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風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

政治とスポーツ

2021-12-11 11:52:14 | 時事放談
 巷では、来年2月に行われる北京オリンピックを、日本政府が外交ボイコットするかどうかが注目されている。
 既にアメリカに続いて、イギリス、カナダ、オーストラリアが、中国政府の(ウイグル、香港、女子テニス選手に係わる)人権問題を理由に外交的ボイコットに踏み切ることを表明した。ニュージーランドはパンデミックを主な理由に、政府関係者の派遣を見送ることを表明した。ここまではファイブ・アイズで、大陸ヨーロッパの動向が注目されるところ、先ずは2024年にパリ夏季オリンピックを控えるフランスは、外交的ボイコットのような対応は「効果が小さく、象徴的でしかない」と言い訳して一線を画し、2026年に次の冬季オリンピックを控えるイタリアはあっさりボイコットする予定はないと言った。いつもの興味深い地政学的色分けである。一方の中国は、人権侵害は事実ではないとして「根拠のない言い掛かり」に反発し、「スポーツの政治問題化」だと非難し、「間違った行動の代償を払うことになる」と報復を示唆して牽制する。これもまた判で押したような戦狼外交的反応で、オリンピックを成功裏に開催して(中国人民に対して)威信を示し、習近平氏三期目の足掛かりにしようと、むしろ自分たちこそが政治利用を企む中国だからこそ、口をついて出る言葉だろう。
 今朝の読売新聞オンラインなどの一部メディアは、日本政府の動向について、「閣僚など政府高官の派遣を見送る(東京オリパラ大会組織委員会の橋本聖子会長らの出席にとどめる)方向で調整に入った」と伝えた。人権重視の姿勢を示す岸田首相は、米中緊張下で、日本は尖閣問題を抱えて、来年の早い段階での訪米を検討中で、民主主義サミットがあったばかりで、アメリカなどと足並みを揃えないわけにはいかないだろう。東大の阿古智子教授は外交的ボイコットについて「日本が欧米に追随する必要はない。独自の考え方で政策を出していくべきだ」と言われたということは、反対なのかも知れないが、いずれにも理はあるにせよ、独自の判断で足並みを揃えればいい。さっさと表明すればいいのに、ぐずぐず頃合いを見計らっているものだから、来年、日中国交正常化50周年を控える重要な隣国の中国から、「中国が東京オリンピックを全力で支持したのだから、今度は日本が信義を示す番だ」などと情に訴えるレトリック(そのどこが全力で支持したのか不明だが 笑)で牽制される隙を与える始末となる。外交的に難しい判断だと思うが、第二次冷戦とまで言われる厳しい環境下で戦略正面にあたる日本は、かつての全方位外交の呪縛を逃れて是々非々で意思表示するドライな関係に持っていく方がよいのではないかと思う。
 振返れば、米ソ冷戦たけなわのモスクワ五輪(1980年)で、旧・ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、西側諸国は選手団を派遣しない全面ボイコットを実施した。
 折しも、先週・日曜日に開催された福岡国際マラソンは、今回を限りに幕を閉じたが、その長い歴史の中で、1979年大会はモスクワ五輪代表選考を兼ねた、特別に記憶に残る大会だった。私は子供の頃から何故かマラソンに惹かれ、小・中学生の分際で君原健二さんや宇佐美彰朗さんの自伝をむさぼり読むような酔狂ぶりで、彼らに続く瀬古利彦さんをテレビにかじりついて応援したものだ。その瀬古さんが、最も印象に残る大会としてこの1979年大会を挙げたのは当然であろう。私も今でもありありと思い出すが、マラソンでは異例とも言えるほどの、ゴールの競技場までもつれ込む宗兄弟とのデッドヒートは、語り草となっている。当時の瀬古さんは圧倒的な強さを誇り、金メダルは間違いなかったと思うが、ボイコットで泡と消えた。既に峠を過ぎた次のロサンゼルス五輪でもメダルの可能性がないわけではなかったが、モスクワの雪辱への思いが強過ぎたばかりに、無理を重ねて自滅した。柔道の山下泰裕さんも一つ年下の言わば同じボイコット世代で、同じような悔しさを味わったが、ロス五輪では劇的な金メダルを獲得したから、五輪ボイコットの悲劇のヒーローの第一は瀬古さんということになる。
 五輪の全面ボイコットなど、政治利用の最たるもので、まだ刺々しい時代のことではある。スポーツはおろか経済にしても、最近喧しい経済安全保障を引くまでもなく、「神の見えざる手」を唱えたアダム・スミスですら経済より安全(保障、つまり政治)が優先すると説いたほどの、生々しいホンネの世界だ。その後、人類は本当に賢明になったのかどうか分からないが、表面上は、まがりなりにも(クラウゼヴィッツが政治の延長と言った)戦争すら違法化の歴史を重ね、その先に現れた最近の優しい時代のポリティカル・コレクトネスの装いは、ここでも影響しているようだ。外交的ボイコットは象徴的な意味合いしかない妥協の産物だが、間違いなく一つの知恵である。再び米中の第二次冷戦とも言われる刺々しい時代に入り、それでも良い時代になったと、瀬古さんが一番感じていることだろう。
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チグハグな中国

2021-12-08 00:12:31 | 時事放談
 アメリカが北京五輪を外交ボイコットすることを発表した。東京五輪では次回開催国フランスを別にして首脳級の参加が近年では最少(15人程?)と言われていたことを思えば、このパンデミックのご時世に首脳級が参加しないこと自体は大した問題ではないはずだが、わざわざボイコットを発表するのは、中国のメンツを潰すことになる。かねて中国は報復を示唆して牽制してきたが、アメリカには効かなかった。在米中国大使館の報道官は「この人たちが来るかどうかは誰も気にしないし、北京冬季五輪の成功には全く影響しない」と強がり、環球時報は「正直なところ、中国人はこのニュースを聞いて安心している。米国の役人が少なくなればなるほど、持ち込まれるウイルスも少なくなる」とせいせいしたかのような言い草だった(それにしても、なんと品のないモノの言いであろう)。その割りに、中国のSNSランキング・トップに躍り出ていたこのボイコットの話題が、ほどなくランキング一覧から消えてしまった。分かり易い国だ。
