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風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

甲子園球場100年

2024-08-24 00:09:50 | スポーツ・芸能好き

 第106回全国高校野球選手権大会、夏の甲子園は、夏のオリンピックと同様、17日間の熱戦の末、京都国際が初優勝を飾って幕を閉じた。京都代表の優勝は、1956年の平安高校(当時)以来、実に68年振りだった。

 夏のオリンピックは100年振りにパリで開催されたが、その前回パリ大会の年に開場した甲子園球場が100歳になったのを記念して、この夏の大会の始球式に江川卓氏が登場した。「阪神甲子園球場開場100年の節目に際し、球場の歴史の中でも鮮烈な印象を残した選手として、始球式をお願いした」(場内アナウンスによる)ということだ。

 確かに江川(当時を振り返るときは慣例により商標として呼び捨てにさせて頂く)の印象は鮮烈だった。1973年、彼が高三になる春と夏、私は草野球に興じて甲子園を夢見る小学生で、彼の試合をテレビにかじりついて、見た。とりわけ記憶に残るのは、夏の二回戦、強豪・銚子商を相手に0-0で迎えた延長12回裏、一死満塁、フルカウントの場面だ。どしゃ降りの雨の中で投じた渾身の一球は、この日の169球目、高めに大きく外れた。実は一回戦も延長15回にもつれ込んだので、二試合目ながら実質三試合目に相当し、疲れもあったと思われる。本人曰く「ボールにはなりましたが、高校3年間のなかで最も悔いのない、最高のボールでした」。押し出しという不本意な形でサヨナラ負けを喫したのに、サバサバとした表情で甲子園を去って行く後姿を、見ているこちら側が諦め切れない思いで未練たらたら呆然と眺めていたのを、つい昨日のことのように思い出す。この日を含めて、彼の野球人生は運命の女神に翻弄された劇的なもので、彼の性格を独特なものに形作ったように思われるが、それについてはまた稿をあらためたい。

 このように表向きはあっけない幕切れだったが、水面下ではちょっと劇的なことが進行していたことが後で明らかになる。チーム事情は良くなかったらしい。一つには、春から夏にかけて基礎練習ができず、徹底的に鍛えることができないまま、あの夏を迎えていたこと。春のセンバツで、栃木の"怪物"がテレビで全国にお目見えし、4試合で60個の三振を奪って大会記録を塗り替えるなど、噂に違わぬ活躍で注目を浴びたものだから、その後、全国から招待試合に呼ばれ、週末、遠征に出ると、月曜日の授業に間に合わせるために夜行列車で栃木に戻るというようなこともあったという。もう一つには、江川を巡って報道が加熱し、チームメイトは取材攻勢に晒される江川と距離を置き、仲間を気遣う江川は孤立するなど、チーム内がぎくしゃくするようになっていたこと。夏の予選の栃木大会のチーム打率は2割4厘で、「打っても評価されないから、みんなおかしくなっていった」(捕手の小倉氏談)。最後のあの場面で、マウンドに集めたチームメイトに、江川は「真っすぐを力いっぱい投げていいか」と尋ねた。江川がこんな頼りなさそうな顔を見せたのは初めてだったという。「お前の好きなボールを投げろ。お前がいたから、おれたちここまで来られたんだろ」と答えたのは、反・江川の急先鋒と言われていた一塁手の鈴木だった。「あの瞬間、勝とうというよりも、全員がこの野球を最後までやろうという気持ちだった。それまではいがみ合いとか、いろいろあった。最後の1球でチームがまとまったというのはその通りかもしれない」(前述の小倉氏談)。

 あれから51年、投球フォームこそ当時を彷彿とさせるとメディアはゴマをすったが、ふっくらとおじさん体形で投じた始球式の球はワンバウンドでキャッチャーミットにおさまり、まるでカーブのような山なりの球は「全力のストレート」と本人も苦笑いし、「甲子園は春と夏にだけ現れる"幻の場所"。プロ野球で投げるのとは全く違う感覚です。歴史のある大会で投げられたことに感謝です」と感慨深げに語った。

