉飾決算と言うべきなのだろう。当初、名門企業・東芝が・・・と驚きを以て受け止められ、状況が次第に明らかになるにつれて、とても他人事とは思えなくなったサラリーマンが、私も含めて、多かったのではないかと思う。東芝と言えば、かつて冷戦たけなわの頃、関係会社である東芝機械がココム違反事件(共産圏に輸出された工作機械によってソ連の潜水艦技術が進歩し米軍に潜在的な危険を与えたとして日米間の政治問題に発展した事件:Wikipedia)を起こしてアメリカから叩かれ、親会社の東芝会長と社長が辞任する大騒ぎになったことがあった。それ以来であろうか、またしても信頼を大いに失墜する事態となってしまった。
 ようやく今週になって、2015年3月期の有価証券報告書を関東財務局に提出した。本来の提出期限である6月30日から、8月31日更に9月7日と、二度延期される二ヶ月強の遅れとなり、上場廃止という最悪の事態までも噂された。一連の不正会計で、過年度(2009年3月期から2014年4~12月期)の累計修正額は、税引前損益で実に2248億円にのぼり、2016年3月期の業績予想について、「営業面で行政処分や指名停止などについて予見できない」(室町社長)として、公表を見送るハメになった。
 そもそもの発端は、東芝関係者から証券取引等監視委員会に内部通報があったようだ。そして2月に監視委が東芝に開示検査をするに至って、不正が明るみになったという。さすがに義憤に駆られたのか、それにしても、ここに至るまでに随分時間がかかっている。
 その筋の専門家によると、企業が不正会計や粉飾決算を行う動機は2つあると言う。ひとつは赤字や債務超過状態を隠蔽するもので、そうでもしないと銀行融資が止められるとか、建設業であれば公共工事の入札に参加できなくなるなど、企業の死活問題に関わり、中小企業に多く見られるものだ。もうひとつは経営者のメンツや企業の体面、また社内の確執などに関わるもので、前年度より業績を上げるとか、何%成長させるなど、ステークホルダーにコミットしたばかりに、数字を糊塗して格好をつけてしまうものだ。東芝のような大企業は、当然、後者の方だ。
 そして、その原因として、今年7月、第三者委員会がまとめた調査報告書には、利益至上主義や、上司の意向に逆らうことが出来ない企業風土などが挙げられている。社会心理学の世界に、一人で考えれば気が付くことでも、集団だと見落とし、大きな過ちを犯すという概念で、「集団浅慮」という言葉があり、凝集性が高い、言い換えると同質性が高い組織ほど「集団浅慮」に陥るリスクが高まるとされ、東芝はこの状況になっていたのではないかと解説する専門家もいる。これもまた、さもありなんと思う。大袈裟に言ってみれば雨にも負けず風にも夏の暑さにも負けずカイゼンを繰り返しながら一つの畑を一所懸命に耕すといったような農耕民族・日本の社会では、本来は機能・利益集団である一般企業にしても、学校やその他の組織にしても、構成要員である一人ひとりに同質性が高いものだから、良い意味でも悪い意味でも、いつしか地縁・血縁的で運命共同体的な組織になりがちであり、「集団浅慮」にも陥りがちなことだと思う。
 利益至上主義ということでは、東芝の社長がカンパニー社長と面談する「社長月例」と呼ばれる会議などで、実現がとても不可能な業務目標を社員に強要する「チャレンジ」が話題になり、私も含めて、多くの企業人は敏感に反応した。その「チャレンジ」目標は、各カンパニーから各部へ、更に各課へと落とし込まれ、必達目標として個人にのしかかることになるのだという。これは他人事ではない。日本の企業では、多かれ少なかれ見られる日常のごく当たり前の光景である。日本電産の永守さんも、20%アップなどの目標を与えてこそ成長するというようなことを言われていたが、企業人として、販売拡大にせよ経費削減にせよ、敢えて5%ではなく20%レベルの目標を置かないと革新的な発想に至らないことは、人間心理についてのごく当たり前の知恵として、日常、運用している。いわば普通の人間が力を発揮し得る「のびしろ」のところでの話だ。東芝ではそれが一線を超えてしまったのか。