 バイデン政権発足に当たっては、長男坊の中国コネクションから、中国に対して宥和的になりかねないと懸念されたものだが、党派を超えて中国に強硬な議会を背景にしているとは言え、今のところ協力・競争・対立の関係そのままに、とりあえずはメリハリをつけた対応をしている。この点、資源小国で貿易立国の日本は、今も昔も、敗戦の負い目もあって、八方美人の外交(かつて全方位外交と呼ばれた)しか出来ないのが、日本らしくもあり、また物足りなくもある。
 他方、中国は大国として台頭するに従い、大国らしく横柄に振舞い、大国らしく扱われたいのに、そうならない苛立たしさを抑えかねて、対外的にトゲトゲしく対応する様子が「戦狼外交」と揶揄されるようになった。西欧的な(ウェストファリア体制下の)価値観に従えば、原則として外交に大国も小国もない。ところが東アジアに伝統的な華夷秩序観に従えば、中国は中華として天下を治める唯一の権威的存在であり、大国は大国らしく、小国は小国らしく、中華文明になびかないものは(例えば日本が典型例だが)野蛮な夷狄として蔑むのが習いである。これら東西の秩序観はお互いに相容れることはない。
 それでも、習近平国家主席は5月末の共産党の会議で、対外情報発信の強化を図るように訴えた。時事通信によれば、習氏は「自信を示すだけでなく謙虚で、信頼され、愛され、尊敬される中国のイメージづくりに努力しなければいけない」と語り、党が組織的に取り組み、予算を増やし、「知中的、親中的な国際世論の拡大」を実現するように求めたという。珍しくも殊勝な心掛けだ(が、わざわざ言うところが中国らしい)。ところがその後の中国のやることなすこと裏目に出て、世界中で敵をつくるばかりに見える。ちぐはぐである。人民に対して共産党の威信を示したいばかりに、対外関係を顧慮する余裕がないのだろう。
 この9~10日に開催される民主主義サミットに対する反応も同様だった。
 バイデン大統領の呼びかけによる民主主義サミットに参加する110ヶ国・地域が公表され、NATO加盟30ヶ国の内のトルコとハンガリー以外が、またASEAN加盟10ヶ国ではフィリピン、インドネシア、マレーシアの3ヶ国が、そして何より台湾が含まれ、中国とロシアは外されたことが分かると、中国は4日に『中国の民主』と題する報告書を発表し、「中国式」民主主義を完成したことを誇示する一方、翌5日に『米国民主主義の状況』と題する報告書を発表し、米国内の人種差別や新型コロナウイルスの蔓延などを根拠に「米国は民主主義の優等生ではなく、自省する必要がある」などとアメリカの民主主義をこきおろした。
 ここで中国が言う民主主義は、彼らの言う法治主義などと同様、西欧諸国が理解するものと定義が異なるようだ。形ばかりの多党制は、実質的には共産党一党独裁であり、主権が存する「国民」ではなく支配層たる共産党と乖離した「人民」という古来の存在のままで、公正な選挙制度によって自らの代表を選ぶ権利がなく、政治参加の機会が与えられない。仮に古代中国の思想そのままに徳治を行う賢帝(現代で言えば共産党の書記長または総書記)がいれば、それもアリだと思うが、それは飽くまで理念上のことであって、現実の中国がその逆を行くことの反動に過ぎない。Wikipediaによると、民主主義の対義語には「神権政治」「貴族政治」「寡頭制」「独裁制」「専制政治」「全体主義」「権威主義」などが並び、「神権政治」かどうかは別にして、それ以外の言葉は全て中国に当てはまる。それでも「中国式」民主主義などと強弁する。
 ことほどさように中国の言うことは理解不能で、やることはチグハグで、何かというと突っかかって強硬である。そんな中国に関する記事を二つ紹介したい。
 折しも昨日の日経に、秋田浩之さんの『中国、やはり目を離せない 衰退期も変わらぬ強硬路線』と題する記事が出た(*1)。中国はこのまま台頭を続けるのか、それとも、人口減少、エネルギー・食糧の輸入依存の高まり、環境汚染など、さまざまな足枷によって成長率が落ち、衰退期に入りつつあるのか、どちらが正しいのか? と問いかける。「中国共産党リーダーは、強い自信と不安を同時に抱いているのが特徴だ」というシンガポールの論客の声を紹介しながら、台頭期には自信過剰が、衰退期には焦りや不安が、危うい行動を招きかねないとして、いずれにしても強硬な路線は変わらない(このうち、後者の行動パターンのほうが予想が難しく、より厄介)、と結論づける(引用された図表には、短・中期は対等継続説、長期では衰退期突入説が妥当と記するが、タイトルからすれば後者、すなわち衰退期に入りつつあると見ているようだ)。
 もう一つ、一昨日のサーチナによると、中国メディアの網易が、「中国が最も警戒すべき国は、米国やベトナムではない」「最も恐ろしいのは日本であり、日本を強く警戒すべき」と主張する記事を掲載したらしい(*2)。米国は今でも「世界のボス」と言えるが、国内に多くの問題を抱え、安易に中国にちょっかいを出すことはできないはずだから、「中国にとってはすでに恐るに足らない存在」と主張する一方、日本は敗戦後は軍隊を持てないはずなのに自衛隊を作り、今では実質的に「相当な規模の軍隊」と変わらなくなっており、先進的な武器も保有し、「日本はこっそりと核兵器を研究開発している」などと根も葉もない主張をするばかりでなく、「日本は自分の本分を守ることをしない国であり、国土面積が小さく、いつ沈没してしまうかもわからない島国なので、日本人は自分たちの将来について考えざるを得なくなっている。以前の過ちを徹底的に改めることのない日本は、いつか必ず再起してくるはずだ」と警戒し、中国は「後ろから刃物で刺されないよう」十分に注意し、歴史を忘れるべきではないと結んでいるという。(アメリカに対しては)自信満々で、さんざん日本をも手玉に取りながら、この不安感は(中国の全てがそうだとは言わないが)一種のパラノイアであろうか。