 前置きが長くなった。今日のブログは甲子園球場が主役だから、その100年の歩みを足早に振り返る。

 100年前の1924年8月1日に竣工式が行われ、当時、甲子園大運動場と命名され、同年8月13日に初めての選手権大会として、第10回全国中等学校優勝野球大会が開催された。1928〜29年にかけて芝生の張り付けが行われ、同年、アルプス・スタンドが建設され、1934年に外野中央にスコアボードが完成し、現在の姿に近くなる。戦時中はその鉄傘が供出させられ、戦後は球場自体が米軍に接収されたが、1947年3月にセンバツが復活し、同年夏の大会も復活して、現在に至る。

 そんな長い甲子園の歴史で、今年の京都国際の優勝は、ある意味で画期をなすものだった。同校の前身は在日韓国人向け民族学校で、2004年度から日本人にも門戸が開かれ、在校生138名中、男子生徒70名、その内61名が野球部員で、この夏にベンチ入りしていた韓国籍の者一名以外は日本人だったそうだが、校歌は韓国語で、その中には「東海」の言葉が出てくる。勝利して慣例により校歌が流れ、日本の公共放送NHKは、自国の領海を他国の基準に従って歌う場面を生中継した。韓国語の音は分からなくても、NHKは「日本語訳は学校から提出されたものです」とお断りのテロップを表示した上で、日本語字幕に「東の海」という言葉を流した。さすがにSNS上では誹謗中傷が相次いだようだが、別のシチュエーションであったなら、あるいは仮に逆のことが韓国で起こっていたなら、もっと大変な騒ぎになっていただろう。彼らにとっても甲子園は"幻の場所"なのであり、それを奪うことは出来ない。

 私にとっても・・・小学生の頃、クラスメイトと作った即席の草野球チームは、コーチを互選する民主的な運営の手作りチームながら、個性派のツワモノ揃いで、リトルリーグのチームを相手に連戦連勝する"幻の"強豪だった(笑)。私は守備コーチ兼任で、長嶋さんに憧れてホットコーナーの三塁を守り、自称「鉄壁の三遊間」を誇るとともに(笑)、後に江川さんに憧れて投手もやった。私には甲子園の舞台は遥かに遠く、自ら甲子園に出られる年齢を過ぎると、不思議なもので自分事としての関心が薄れて、まるで"幻"の如く遠い存在となったが、夢見る野球少年や選ばれた球児たちの夢を叶える場所として甲子園球場はそこにあり、これからもずっと"幻の場所"であり続けるのだ。

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アラン・ドロン死す

2024-08-20 00:01:02 | スポーツ・芸能好き

 フランス映画を代表する世紀の二枚目スター、アラン・ドロン氏が亡くなった。享年88。

 今は映画と言えばハリウッドだが、かつてはアンニュイな雰囲気を醸し出すフランス映画も人気があった。中学生になって突然、洋画に目覚めた私は、なけなしの小遣いをはたいて「スクリーン」なる月刊誌を毎月購入し、憧れの銀幕の大スターのリラックスしたプライベート映像をうっとりと眺めては溜め息をついたものだ。あの年頃にとっては永遠のヒーロー、ヒロインだから、いざ訃報に接すると、それだけの時間が経過していることを忘れて、ぎゅっと胸が締め付けられるような喪失感を覚える。あの頃の感性が蘇り、そうさせるのだろう。