 東芝でも、その「チャレンジ」は、かつては「可能なら頑張ろう」という意味合いだったらしいが、2008年頃から「必達目標」へと変貌し始めたらしい。きっかけは、西田社長が出身母体のパソコン部門に利益の上積みを求めたことだという。その背景に、東芝の収益構造の悪化、すなわち不採算事業が延命され、稼ぐ力が弱まっていたことがあるという説明は、想像に難くない。
 西田社長と言えば、東大卒で重電部門を経てトップに登り詰めるのが伝統の東芝では異色のパソコン事業出身で、しかも中途入社だ。2005年6月に社長に就任すると、「集中と選択」を推し進め、その後の収益拡大に貢献した功労者で、2006年にはWHを54億ドル(当時約6300億円)で買収するなど、とりわけ原子力発電所事業と半導体事業の二つに集中投資してきた。そして2008年と言えば、リーマンショックに伴う金融危機の煽りを受けて世界景気が反転したときで、東芝でもこの年、過去最大の最終赤字3435億円を計上している。その後、2011年3月に発生した福島第一原発事故の結果、成長の柱として期待されていた原発事業に一気に暗雲が立ち込める。収益構造はイビツになり、2015年3月期の営業損益を見ると、NANDフラッシュメモリなどの電子デバイス事業が2166億円の黒字を稼ぐ一方、テレビやパソコン、白モノ家電などのライフスタイル事業は1097億円の赤字という、半導体事業依存体質に陥っていたという。
 西田社長の生い立ちとキャラクターが追い込まれた状況が産んだ悲劇なのだろうか。この異色の社長を盛り立てようと部下が頑張った、これも日本の組織では当たり前の美談だが、それが空回りしてしまったのではないかという話も聞こえてくる。結果として上司の意向に逆らえず不正に手を染めたのか、上司を盛り立てようと(上司の真意はともかく)上司の意向を汲んで阿吽の呼吸で受け入れたばかりに不正に手を染めるに至ったのか。
 デジャヴのようだ。
 戦前の日本の軍国主義の暴走と敗戦に至る悲劇を、リアリティのない「観念論」に求める議論があるが、「観念論」と呼ぶとアカデミックになって、そこにはまだ論理があるような印象を受けるが、端的に「観念論」(=論理)をも超越した「精神論」のせいだと言うべきではないだろうか。こう言うと一気に俗的になってしまうが、数年前、スポーツ界で体罰が社会問題になったのも、悪しき習慣に育まれた、スポーツ科学(論理)を超越した「精神論」のせいではなかったか。大東亜戦争でも、ちょっと戯画化すると、玉砕や特攻を産み出し、天皇陛下万歳を叫んで殉じる神国・日本として、アメリカをして恐懼させ、日本を弱体化させるために、GHQの占領政策で天皇制や神道を憎悪し、歴史観をも変えさせるに至ったのも、日本の組織に良くも悪くも巣食う、個を抑えた集団的な精神性のせいではなかったか。その戯画化した見立てが必ずしも正しいとは思わないし、日本だけに特有の組織の病とも言わない。欧米にだって同様の、あるいは別の組織の病が潜むものであろう(そして、彼らはそれを防ぐシステムを組織に組み込んでいる)。
 東芝問題の本質はまだ良く分からないが、想像力を働かせる内に、今なお同質性の高い日本の社会として、「絆」を誉めそやすのと裏腹に、組織的な弱点を抱え得るものであろうことは記憶してよいと、自戒を込めて思った次第である。そして日本のような組織では、とりわけコンプライアンスは、種々の再発防止策を立てるのはよいとして、組織の文化として深めるまでトップがしつこく声に出し、構成員が腹落ちして納得しないことには行動には表れないものであろうと思う。
コメント
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