 戦後76年の(あるいは過去1500年の内の大部分の)平和な歩みより、古来の野蛮な夷狄(!?)のイメージそのままに受け止められている日本は、北京五輪ボイコットに関してどのような結論を出すだろうか。それに対して自信と不安を抱えた巨大な混沌とも言える中国はどんな反応を示すだろうか。考えるだに憂鬱であり、優柔不断に見える岸田首相の心中は察するに余りある(願わくば、多数のボイコット同調国が出て、その中に紛れんことを 笑)。

(*1) https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD026G00S1A201C2000000/
(*2) http://news.searchina.net/id/1703991?page=1
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同盟について

2021-11-30 20:40:59 | 時事放談
 前回ブログの補足として(と言うには随分時間が経ったが)、AUKUSをはじめとする同盟のあり方について、徒然なるままに・・・。
 かつての帝国・日本には「ABCD包囲網」が敷かれたというのを学生時代の歴史の授業で学んだが、今、中国を取り巻くのは「3・4・5包囲網」などと呼ぶ人がいる(ある日経記者による)。3:AUKUS、4:QUAD、5:Five Eyesというわけだ。これに「2」を加えた方がより正確かも知れない。「2」は日本や特定アジア諸国と米国との間の「ハブ&スポークス」の二国間同盟である。
 そもそも同盟、あるいは地域的・国際的な組織・機構は、参加する国の数が多いほど、それぞれの利害が対立して連携が難しくなるものだ。国連安保理はその最たるもので、バイデン氏の言う「民主主義国」(米・英・仏)と「専制主義国」(中・露)とに分かれ、北朝鮮制裁などの主要な争点で全会一致の決議が出せないなど、機能しないと言われて久しい。また、G7は欧米先進国のサロンだが、新興国の台頭に伴って、もはや世界を代表するだけの存在感がないと言われるが、だからと言ってG20では専制主義(権威主義)国を含む新興国にまで広がり、纏まるものも纏まらないことが懸念されている。帯に短し襷に長し、で悩ましいところだ。
 ヨーロッパにおいて、英国がEUを離脱したのは、大陸ヨーロッパとは一体感が乏しく、利害が必ずしも一致せず、何だかんだ言って多国間の集まりでは合意形成に時間がかかるEUを見限った側面があると思われる。その結果、「グローバル・ブリテン」が叫ばれ、今後、英国はAUKUSをはじめ旧・大英帝国圏諸国に近づいていくのだろう。因みに、同じアングロ・サクソン諸国では、ノルウェーはEUに加盟していないし、スウェーデンやデンマークはEUに加盟してもユーロを導入していないという意味では、一定の同質性があるようだ。他方、ドイツは、日本と同じような敗戦のトラウマがあって、ドイツ国民がEU軍創設に概ね賛同するのは、「自国だけの軍隊を抱える居心地の悪さをいまだに拭えずにいるのと、EUは平和を追求する存在という漠とした印象を持っていることが大きい」という分析がある。2~3年前、あるシンポジウムでドイツ人の若手研究者が、ドイツの安全保障における最大の関心を聞かれて、(ロシアでも中国でもなく)環境問題だと言い放ったのは衝撃的だったが、“第二次”冷戦の戦略正面がもはやヨーロッパではなく、東アジアに移ったことの証左であろうか。一口にヨーロッパと言っても、各国の立ち位置はいろいろである。
 それでもヨーロッパ(中でもEU)には同じキリスト教文化圏としての一体感があり、さらには地理的な近接性からお互いに相争って来た歴史に対する反省を共有することが出来る。例えばアフガニスタン問題を見れば分かるように、ドイツをはじめヨーロッパの関心は高いようで、私たち日本人にはなかなか想像できないが、地政学的に「接続性」のもつ意味合いは大きく、ヨーロッパにとって中東の安定は重大関心事であり続けるようだ。これに対し、宗教的・文化的環境がそれぞれに異なるASEAN諸国は、宗教的にも文化的に一体感に乏しく、端っからEUのような一体化を諦め、内政不干渉の緩やかな統合を目指して来た(ミャンマーを巡っては、その限界が露呈しつつあるが)。そして米国が、欧州方面ではNATOという軍事同盟で纏まることが出来る一方、アジア方面では「ハブ&スポーク」という個別の二国間の軍事同盟や連携を構築してきたのは、このような背景のせいだろうと思われる。
 今、AUKUSとして純度の高い軍事同盟を結成するのは、米・英・豪というアングロサクソン系で本家と分家と言えるほど血が濃く、海洋国家としての価値観が近く、歴史的に(それこそ100年以上も)共に戦って来た国同士だからこそ可能なのであり、軍事面で積極的になれない日本や伝統的に非同盟のインドを含むQUADでは代替できそうにない。
 こうして、それぞれに目的や狙いが微妙に異なりながらも、重層的な同盟関係や連携を構築し、束になって中国を包囲するのが、インド太平洋(西太平洋)のあり方なのだろう。
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戦略的自律性

2021-11-24 23:54:01 | 時事放談
 経済安全保障の政策課題として、前回ブログで触れた「戦略的不可欠性」に続いて、もう一つのコンセプトである「戦略的自律性」について触れたい。