 とりわけアラン・ドロンは(と、商標として、愛情を込めて呼び捨てにさせて頂く)ただの二枚目俳優ではない。透き通るようなブルーの瞳は、その決して幸せではなかった生い立ちの影を纏い、哀しみと危険な憂いをたたえて、男なのに色気があって美しいと思わせる唯一無二の男優だった。ルネ・クレマン監督の代表作「太陽がいっぱい」(1960年)では、殺害した金持ちの友人になりすまし、財産と女を手に入れる貧しい孤独な青年を好演した。イタリアの浜辺で太陽をいっぱいに浴びて完全犯罪に酔いしれて一息つくラストシーンは、ニーノ・ロータの甘美なメロディとともに、映画史上に残る名場面であろう。また、「地下室のメロディー」(1963年)ではジャン・ギャバンと、「ボルサリーノ」(70年)てはジャンポール・ベルモンドと、そして「さらば友よ」(1968年)では私の好きなチャールズ・ブロンソンと共演した。

 私生活でも、危ない影が付き纏った。1968年、ボディーガードだった男性が他殺体で見つかり、フランス政界を巻き込むスキャンダルに発展した。今年2月には、彼の自宅から無許可で所持していた大量の銃が押収され、話題となった。晩年、同居していたヒロミという日本人女性を巡って、彼へのモラル・ハラスメントなどがあったとして“お家騒動”が勃発した。そして多くの女性と浮名を流したが、中でも1964年、私の大好きなパリジェンヌ、「個人教授」(1968年)のナタリー・バルテルミー (本名フランシーヌ・カノヴァ 、後のナタリー・ドロン、実際にはイタリア=スペイン系のフランス人で、仏領モロッコ出身)と結婚し、その後、破局を迎えた。二人は子供時代が不遇で似ており、強く惹かれあったと言われる。

 映画館でリアルタイムで鑑賞したわけではなかったが、辛うじて、テレビの●曜ロードショーで見かけるほどには、すれ違った。私の人生で、洋画なるもの、フランス人なるものの深い印象を残してくれたことに感謝したい。合掌。

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オリンピックに見るフランスらしさ

2024-08-13 20:52:13 | スポーツ・芸能好き

 オリンピックが17日間の熱戦を終えて閉幕した。人間の肉体の限界に挑み、勝って涙、負けて涙の選手たちの躍動にもらい泣きした単純な私は、目も鼻もずぶずぶになりながら、せせこましい日常で濁った魂が多少なりとも浄化されたかのような爽快感を覚えたものだ。しかし終わった今となっては、まだ暑い日が続くというのに、心に秋風が吹き抜けるかのような一抹の寂しさを覚える。メダル獲得の有無にかかわらず、選ばれて参加された選手の皆さんに感謝の気持ちがあるのみである。

 今回は、100年ぶりにフランス・パリでの開催となった。「史上最もサステナブルな大会」を謳い、温室効果ガス排出量を従来の大会から半減させる意欲的な目標を掲げた。なるべく既存の施設を使うなど、理念には大いに賛同するが、あのセーヌ川でトライアスロンを実施するとは思わなかったし、100年前のパリ五輪で初めて導入されたという選手村システムに皺寄せが行き、選手には頗る評判がよろしくなかったようだ。まず、食事は植物由来のものが多く、まるでビーガン食のようだと話題になった。地産地消にこだわり、卵、肉、牛乳はすべてフランス産というのは理解するが、動物性たんぱく質を摂れる食品、端的に肉が少なく、これじゃあ元気が出ないと、栄養バランスに悩む選手が多かったようだ。また、部屋にエアコンが設置されていないことも話題になった。涼を取る手段は一台の扇風機と地下水を利用した床下冷房のみで、大会期間中のパリは朝こそ涼しいものの、日中は30度を超える日が多く、エアコン慣れした先進国の選手にはさぞ凌ぎ辛かったことだろう。簡易なエアコンを設置した国もあったらしい。

