新年が明けました。
年頭のブログなので、我が身や我が社ひいては我が国に共通する課題・・・課題というのはその時々の関心のありようによりますので、今の思いをつらつら描いてみたいと思います。
昨年、読んだ本の中で印象に残るものの一つに「特攻の思想 大西瀧次郎伝」(草柳大蔵著)があります。1972年に刊行されたものの復刻で、BOOK OFFで見つけました。余談ですが、BOOK OFFというのは、このように興味があったことが記憶の彼方にあるような本に出会える宝探しの楽しみがあり、最近は新刊で余程興味があるもの以外はBOOK OFFに出向いて探すようになりました。
さて、平和ボケした現代の私たちには想像もつかない「特攻」では、昭和19年10月25日から敗戦の日まで、2367機が出撃し2530名もの若者が海の藻屑と消えました。あらためて、ただの思いつきではない、制度的に継続して行われていた事態に驚かされるとともに、苦々しく思いながらも、誰も止められなかった、その時代状況の異常さを思います。その「特攻」の産みの親と言われる大西瀧次郎・海軍中将は、自ら書き物を残さないまま、敗戦の翌日、自決したため、その思いは関係者の証言からしか推し量ることが出来ませんが、その本人すらも、ある時、猪口先任参謀に向かって「特攻なんてものは、こりゃ、統率の外道だよ」と呟いたと言われます。日露戦争以来の大艦巨砲主義に批判的で、艦隊決戦から航空決戦に向かう時代の流れを誰よりも早く読んでいたのは、山本五十六と大西瀧次郎というのが定説で、中でも大西中将は海軍航空隊育ての親と言われるほどの飛行機通、航空戦力の専門家でした。それでもなお源田実氏(大日本帝国海軍の航空参謀であり大佐、自衛隊では初代航空総隊司令、第三代航空幕僚長を務め、ブルーインパルスを創設)をして、大西の立場に立たされれば、山本五十六も山口多聞も同じことをやったろうし、彼ら自身が特攻機に乗って出撃したであろう、それが海軍軍人である、と言わしめました。
今は特攻とは何だったかということに余り深入りするつもりはありませんが、本書で触れている、特攻の背景をなす考え方を記しておきたいと思います。戦争末期には、航空機生産力や整備力(の標準化)やガソリンのオクタン価でもアメリカに比べて圧倒的劣位にあり、制空権を失って久しく、大半の歴戦のパイロットを失って、育てる時間が十分ではない(初期の空中戦で活躍したパイロットは2000時間以上の経験があったそうですが、最後は十分の一程度にまで減っていたそうです)練度の低い若者を戦地に赴かせても、ただなすすべもなく撃ち落されるだけの状況は、軍人として本人たちもいたたまれまい。特攻はいわば死地を与えるものだったという、若者を思う気持ちが一つ。それから、ここで若者が起たなければ日本は滅ぶ、しかし若者が国難に殉じて如何に戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びない、とする国を思う気持ちがもう一つ。
こうした考え方自体は、必ずしも理解できなくもないところが、極めて日本的な心性と言えましょうが、だからと言って特攻が正当化できるわけではありません。こうした特攻を含めて、大日本帝国軍人はよく戦いましたし、軍人以外の日本人はよく耐え忍びました。このように欧米人(などと一括りにするのは申し訳ないですが)一般に見られる以上に「頑張ること」自体は美徳には違いありませんが、誤解を恐れずに言うならば、場合によっては諦めが悪いばかりに局面打開の決断を遅らせる悪徳にもなり得るものだと思います。例えば硫黄島の戦いは、日本軍の守備兵力の戦死あるいは戦闘中の行方不明20,129名を、米軍の攻略部隊の戦死(6,821名)と戦傷(21,865名)を合わせた損害実数(28,686名)が上回るという稀に見る激戦で、日本軍の驚異的な粘りは米軍の心胆を寒からしめ、その記憶があるばかりに、本土決戦にでもなった暁には米軍側の被害は甚大なものになることを恐れて原爆投下に至ったなどというまことしやかな言い訳をされることにもなりました。
後知恵ではありますが、それぞれの立場において、日本人は「頑張り過ぎた」のではないか。これは所謂現場力の発揮ということですね。そして現場力をよしとして必ずしも自己評価が高くないのがリーダーシップで、上位にあって現場を総覧し、現場力を超越し得るはずのものですが、日本においてはなかなか育たない、そのため適切に発揮されない恨みがあります。近いところでは東日本大震災が思い出されます。秩序を保ちつつ忍耐強く働く現場力は世界中から絶賛されましたが、日本政府のリーダーシップ欠如は非難の的になりました。長くなりましたので、続きはまた別途。