 ちょっと旬を過ぎてしまったが、米・英・豪の間の安全保障協力の新たな枠組みであるAUKUSの発表には久しぶりに興奮した。とりわけ、AUKUSの当座の柱の一つが、米・英が豪州に対して原子力潜水艦の技術を供与する計画であると聞いて、感慨深いものがあった。豪州の潜水艦商談と言えば、2015~16年頃に日本がフランスやドイツと争い、日本にとって「武器輸出三原則等」から「防衛装備移転三原則」に切り替えて初めてとなる装備品輸出の大型商談になることが期待されたものだった。ところが、親日のアボット首相が退陣し、ターンブル首相に代わってから、俄かに旗色が悪くなり、最後はフランスに商談を掠め取られてしまった。そのフランスが、今度は米・英に商談を掠め取られたというのも因果な話だが、それぞれの理由は異なる。日本が敗れたのは、恐らく技術移転を渋ったからだと思われる。豪州は現地生産による現地雇用創出に大いに期待したが、潜水艦技術は日本が世界に誇る虎の子の機微技術であって、(安倍官邸は前のめりだったが)防衛省や防衛産業界には技術移転に根強い抵抗があった。当時、装備庁の関係者の話を聞いて、インド向け救難飛行艇US-2の商談が現地生産・技術移転がネックになって頓挫していたのと似たような状況にあると感じたものだ。他方、フランスの通常動力型潜水艦が米・英の原子力潜水艦に敗れたのは、豪州を取り巻く安全保障環境が変わったことに伴い豪州の戦略が変わったからだ。それにしても豪州は思い切ったものだ。そしてフランスは(かつて森村桂さんが「天国にいちばん近い島」と呼んだニューカレドニア島をはじめ)インド太平洋に領土を持つ、この地域の立派な利害関係者であり、米・英と同じ西側同盟(NATO)に属していながら、完全に蚊帳の外に置かれたことに激怒した(勿体つけた反応はやや大袈裟だったような気がするが)。
 そのフランスのマクロン大統領がかねて主張して来たのが、(NATOにおける)ヨーロッパの戦略的自律性(Strategic Autonomy)だった。トランプ前大統領から見放されかねないことを懸念し、さらにバイデン現大統領がアフガニスタンから撤退するにあたって同盟国に何の相談もなかった衝撃も加わって、ヨーロッパの自立の必要性を説くのは一理あるように思われるが、ヨーロッパ内でも賛否がある。フランスはド・ゴール大統領のときにNATOから抜けて、2009年に復帰したばかりで、プライドが高い独立心旺盛のお国柄であるのに対し、米国の安全保障に頼る東欧諸国は「自律性」には否定的だ。現実には、かつてのソ連や昨今の中国のような超大国と対峙する(パワーをバランスさせる)のに、単独では力不足で、有効な同盟関係は欠かせない。しかし今の米国に、かつてのように飛び抜けた「能力」も、世界の警察官として問題を引き受ける気前の良い「意志」も、もはやない。
 真実はその間にあるのは言うまでもない。超大国とバランスさせるのに同盟関係は欠かせないが、同盟に頼り切るのはリスクがあって、少なくとも国家の存立を維持するため、その脆弱性を衝かれることがないよう、それなりの基盤を備えるのが必要条件となるのだろう(そして前回ブログで触れた「戦略的不可欠性」を備えるのが十分条件となるのだろう)。かつての英国宰相パーマストン卿(1784~1865)が言われたように、「(大英帝国には)永遠の友も永遠の敵もいない。あるのは永遠の国益のみ」なのが、国際社会の掟なのだ。卿は、時のビクトリア女王から嫌われながらも、決断力は認められ、「大層意志の強い男」と評されて、ナポレオン戦争後、バランサーとして大陸ヨーロッパにおける力の均衡(所謂“Concert of Europe”)を演出し、大英帝国の海洋覇権に裏打ちされた「パクス・ブリタニカ」を象徴する人物(Wikipediaより)とされる。
 原則論はともかくとして、今や米社会は深く分断され、民主政治が傷つき、国内を優先する「アメリカ・ファースト」と言わざるを得ないような、外に目を向けて力を割く余裕が余りない状況では、米自身に同盟国との連携が、さらには日本やヨーロッパなどの同盟国自身に同盟関係への貢献が求められる。リーマンショック以来、格差拡大という文脈で行き過ぎたグローバル化に対する反省が沸き起こったが、このパンデミックでは、マスクや各種医療用品などが入手し辛くなる事態に直面し、サプライチェーンにおいて中国などの特定国に過度に依存する行き過ぎたグローバル化が、あらためて具体的に安全保障上のリスクとして浮き彫りになった。産業のコメと言われて久しい半導体の製造を世界中が依存する台湾は、かねて中国がOne China Policyとして統一を唱え、その統一を今や中国共産党の歴史的責務と定義するに至り、既にハイブリッド戦(中国風には超限戦あるいは情報戦や世論戦)を仕掛ける中で、独立がいよいよ危ぶまれており、台湾の半導体産業が中国共産党の手に落ちてしまうことのリスクは計り知れない。
 当然、日本も他人事ではない。米中対立(正確には3C政策: 経済や技術ではcompeteし、人権などの価値ではconfrontし、気候変動や軍備管理などではcooperateする)は長期戦が見込まれ、日本が持つ地理的な要衝性と、(民主)政治的な安定性と、経済・技術的な先進性といった戦略的価値を、アメリカが手放すこと(みすみす敵対者に渡すこと)は考えられない。だからと言って安全保障の自助努力を怠ってよいわけではない。
 AUKUSの話に戻すと、豪州による原子力潜水艦の運用は2040年頃と言われるほど先の長い話で、バイデン政権は「豪州を米国と英国に数世代にわたって結び付ける根本的な決定」だというような言い方をした。中国の海洋進出に対する米国の抑止力の中心は潜水艦であって、その作戦に豪州を引き入れることのメリットは大きい。私は、ある意味で米国の国際協調あるいは同盟国との連携というレトリックの底が割れたように思ったものだが、これに関して、防衛大学の神谷万丈教授は、アメリカ・バイデン政権のことを単なる「Multi-lateralism」(多国間主義つまりは国際協調主義)ではなく、「Uni-lateralなMultilateralism」だと形容された。蓋し至言だろう。同盟に頼り切ることなく、自律性と不可欠性を維持しながら、同盟というツールを(日本にしても米国にしても豪州にしても)最大限に活用して中国という懸念国との「関係を管理すること」が肝要なのだろう。
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戦略的不可欠性

2021-11-17 20:24:48 | 時事放談
 最近、話題の経済安全保障における政策課題のキーワードに、「戦略的自律性」と「戦略的不可欠性」が挙げられる。経済と安全保障において緊張する米中間で生き抜くために、日本としてしっかりとした政策の軸を定めなければならないとして、自民党・有志の研究会による政策提言に盛り込まれ、岸田首相が公約した国家安全保障戦略の見直しでも盛り込まれることだろう。