 高い理念を掲げ、誇り高く行動するフランスらしいと私は思う。

 かつてフランス革命を、ドーバー海峡を挟んだ対岸から眺めていた、保守主義の父エドマンド・バークは、急進主義の危うさに警鐘を鳴らした。それはイギリス経験主義と対比的に語られる大陸合理主義の哲学の祖デカルトを生んだフランスで、論理に溺れ熱狂する人々の危うさでもある。今般のオリンピックに無理矢理、結びつける必然性はないのだが、再生可能エネルギーへの傾斜が、ロシアのウクライナ侵攻で冷や水を浴びせられたように、過ぎたるは及ばざるが如し、理想と現実と、どちらか一方に偏るのは危険で、バランスが大事だと思っているに過ぎない。

 いや、そんな邪推より、単に他国の選手の体調を崩す遠謀深慮だったかもしれないと言った方が、此度のオリンピックでは説得力があるかもしれない(笑)

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オリンピックのスポーツと「道」の間

2024-08-04 05:53:41 | スポーツ・芸能好き

 柔道混合団体・決勝で、前回・東京大会で銀メダリストの日本は金メダリストのフランスと再戦し、3-4で敗れて、二大会連続の銀メダルに終わった。

 柔よく剛を制すとはよく言ったもので、第二試合では髙山莉加が一階級差、第四試合では角田夏実が二階級差をものともせずに勝利し、3-1まで追い詰めたが、続く第五試合では阿部一二三が一階級上のメダリストに敗れるなど、3-3でゴールデンスコアによる代表戦にもつれ込み、ネットでは仕込みがあったのではないかと騒がれたデジタル・ルーレットの抽選でよりによって90キロ超級が選ばれ、本戦に続き斉藤立がリネールと再戦し、6分26秒の死闘の末に地元フランスの英雄に屈し、リベンジはならなかった。

 この大会では(でも、と言うべきだろう)、男子60キロ級準々決勝の永山竜樹や、男子73キロ級準々決勝の橋本壮市など、不可解な判定が続出し、SNS上では“誤審ピック”なる言葉も出て来た。日本人ばかりでなく、イタリア柔道連盟は、母国代表選手らが受けた判定を不服として国際柔道連盟に正式抗議した。人間のなすことだから完璧ではないが、審判は絶対である以上、選手たちの真摯な戦いに応えるために厳正であって欲しい。

 他方、男子90kg級決勝の村尾三四郎のように、ルールはルールとは言え、微妙な判定には不満が残った。男子100キロ超級準々決勝のリネール対ツシシビリ戦では乱闘寸前の騒ぎになり、男子81kg級の表彰台では金メダリスト永瀬貴規を押しのける形で銅メダリストが前に出て目立つなど、柔道「らしからぬ」態度が物議を醸した。私たち日本人は、どうしても柔道は武道との思いが抜けきらないし、戦う選手たちも、ポイント狙いの柔道を嫌ってリスクを負ってでも一本を取るために組み合うことが多いと言われる。翻って、日本の大相撲は様式美を尊ぶ伝統芸能であって、格闘技と勘違いして横綱らしさに欠けた朝青龍や白鵬を批判するのは正当だと思うが、柔の道がスポーツの祭典オリンピックの競技種目に採用された以上は、判定や柔道着に関するルールにしても、それに臨む選手の態度にしても、「道」から外れてスポーツ「らしく」なることに、文句は言えない。

 それでもなおスポーツの国際舞台でも「道」を極めようとする日本人柔道家は、言ってみれば勝手なのだが、私はそれを美しいと思うし、本家本元の日本としては、それでも良いと思うし、それでも勝つ彼ら・彼女らを誇らしく思う。

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オリンピックに棲む魔物

2024-07-31 00:49:46 | スポーツ・芸能好き

 勝負の世界には魔物が棲む。勝利は間違いないと確信したところに思いもよらない陥穽が待ち受け、あるいはその逆に諦めかけたところにどんでん返しが起こり、筋書きのないドラマが生まれる。オリンピックのような四年に一度の(今回は三年しか経っていないが)晴れ舞台では、選手たちの思い入れが強く、抱えているものも重いだけに、神様の采配は気紛れに映る。