年頭のブログなので、我が身や我が社ひいては我が国に共通する課題・・・課題というのはその時々の関心のありようによりますので、今の思いをつらつら描いてみたいと思います。
昨年、読んだ本の中で印象に残るものの一つに「特攻の思想 大西瀧次郎伝」(草柳大蔵著)があります。1972年に刊行されたものの復刻で、BOOK OFFで見つけました。余談ですが、BOOK OFFというのは、このように興味があったことが記憶の彼方にあるような本に出会える宝探しの楽しみがあり、最近は新刊で余程興味があるもの以外はBOOK OFFに出向いて探すようになりました。
さて、平和ボケした現代の私たちには想像もつかない「特攻」では、昭和19年10月25日から敗戦の日まで、2367機が出撃し2530名もの若者が海の藻屑と消えました。あらためて、ただの思いつきではない、制度的に継続して行われていた事態に驚かされるとともに、苦々しく思いながらも、誰も止められなかった、その時代状況の異常さを思います。その「特攻」の産みの親と言われる大西瀧次郎・海軍中将は、自ら書き物を残さないまま、敗戦の翌日、自決したため、その思いは関係者の証言からしか推し量ることが出来ませんが、その本人すらも、ある時、猪口先任参謀に向かって「特攻なんてものは、こりゃ、統率の外道だよ」と呟いたと言われます。日露戦争以来の大艦巨砲主義に批判的で、艦隊決戦から航空決戦に向かう時代の流れを誰よりも早く読んでいたのは、山本五十六と大西瀧次郎というのが定説で、中でも大西中将は海軍航空隊育ての親と言われるほどの飛行機通、航空戦力の専門家でした。それでもなお源田実氏(大日本帝国海軍の航空参謀であり大佐、自衛隊では初代航空総隊司令、第三代航空幕僚長を務め、ブルーインパルスを創設)をして、大西の立場に立たされれば、山本五十六も山口多聞も同じことをやったろうし、彼ら自身が特攻機に乗って出撃したであろう、それが海軍軍人である、と言わしめました。
今は特攻とは何だったかということに余り深入りするつもりはありませんが、本書で触れている、特攻の背景をなす考え方を記しておきたいと思います。戦争末期には、航空機生産力や整備力(の標準化)やガソリンのオクタン価でもアメリカに比べて圧倒的劣位にあり、制空権を失って久しく、大半の歴戦のパイロットを失って、育てる時間が十分ではない(初期の空中戦で活躍したパイロットは2000時間以上の経験があったそうですが、最後は十分の一程度にまで減っていたそうです)練度の低い若者を戦地に赴かせても、ただなすすべもなく撃ち落されるだけの状況は、軍人として本人たちもいたたまれまい。特攻はいわば死地を与えるものだったという、若者を思う気持ちが一つ。それから、ここで若者が起たなければ日本は滅ぶ、しかし若者が国難に殉じて如何に戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びない、とする国を思う気持ちがもう一つ。
こうした考え方自体は、必ずしも理解できなくもないところが、極めて日本的な心性と言えましょうが、だからと言って特攻が正当化できるわけではありません。こうした特攻を含めて、大日本帝国軍人はよく戦いましたし、軍人以外の日本人はよく耐え忍びました。このように欧米人(などと一括りにするのは申し訳ないですが)一般に見られる以上に「頑張ること」自体は美徳には違いありませんが、誤解を恐れずに言うならば、場合によっては諦めが悪いばかりに局面打開の決断を遅らせる悪徳にもなり得るものだと思います。例えば硫黄島の戦いは、日本軍の守備兵力の戦死あるいは戦闘中の行方不明20,129名を、米軍の攻略部隊の戦死(6,821名)と戦傷(21,865名)を合わせた損害実数(28,686名)が上回るという稀に見る激戦で、日本軍の驚異的な粘りは米軍の心胆を寒からしめ、その記憶があるばかりに、本土決戦にでもなった暁には米軍側の被害は甚大なものになることを恐れて原爆投下に至ったなどというまことしやかな言い訳をされることにもなりました。
後知恵ではありますが、それぞれの立場において、日本人は「頑張り過ぎた」のではないか。これは所謂現場力の発揮ということですね。そして現場力をよしとして必ずしも自己評価が高くないのがリーダーシップで、上位にあって現場を総覧し、現場力を超越し得るはずのものですが、日本においてはなかなか育たない、そのため適切に発揮されない恨みがあります。近いところでは東日本大震災が思い出されます。秩序を保ちつつ忍耐強く働く現場力は世界中から絶賛されましたが、日本政府のリーダーシップ欠如は非難の的になりました。長くなりましたので、続きはまた別途。