「戦略的自律性」は、パンデミックで明らかになったような(サプライチェーンなどの)過度の他国依存(=脆弱性)を排除することであり、「戦略的不可欠性」は、同志社大学の村山裕三教授が提唱されて来たコンセプトで、日本が他国から見て決定的に重要な領域において代替困難なポジションを確保すること、とされる。
 このうち、「戦略的不可欠性」は、技術について言えば、これまで培って来た技術的な強みを活かし、国際競争力を保持することであり、その例として、台湾の半導体産業を挙げることが出来る。現在、台湾企業は世界の半導体の7割強を生産し、線幅10nm以下の先端領域に限ると9割以上のシェアをもつ。かつて中国べったりで、極東の安全保障にはさほど関心を示さなかったEUの議員が、先日、中国の反発を押し切って台湾を詣でたことには驚いたが、とりもなおさず台湾が「戦略体不可欠性」を持つ所以であろう。
 これらのコンセプトは、技術領域に限らず、企業や国家レベルでも言えることではないかと思う。
 もう一つ、例を挙げたい。一週間ほど前のNewsweekに、オーストラリアと中国を巡る確執に関する記事が掲載された(*)。
(*)『中国に「ノー」と言っても無事だったオーストラリアから学ぶこと』(11/11付)https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/11/post-97443.php

 オーストラリアは、その輸出の4割を中国に依存し、中国とは言わば蜜月の関係にあったが、2018年頃から怪しくなる。華為製品を使ったネットワークからデータが抜き取られていることや、オーストラリア政界に中国共産党の息がかかった政治家を送り込もうとしていることを告発したのである。そして昨春、オーストラリアがコロナ・ウィルスの発生源について独立した調査が必要だと提案したことに反発した中国は、オーストラリアからの大麦、小麦、羊毛、ロブスター、砂糖、銅、木材、ブドウ、ワインなどの輸入を制限したのは良く知られるところだ。これら品目の多くは、幸い、汎用性の高い一次産品だったため、オーストラリアはこれらの輸出を他国・他地域に振り向けることができたようである。こうした「貿易転換」に成功したオーストラリアは、この危機を乗り切ったと、このNewsweekの記事は解説する。そして、中国との関係において、経済と政治を切り離すことは出来ないが、中国は見かけほど怖くはない、と結論づける。
 ここでは、見落とされている視点があるように思う。
 オーストラリアは、中国が輸入制限の例外扱いとした鉄鉱石について、中国の脅しへの対抗策として、中国への輸出を取り止めることが出来たはずだが、輸出を続けている。記事でも触れられているように、鉄鉱石は中国の鉄鋼産業に欠かせない鉱物である。と言うことは、オーストラリアにとって、中国との関係では「戦略的不可欠性」を持つものである。ところがオーストラリアは報復に訴えることなく、従い、経済面での決定的な決裂を避け、中国に逃げ道(貿易復活の余地)を残しているように思われる(他方で、安全保障面ではQuadのほかAUKUSに加盟し、原子力潜水艦の導入を決めた)。「戦略的不可欠性」は、外交上の武器になり得るのであって、今回は、明瞭なサインを送るものとして利用したことになる。中国は、中国経済に依存する中小国に対する見せしめのように、オーストラリアを苛めたつもりだったが、オーストラリアは中小国と言えども国家の威信・矜持があり、ぐっと堪えて、経済的な報復の連鎖を回避した(しかし繰り返すが、安全保障面では強かに手を打った)。結果として、オーストラリアに同情や共感が集まる一方、中国は関係国の不信を招き外交的評価を落とすことになった。
 さらに言うと、中国は独裁国とは言え何でも習近平国家主席一人で決めるわけではなく、当然、日常業務遂行においては部下たちが意思決定するはずだが、独裁者・習近平氏への忖度が蔓延ることによって、個別の決定に歪みが生じ、結果として中国の国益を損ねているのではないかと思われる。戦狼外交はその最たるもので、個別の外交案件をいちいち習近平氏が承知しているとは限らないだろう。周囲が忖度して、良かれと思って、強い中国を演出するべく戦狼を装って、結果として評判を落としているのではないかと思われる。最近、中国で計画停電が起こって、産業界に影響を与えたのも、習近平氏の「脱・炭素」の掛け声に応じて、その意図を忖度して、各州が石炭生産を落としたばかりに、電力供給不足を招いたからだった。オーストラリアからの輸入制限も、そんな外交的な拙さのニオイを感じる。
 習近平氏に権力が集中するにつれ、言わば「裸の王様」になる一方、同調圧力が強まり、忖度が蔓延って、実務面でその弊害が大きくなるのではないかと、他所様のことながら気になる。
 他所様のことはともかく、オーストラリアを見倣って、日本も、いろいろ「戦略的不可欠性」があるはずだから、先ずはそれを明確に認識し、あるいはそうなるように育てる作業が必要だろう。
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ハロウィン選挙

2021-11-03 00:26:23 | 時事放談
 ハロウィン当日に衆院選があった。日経新聞朝刊は一面で「自民、単独で安定多数」と書きたてる一方、小さく「立民はふるわず」と撥ねつけたが、私は、自民も立民も維新もそれなりの勝者だったと思う。奇を衒うわけではない。
 それにしても予想外のことが続出した選挙だった。
 先ず、自民党が261議席という絶対安定多数を獲得するとは誰も予想しなかった。メディアは、12年前の「政権交代。」とまでは行かないまでも、ある種の地殻変動を予想して浮かれていた(私は白けた目で眺めていた)と言わざるを得ない。開票が始まる31日20時ちょうどの各テレビ局の予想議席数ですら以下の通りで(村上和彦氏による)、皆さん見事に外した(フジはこの時点でも自民党は過半数割れすると見ていた)。出口調査ではサイレント・マジョリティ(隠れトランプ支持者のように、あるいは日本のリベラルのように声をあげるでなし、出口調査を受け付けないが、自民党を静かに支持する層)を見誤ったとする見方がある。