 27日の男子バレーボールで、日本はドイツ相手に勝利まであと一歩というところで勝ち切れなかった。続く卓球では、国際大会で優勝を重ね、第二シードで金メダルも期待された“はりひな”ペアが、初戦で北朝鮮ペアに完敗した。

 そうかと思えば、土壇場で勝負強さを発揮することもある。スケートボード男子ストリートの堀米雄斗は、ベストトリックの最終5本目で大技を決め、メダル圏外からトップに浮上し、見事に連覇した。体操男子団体総合では、最後の種目・鉄棒を残してトップの中国に「3.267」もの差を広げられながら、中国の選手が二度落下するようなあり得ないミスに助けられ、奇跡的な逆転優勝をもぎ取り、僅か「0.103」の差で金メダルを逃した前回・東京オリンピックの雪辱を果たした。

 私にとって、魔物が牙を剥いた最たるものは、柔道女子52キロ級の阿部詩だったかもしれない。二回戦の残り56秒、一瞬の隙を付かれて谷落としをかけられ、まさかの一本負けを喫した。東京五輪金メダル獲得以降、負けなしのまま、兄妹同日連覇の夢を懸けて臨んだパリ五輪だった。昨秋に腰痛を発症し、10月に予定していた国際大会出場を取り止めても、年明け二大会を挟めばシード獲得は確実だったが、シードに入るよりも自分のコンディション調整を優先して自重し、2回戦では世界ランク一位に当たって、そこで敗れたために敗者復活にも引っ掛からなかった。

 立ち上がれなくなるほど、赤ん坊のように「ギャン泣き」したことが物議を醸した。一本勝ちにも喜ばなかった相手選手に失礼だとか、次の試合開始が遅れて運営側から早く退場するよう促されたと批判され、東国原英夫氏は「武道家として如何なものか」と苦言を呈した。普通ならばその通りだろう。ケガなどの特別なことから小さいことまで凡ゆることを、三年またはそれ以上の年月にわたり、この日のために調整して来たのだ。抱えて来たもの、背負ってきたものの重さを、私たちは知らない。出来れば、彼女のいつもの満面の笑顔を見たかった。

 国別対抗など今さら古いと、わけ知り顔に言うリベラル系の人がいる。しかしウクライナや中東で、はたまたコロナ禍で、国家の存在感が増しているのが現実である。国家間の確執をしばしスポーツの勝負に昇華し、国家間の壁を超越したところでスポーツが持つ普遍的な感動を分かち合うことにこそ意味があるように思う。

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永遠の峰不二子

2024-06-04 21:05:13 | スポーツ・芸能好き

 テレビアニメ「ルパン三世」Part 2から峰不二子役を務めてこられた声優の増山江威子さんが5月20日に亡くなっていたことが分かった。享年89。

 年齢とともに声も老化するものだが、増山さんは驚く勿れ70代になっても、ときに甘えすかしてそそのかし、ときに冷たくあしらいながら、狙った獲物は逃がさない、世界を股にかける大泥棒・ルパン三世を自在に操る魔性の女・峰不二子の艶やかな声を保っておられた。プロの矜持である。

 早くも1960年代から声優として活動されたが、当時は声優という職種が世間に認知されておらず、舞台俳優の副業扱いでしかなかったそうだ。峰不二子役以外にも、「天才バカボン」のママ役や「キューティーハニー」の如月ハニー役に「パーマン」のパー子役など多彩な役柄をこなし、私たちアニメ全盛の世代にとって、今更のように存在感の大きさを思う。

 こうして私が一番好きなアニメ「ルパン三世」で私が馴染みがあるルパン・ファミリーは皆さん鬼籍に入ってしまわれた。ルパン(山田康雄さん、1995年没)、銭形警部(納谷悟朗さん、2013年没)、石川五エ門(井上真樹夫さん、2019年没)、次元大介(小林清志さん、2022年没)・・・私もそういう年齢なのかと、感慨深い。

