どうでもいい話であるが、初めて老眼鏡なるものを手にするに至った。これまでは遠くのものをよりよく見るために眼鏡を使用して来たが(いわゆる近視)、今月から、近くのものをよりよく見るために老眼鏡を着用することにした。両刀使いであって、不便この上ない。
学生の頃、近視が進んだが、眼鏡を使うのはせいぜい黒板を見るときくらいで、人生の最初の20年間は殆ど裸眼で過ごしていた。しかし社会人になった以上、粗相があってはならないと、近視用の眼鏡を常用するようになった。あれから30年、最近は老眼が進んで・・・と言うことは近点(指を目の前に近づけてみて、一番近くで見えるところ)が徐々に遠くなり、とりわけ薄暗いところや電車の中で新聞や雑誌や本を読むと字がぼやけるために、目を凝らして見ようとして目の周辺が疲れたり、こみ入った漢字を判読するのに時間がかかったりと、だんだん耐え難くなってきた。会社で書類の細かい文字を読む時は、眼鏡を外せばいい。しかしパソコンの画面の場合、裸眼で近づいて見ようとして、姿勢が悪くなって肩が凝ってしまうのである。かつて新入社員の頃、大ボスから、書類の文字が小さいとお小言をよく戴いたもので、今はまさにその大ボスの心境なのだが、30年の年月は、日本の上司・部下の関係を変え、どうでもいい小言は控えることにしている(と言いつつ、昔、上司から字が小さいと言われたものだと、昔話を披露しているので、同じことか)。
もともと近視だった私が老眼になって老眼鏡をかけると、あらら不思議、30センチから1メートル位までの至近距離がよく見えるようになった。しかし副作用もあって、電車で対面に座るくらい離れた人の顔はぼやけてしまう。視力で言うと0.6位であろうか。裸眼の視力は0.1以下なので、それでも余程マシなのだが、単焦点の老眼鏡は近くの決まった距離を見るためのものであって、それより遠くを見るということは度数の強いメガネをかけるのと同じ原理になり、度が進む原因になりやすいので、してはいけないと言われる。さて、どちらをベースにすべきか。
こうして、悲しいかな、またひとつ、歳と共に人間の能力が衰える現実を突き付けられるのである。
学生の頃、近視が進んだが、眼鏡を使うのはせいぜい黒板を見るときくらいで、人生の最初の20年間は殆ど裸眼で過ごしていた。しかし社会人になった以上、粗相があってはならないと、近視用の眼鏡を常用するようになった。あれから30年、最近は老眼が進んで・・・と言うことは近点(指を目の前に近づけてみて、一番近くで見えるところ)が徐々に遠くなり、とりわけ薄暗いところや電車の中で新聞や雑誌や本を読むと字がぼやけるために、目を凝らして見ようとして目の周辺が疲れたり、こみ入った漢字を判読するのに時間がかかったりと、だんだん耐え難くなってきた。会社で書類の細かい文字を読む時は、眼鏡を外せばいい。しかしパソコンの画面の場合、裸眼で近づいて見ようとして、姿勢が悪くなって肩が凝ってしまうのである。かつて新入社員の頃、大ボスから、書類の文字が小さいとお小言をよく戴いたもので、今はまさにその大ボスの心境なのだが、30年の年月は、日本の上司・部下の関係を変え、どうでもいい小言は控えることにしている(と言いつつ、昔、上司から字が小さいと言われたものだと、昔話を披露しているので、同じことか)。
もともと近視だった私が老眼になって老眼鏡をかけると、あらら不思議、30センチから1メートル位までの至近距離がよく見えるようになった。しかし副作用もあって、電車で対面に座るくらい離れた人の顔はぼやけてしまう。視力で言うと0.6位であろうか。裸眼の視力は0.1以下なので、それでも余程マシなのだが、単焦点の老眼鏡は近くの決まった距離を見るためのものであって、それより遠くを見るということは度数の強いメガネをかけるのと同じ原理になり、度が進む原因になりやすいので、してはいけないと言われる。さて、どちらをベースにすべきか。
こうして、悲しいかな、またひとつ、歳と共に人間の能力が衰える現実を突き付けられるのである。