   日テレ   自民 238    立民 114  
   テレ朝   自民 243    立民 113
   TBS     自民 239    立民 115
   テレ東京  自民 240    立民 110
   フジ     自民 230    立民 130
   NHK     自民 212~253 立民 99~141
   結果     自民 261    立民  96
 自民党は、序盤の劣勢予想を受けて、関係者のお尻に火が付いて、終盤で追い上げたと言われる。甘利さんは小選挙区で落選(比例で復活当選)したものの、最後の数日は他候補の応援を止めて地元に貼りついたそうだ。その必死さを、選挙活動だけでなく、日頃の政治活動でも維持して欲しいものだ(笑)。いずれにしても、公示前の276議席から261議席まで減らしたとは言え、二か月前のスガ政権末期の世論調査からは大敗が予想されただけに、その後の岸田さんが頼りなげに見えても見事に復活したという意味では、スガさんが身を引いた潔さは特筆すべきかも知れない。あるいは最大の勝因はコロナ禍が落ち着いていたことかも知れない(笑)。岸田さんご本人は一応の「信任」を受けたと言われるが、政権発足後、まだ何もしておらず、ただ岸田政権の布陣に、人事刷新による出直しを認めるか否かという、よく分からない「信任」選挙だった。
 次に、立憲民主党と共産党をはじめとする選挙協力は、メディアでは「不発」に終わったと評判が悪いが、メディアが予想を外した責任逃れか恨みつらみであって、枝野さんが一定の評価を下されたのは負け惜しみでも何でもなく、それなりに機能したと言うべきだろう(しかし、これは小学生でも分かる算術の論理であって、大義はない)。その証拠に、共同通信の集計によると289選挙区中、2割を超える64選挙区で当選者と次点の差が1万票未満の接戦だったそうだ。そして、神奈川13区で立民の新人候補が甘利明・幹事長を破り、東京8区では石原伸晃・元幹事長を落選に追い込んだ(選挙の元締めである自民党の幹事長が小選挙区で敗北するのは初めて)。そもそも公示前の110議席が(希望の党解体を受けて)水膨れしていたのであって、野党第1党は旧・民主党から立民に至るまで、その時々の野党の分裂度合いにもよるが50台から70台で推移したことからすれば、96議席はよく健闘したと言うべきだろう。選挙協力なかりせば・・・弱小政党が理念は別にして徒党を組んで一丸にならなければ、ここまで持たなかったのではないか。
 そして維新は公示前の11議席から41議席へと4倍近く増やして第三党にまで躍進したことには、正直なところ驚いた。2012年当時の勢いを取り戻しつつあるということだろう。此度の選挙の最大の勝利者であるのは間違いない。大坂の19の選挙区では15人が立候補して全勝し、私が長年住み慣れた高槻市を地盤とする立民候補者・辻本清美さんを落選させた。大阪はコロナ第五波で医療崩壊の苦労があったとはいえ、大阪の人は吉村知事の頑張りはしっかりと見極めていたのだと感心する。もっとも、大阪在住の知人によれば、「橋下さんの脅しにも似た強引さと、松井さんののらりくらりとした胡散臭さがあったからこそ、コロナ禍の吉村さんの一所懸命さにくすぐられた」ということらしい(笑)
 個別に見て行くと、さらに驚くことが多々あった。甘利明さんについては「金銭授受」を巡る問題が逆風になったと言われるが、前回(2017年)選挙前に発覚してなお当選していたことからすれば、安倍さんの安定政権を支えた功労者一人から、岸田政権が人心一新する中で旧態依然を引き摺る3Aの一人へと、選挙民の印象が変わったとしか言いようがない。アメリカが抜けた後のTPPをまとめあげた剛腕ぶりを評価するだけに、複雑な思いだ。石原伸晃さんは危ないと言われていたが、まさか落選するとは思ってもみなかった。自民党の実力者であり、惜しい人材である。旧・民主党首脳の一人・イラ菅さんが長島昭久さんを下したのは、個人的には納得できない。選挙民は何と忘れっぽいのだろう(苦笑)。小沢一郎さんが小選挙区で敗北したのは感慨深い。時代の風はもはや小沢さんには吹かなくなって久しい。
 終わってみれば、投票率は前回を上回ったとは言え、小選挙区55.93%、比例代表55.92%と、戦後3番目に低いものだった。全ての衆議院議員に「喝」を入れたい。野党共闘の立民(110→96)・共産党(12→10)ともに議席を減らし、共産党との共闘に消極的だった国民民主党は8→11へと3議席増やしたことからすれば(そして、維新が自民と立民への不満の受け皿となったことは言うまでもない)、単なる数合わせで、理念なき野合に将来はないことを、当該野党の方々は肝に銘じて欲しい。英米のように二大政党による政権交代を常態化して多少なりとも緊張感のある政治を実現するには、今の勢力分布で見果てぬ夢を追うより、ヌエのように右から左まで翼を広げる自民党を穏健保守と穏健リベラルで二つに割って、維新や国民民主や一部の立民を糾合してガラガラポンして大同団結させる(立民、共産、社民の極端なリベラルは泡沫化させる)しかないと、個人的には思っているが、どうだろうか。実際のところ、私の中では、自民党総裁選での政策論争の方が、衆議院議員選挙よりも余程盛り上がったのだ。既得権益を失う自民党や、泡沫化する極端なリベラルの方々には受け入れられないのかも知れないが、これこそ見果てぬ夢なのだろうか。
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老いるニッポン

2021-10-20 23:52:46 | 時事放談
 昨日、衆院選が公示されたが、近所で選挙カーが騒音を撒き散らすでもなし、テレビを殆ど見るでもなし、いまひとつ実感に乏しい穏やかな秋の一日だった。選挙戦と言えば政策論争に期待したくなるが、自民党総裁選でやり尽くした感があり、どの政党も揃ってパンデミック対応と財源の議論がない「分配」を訴える、財務省事務次官が心配するほどのバラマキ中心で、どうも興味が湧かない。