 峰不二子というアニメ上の強烈なキャラに(文字通りに)命を吹き込み、一人の女性像を打ち立てて、限りない夢を与えて下さった感謝の気持ちを込めて、合掌。

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ONがいた時代から今

2024-05-29 01:24:00 | スポーツ・芸能好き

 今年は読売巨人軍創設90周年の節目で、3日の「長嶋茂雄DAY」に続き、今日のソフトバンクとの交流戦は「王貞治DAY」と銘打ってセレモニーが行われた。

 かつて全国的にテレビ放映された巨人は、子供たちに全国的な人気があり、「巨人・大鵬・卵焼き」という御三家の一角を占めた。私がその言葉を知ったのは後年のことだが、大鵬が32度目の優勝を飾ったときの新聞の切り抜きを大事にとっていたし、大阪に住んでいたが巨人ファンだった。と言うと不思議がられるが、巨人の人気は全国区だったのだ。小学生の頃、クラスメイトと草野球チームを作って、週休一日の当時の大事な日曜日も毎週、練習に明け暮れて、リトルリーグ相手に連戦連勝を誇ったものだが、メンバーは巨人ファンと阪神ファンに二分されていた。当時の大阪はそんな感じだった。そして毎朝、卵焼きを食べさせられて、食傷気味だった。

 長嶋さんの引退試合はリアルタイムで見たし、その少し前に、阪神・村山実さんの引退試合を甲子園まで見に行って、マイクロバスで引き揚げるONを間近に見て感動したのが忘れられないが、年齢的には長嶋さんより王さんに馴染みがあった。

 その巨人の第28代4番を務めた王さんが、第89代4番を務める岡本和真について、「素晴らしいですよ、ジャイアンツの4番で6年連続30本以上打つっていうのは。今の野球は僕らの時のものより複雑になっているし、難しいですよ、この時代に打つのは」「ホームランバッターとしての資質というかそういうのもあるし、気持ちも前に向かっている。あとは結果をもっと追い求めてほしいですね。『ホームラン王を絶対取るんだ』って気持ちで、『負けないんだ』っていう気持ちでね。そうすると、自分を追い込んでいってもっと練習もやるし、もっと緻密に考えられるようになる」などと語ったそうだ。確かに、ムーミンのようにおっとり(ぼんやり?)しているように見えて、ガツガツしない大物振りは大好きだが、記録への秘めたる執念は足りないように見える。

 先日、江川さんの完投型ピッチングについてブログに書いたように、5回か6回投げれば先発の役目を果たしたことになる分業制の今と当時とは単純に比べられない。それでも王さんは同時代で傑出していて、4年目から19年連続で30本以上を放って、圧倒的だった。国内だけでなく日米野球でも、1970年のジャイアンツ戦では1試合2ホーマーを放った後は敬遠されたし、74年に来日したメッツにはハンク・アーロンがいて、王さんとの本塁打競争を10-9で制した後に、「サダハル・オーはメジャーでも十分通用する」と絶賛したものだった。まだ貧しくて娯楽が乏しかったあの当時、などステレオタイプな言い草だが、圧倒的なヒーローがいて、手が届かないにしても、未来への限りない夢があった。

 翻って、現在の4番・岡本は、その前後を打つ3・5番が丸や坂本ではないことが多く、軽量級のため際どく攻められやすいのは気の毒だし、そうなると精神的な負担も大きいだろうし、実際に見えないところでは苦悩を爆発させているとも聞く。期待が大きいだけに物足りない。あの頃は、長嶋さんだけでなく、高田さんや土井さんや黒江さんや柴田さんもいて、堀内さんの200勝に典型的に見られるように、メンバーが揃った強いチームでは記録が出やすいのは事実だ。今やピッチャーはいつも全力で立ち向かって来る。それでも未来を夢見る子供たちがいて、その一球一球の勝負を息を凝らして見守っているのだ。その重責を、岡本には軽々と果たして欲しいものだと思う。