 こうしてあらためて日本の将来をまがりなりにもぼんやり考える機会に接すると、日本と言うよりニッポン(実体としての日本と言うより、国際競争力の観点から捉えたニッポン)は、この30年間で、すっかり老いてしまったという感慨を抱かざるを得なくて、寂しい。
 今月初めに、日本人のノーベル物理学賞受賞に沸いた。しかし正確には日本人ではなくアメリカに帰化された日系アメリカ人の受賞だった。中国で「千人計画」という、規模が小さければ許容されるところ余りにも大胆に大規模に(実数はその8~10倍と言われる)、しかも軍民融合の悪意を以て進められる悪魔の計画(!)に応じる日本人学者が少なからずいて話題になった(これは言わば公表されることを覚悟した“表”の政策であって、むしろ“裏”で行われているサイバー攻撃やスパイを使った技術窃取の方がより問題だと思うのだが)。前者は文化の問題として仕方ないにしても、後者は生活に関わり、学術領域における日本政府の支援が足りず、ポスドク問題に見られるように、日本にいては棲み辛く不遇を託つからに他ならず、深刻である。結果として、いずれノーベル賞受賞は先細りになると不安視されるのは、今に始まった話ではない。
 少子高齢化で、年々、社会保障費の負担が大きくなり、三大基礎投資(研究開発、設備、人材)が減っていると、デービッド・アトキンソン氏が東洋経済への寄稿で、賃金が上昇しない日本の問題として指摘されている(10/20付「『プライマリーバランス黒字化』凍結すべき深い理由」)。確かに競争環境の中で投資が減れば、対抗し得る体力を維持できず、次の投資を呼び込む余力がなくなる悪循環に陥り、静かに縮小均衡に(最後は穏やかな死に)向かうのを留めることは出来ない(というのは、私がかつて属した業界の衰退を見るようである)。
 「日本」と「ニッポン」とを書き分けてみたのは、日本人一般の関心は明らかに「日本」にしかなく、「ニッポン」のことを気にする人は僅かでしかないと思うからだ。江戸時代のように、この日本列島で仲良く穏やかに暮らしている限り、それなりに幸せであろうが、日本の外では欲望が渦巻き、その刃は日本にも向かっており、鎖国(という言葉は最近は不適切なようだが)でもしない限り、その外圧から逃れることは出来ない。それなのに、日本人は競争的な国際環境・・・それは科学技術やビジネスにおいてもそうだし、安全保障においてもそうだ・・・にあることを意識しなさ過ぎではないだろうか。
 パンデミックで明らかなように、国際社会は、国際連合をはじめとする国際機関のもとで国際的な共同体を形成し、隣近所とも仲良くやって行ける・・・と日本が思いたがるような代物ではない。むしろ、2500年前の古代ギリシアの時代から、切った張ったの仁義なきパワーポリティクスの世界が繰り広げられる殺伐とした世界だというのが実像である。だからこそ、中国は、そこでの優越的地位を得ようとして、国際機関の長のポスト獲得を目指す。
 ニッポンの凋落は見るに忍びない。少子高齢化と、成長する新興国とのせめぎ合いの中で、相対的に地盤沈下するのは仕方ないにしても、かつて世界第二の経済規模を誇った大国の成れの果てとして、国際社会の中で「名誉ある地位を占めたいと思ふ」(憲法前文)のは自然な感情だろう。そのためには、パンデミックという緊急事態下ではあるが、ただのバラマキではない、将来に繋がる「投資」と「成長」の視点が必要であり、それは「分配なくして成長なし」ではなく、分配しても昨年の給付金の7割方は貯蓄に回されたと言われるように、「成長なくして分配なし」を基本とすべきだろうと思う。また、緊張の度合いを増す米中対立の下で、軍事及び経済安全保障も、待ってはくれない喫緊の課題である。これらを含む国家戦略が垣間見えるかどうかという観点から(実は余り期待できないと半ば諦めてもいるのだが)衆院選を見て行きたいと思う。
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中華民族の儚い夢

2021-10-13 00:26:05 | 時事放談
 この週末、習近平国家主席は北京の人民大会堂で行われた辛亥革命110周年記念大会で演説し、台湾との「統一」を平和的に実現すると訴えたらしい。習氏は、2年前から台湾統一のための武力行使に言及し、7月に行った結党100周年記念の演説では独立に向けた正式な動きは全て「粉砕する」などと勇ましいことを述べていたが、今回は比較的穏当な表現が使われたとロイターは伝えている。台湾側は勿論、これに反発し、台湾の将来は台湾市民のみが決めるとの声明を発表し、中国側に威圧をやめるよう求めた。
 習氏にとっては歯痒いことだろう。此度のパンデミックを克服した素晴らしい体制だと、習氏が中国人民に対して散々自画自賛して来たその中国に、肝心の台湾はなびこうとしないからだ。その台湾を、如何に中国共産党に与えられた「歴史的な任務」だと自己主張しているとは言え、武力で「統一」することになれば、中国共産党体制の優越を自己否定することになりはしないか。大いなる矛盾ではないだろうか。
 そのせいかどうか、習氏はこれ以上、国内で「誤謬のない」中国共産党の統治への批判は許さないとばかりに、民間企業が報道事業を行うことを禁止する方針を示した。将来の有事に先んじて、口封じしたかのように見える。大手IT企業や教育産業(塾)や芸能界や不動産業を締め付け、オンラインゲームを制限しただけでなく、言論の自由までも(これまでも不自由だったが)ついに窒息死させることになりそうで、この窮屈な統制社会に、中国人民は果たしていつまで耐えられるだろうか。ノーベル平和賞がロシアとフィリピンの2人のジャーナリストに授与されることに決まったのは、まさに時宜にかなったことであった。