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追悼・浪花のモーツァルト

2024-05-17 00:16:27 | スポーツ・芸能好き

 キダ・タローさんがそのように呼ばれていたとは存じ上げなかった。そう名付けられたのは、最高顧問と持ち上げられていた関西の深夜番組「探偵!ナイトスクープ」でのことで、番組出演は1989年以降というから、確かに私が大阪を離れてからのことになる。大阪では知らない人はいない、テレビ番組のテーマ曲やCMソングを数多く手掛けられた作曲家で、ご本人も分からないというその数は5千曲にのぼると言われる。「プロポーズ大作戦」や「ラブアタック!」「ABCヤングリクエスト」などの軽快で親しみやすいテーマ曲や「かに道楽」「551蓬莱」「日清出前一丁」などの瞬間的なノリの良さでは天才的なCMソングは今も耳に残る。そんなキダ・タローさんが一昨日に亡くなった。享年93。

 私が、と言うよりもむしろ、今は亡き母が、パート勤めをしていた事務所が勤務時間中でもラジオを流しっ放しという奔放な、と言うべきか、さばけた環境で、キダさんの番組(フレッシュ9時半!キダタローです)でリクエスト葉書が読まれたと言ってはよく自慢していたのを思い出す。

 丁寧な関西弁で毒舌を吐くとも評されて、関西人にありがちの、どこまでが本気でどこからが冗談なのか分からない、人を食ったような、いつもユーモアと笑いに溢れた楽しい方だった。

 近親者のみで行われた葬儀にも参列したほど親しい仲の円広志さんが、かつて人間関係で悩んだときに長い文章を書いて相談したら、一言、「あまり人に近づかんこっちゃ」と返して来られたらしい。無類の人好きには違いないけれども、その陰にはキダさんなりのご苦労もあったであろうペーソスを感じさせ、回りくどくない簡潔な一言にこそ込められた優しさには、思わずホロリとさせられる。

 不思議な存在感のあるお人柄を忍びつつ、合掌。

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たかが野球、されど野球

2024-05-05 18:12:26 | スポーツ・芸能好き

 連休初日の5月3日は、読売ジャイアンツの球団創設90周年記念特別試合「長嶋茂雄DAY」で、長嶋さんが降臨された効果か、今季の巨人には珍しく打線が繋がって、阪神との伝統の第一戦を8―5で勝利した。岡本和真に久しぶりの一発が出たのは、まさにミスター効果だろうか。坂本勇人は186度目の猛打賞で、ここぞとばかりにミスターに並ぶセリーグ・タイを記録したのはさすがだった。

 昨日の第二戦も、菅野智之が前夜にぎっくり腰になったらしいのをものともせず、7回1失点と粘って、延長10回に吉川尚輝のタイムリーを呼び込んで連勝した。今日の第三戦は、さすがに阪神を相手に3タテにはならず、しかし岡本和真が初日の一発だけで3連戦11打数1安打と抑え込まれたことには期待を込めて喝を入れたい。瞬間風速で4割を超えたのも束の間、その後はなかなかエンジンが点火せず低迷している。

 ところでこの連休は特に出掛けることもなく、ひょんなことから、江川卓さんのYouTube動画「たかされ」をまとめて楽しむ仕儀となった。江川と言えば、空白の一日のことを大学のローマ法の教授が擁護したことがつい昨日のことのように懐かしく思い出されるが、長嶋さんや王さんがいたV9の黄金時代に続き、その残り火のように江川・西本が競い合った準・黄金時代は、かれこれ40年前のことになる。1984年の日本シリーズで江夏さんを超える10連続⁉︎奪三振を狙った(9人目の大石を三振・パスボールで振り逃げにしようとして、結局バットに当てられて、8連続でストップした)とか、掛布雅之との間では(二人の対決を楽しみにしているファンのために)初球は絶対に振ら(せ)なかったとか、今だからこそ話せる裏話が面白い。一発病とか手抜きなどとマスコミから叩かれたが、当時は完投を当然のように狙って、打者の目が慣れる3〜4巡目となる7〜9回に再びギアを上げるために加減していたもので、広島の高橋慶彦さんは、衣笠さんや山本浩二さんに対するときと球威がまるで違ったと証言される。ある時、1アウト1塁にランナーを背負ったときの攻め方をコーチから聞かれて、インハイで三振と答えて一喝された江川に対して、シュートで詰まらせてゲッツーと答えた西本が褒められたのは、二人の良い対照だが、江川は後からコーチに、お前はそれでいいと言われたのは彼の面目であろう。ボール球など無駄だから投げたくないと公言し、ストライクゾーンに投げ込んで空振り三振(バットはボールの下で空を切る)に仕留めることに無上の喜びを見出した。それほどに、ふわっと浮くような真っ直ぐだと形容されたのは、決して重力に逆らっていたわけではなく、威力があるから他の投手のように落ちなかっただけのことで、直球とカーブだけでコーナーに投げ分けて抑える投球術は圧巻だった。渾身の球を打たれたとしても、それは打者の技術が上回っただけのことで悔しくない、などと飄々と言ってのけるなど、よほど自信がなければ出来ることではない。

 思えば、長嶋X村山、王X江夏、そして江川X掛布など、チームプレイの野球にあっても、手に汗握る宿命の対決があったものだが、今は(例えば岡本和真と誰かの対決など)俄かに思い浮かばない。投手は分業制で、先発して6回3点に抑えればクォリティ・スタートと言われる今は、球が飛びにくいだけではなく、ほぼ全力投球の投高打低で、抑揚や加減などあったものではない。今となっては長閑な時代だったと言うべきか、効率一辺倒ではないドラマが懐かしいと思うのは、年寄りの戯言に過ぎないのだろう。

 

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昨日のオオタニさん

2024-04-06 01:55:50 | スポーツ・芸能好き

 現地時間4月3日に地元ドジャー・スタジアムで行われたサンフランシスコ・ジャイアンツ戦7回に、ようやく待望の移籍後第一号ホームランが飛び出した。大谷らしい、打ってすぐにホームランと分かる、伸びのある打球だった。前回ブログでは、気持ちの切り替えはさすが、な〜んて褒めていたのだが、結局、開幕後8試合37打席ノーアーチで、この日の第四打席目、通算41打席目はメジャー移籍後の自己ワーストだった。

 新天地デビューという晴れの舞台で、ただでさえ緊張もするだろう。一平さんの違法賭博疑惑で気を揉んだ上、いつも影のように付き添ってくれていた彼がいないという勝手の違いにも戸惑いがあるだろう。そもそも右肘手術の後で、全く影響がないのかどうかも気にかかる。

 この記念球は、キャッチしたドジャース・ファンが、大谷のサイン入り帽子二つとバットとボールと引き換えに、戻してくれたそうだ(大谷と対面出来なかったと言って揉めているようだが)。鑑定士によれば実に10万ドルの価値があるのだそうで、サイン入り帽子やバットやボールはせいぜいそれぞれ千ドルだとか、大谷が放ったファール・ボールでさえ1万5千ドルで販売されているとか、記念球一つとっても話題になる。

 春先は距離感がなかなか合わないという、大谷にとってはいつもの問題に過ぎないという声もあるが、さて、これで大谷は"本当に"気持ちを切り替えられただろうか。朝、スポーツ・ニュースで大谷の活躍を確認して、その日の気分が良くもなれば悪くもなるというファンは、私も含めて一体何人いることだろう。いやはや、もはや有名税とは言え、大谷の一挙手一投足が人騒がせで、静かに野球を楽しみたい輩には、痛し痒し、ではある。

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