 もとより、中台の平和的統一へのこだわりは、1972年の米中共同声明(所謂上海コミュニケ)において、中国が主張する「一つの中国」を事実として認めさせる代わりに、「その実現は平和的手段によるべし」とする米国の主張を認めたからでもある。だからと言って、習氏がいつまでも待ち続けるとは思えない。なにしろ、台湾では台湾人アイデンティティを抱く人が着実に増えて過半となり、自ら中国人(あるいは中国人&台湾人)と自己認識する人はごく僅かでしかない。統一でも独立でもない、宙ぶらりんな状態ではあっても、今の状況が続く限り、台湾人アイデンティティの進行が可逆的となることはもはや考えられない。時間は習氏に味方しないのである。
 仮に中国が武力行使する場合、国際社会にとってのインパクトは、内政問題だった天安門事件の比ではないだろう。残り20数年を待ちきれずに国際公約だった香港の「一国二制度」保証を破棄したばかりでもある。香港の場合は、中国は今なお「一国二制度」だと強弁するが、台湾の場合に、平和的ではない手段を平和的だと誤魔化すのは至難だろう、と思うのは私たちだけであって、習氏にすれば、台湾独立勢力を粉砕するだけだと屁理屈をこねて、中国の内政問題だと居直ろうとするに違いない。
 アメリカは、トランプ政権以来、台湾関係法に沿って急速に台湾支援に傾いてきた。10月6日付ウォールストリートジャーナル紙によると、武器供与だけでなく、小規模ながら特殊作戦部隊や海兵隊の部隊が台湾陸軍の訓練を行っていたことが明らかになったが、これは、台湾の実力を心許なく思うからだと言われる。アメリカでは、台湾有事にアメリカが武力介入するかどうか分からないという「曖昧戦略」によって、中国による武力行使を抑止して来たが、最近は、もはや曖昧戦略は止めるべきだとする議論が出て来たようだ(リチャード・ハース氏ほか)。間違っても、武力統一できるという幻想を習氏に抱かせることなく、「誤謬なき」中国共産党がタダでは済まなくなることを、ことあるごとに思い知らせるべきだろう。
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自民党総裁選:雑感

2021-10-02 09:22:30 | 時事放談
 自民党の第27代総裁は岸田文雄さんに決まった。河野太郎さんが失速したと言われていたが、一回目の投票でも岸田さんが(僅か一票差ながらも)一位だったのは驚いたが、無難なところに落ち着いたというところだ。
 日経新聞の政治部長は、「自民党が望んだのは党内の『安定』だった」と書き、読売新聞の政治部長は、「『発信力』より『安定感』が決め手になった」と書いた。一番、凡庸な、と言っては失礼にあたる。が、確かに河野さんほどの危なっかしい変化や大胆な改革は期待できないが、岸田さんも、幹事長などの党役員に任期を設定することを公約に掲げるなど改革を志向し、事実上、二階さんに引導を渡したことは記憶されていい。何より、「政界の異端児」河野さんが首相になった暁の政局運営で、自民党を挙げての組織的バックアップが期待できるのかどうかには不安があった。また、高市早苗さんのように首相になっても靖国に参拝するという言い分は正論なのだが、現実の政治となると話は若干異なってくるので(と、小心者の私はビビッてしまう)、そういった勇ましくて危なっかしい言動も、とりあえずは回避された。因みに、私は(ブログ記事からも分かるように)、記念すべき第100代の日本国・内閣総理大臣は女性こそが(従い多少の無茶は押して高市さんこそが)相応しいと密かに願っていたので、やや気落ちしている(笑)
 こうして見ると、政治家はやっぱり遠い存在で、総裁選の前まで、見た目は河野さんにしても高市さんにしても「ややポジティヴ」だったが、短期間であれ集中的に人となりや言動に接すると、河野さんは政策面や人柄面での奇矯さも手伝って「ややネガティヴ」に1ランク落とし、高市さんは政策通ぶりと“しなやか”な強さを持ち合わせて「(普通に)ポジティヴ」に1ランク上げた。他方、岸田さんは、「酒豪だが、行儀のよいイケメン」が定評ながら、一年前の総裁選では「つまらない男」 「決断できない男」とまで揶揄されて、まだ薄っすらとその痕跡は残るが、開き直りもあったのか、ちょっとは男ぶりをあげた(という言葉は差別用語か!?)。
 その意味で、石破茂さんが、「なぜ(党員票と議員票とで)落差が生じるのかは党全体として考えないといけない」 「このズレを直していかないと、いつまでたっても『自民党は国民の意思と違うよ』ということを引きずってしまう」と、負け惜しみで語られたことには、違和感がある。総裁選はすなわち首相を決める選挙だという連想からのご発言と思われるが、今回はあくまで自民党という組織のリーダーを決めるものであり、私たちは政治家のことをそれほど分かっているわけではなく、従いAKB48のセンターを決めるように(と言っては言い過ぎか)、ファンによる人気投票で決めることではないと思うからだ。何より、自民党員・党友は、国民と言ってもイコールではなく、むしろ自民党ファンとしての、さらにはその中でも恐らく左・右に、偏りがある。また、国民の代表を選ぶのは国民だが、国民が選べるのはそこまでで、政治家個人と、その私的集まりである政党とは分けた方がいい。政党やその中の派閥などの組織を選ぶのは政治家個人の嗜好であり、そのような組織のトップは、何を期待されるのかに依るが、私も民間企業にいるバイアスがかかるせいか、ファン目線よりもその組織に固有の論理で選ばれるのが(いろいろ問題はあるにせよ)自然のように思う。
 各国の反応は相変わらず興味深い。
 主要メディアは、だいたいリベラルで、言いたい放題だ。米NYタイムズ紙は、「国民の好みを無視し、不人気の菅総理とほとんど差別化できない候補者を選んだようだ」と、また英エコノミスト誌も、「世論を無視して岸田氏を選んだ」と、日本のリベラルの肩を持つかのような報道をしたらしい。さらに英エコノミスト誌は、「(強いビジョンを持たない)岸田氏が記憶に残るリーダーになるとは思えない」とまで酷評したのは余計なお世話で、日本のリベラルの恨み節をなぞっているだけだろう。英フィナンシャル・タイムズ紙は、「(自民党は)新しい世代のリーダーに賭けるのではなく、安定性に未来を託した」と指摘し、岸田氏については専門家の声を紹介する形で、「ミスター・ステータス・クオ(現状維持の男)」と伝えたのは、手厳しいが、距離感の取り方としては好感が持てる(さすが日経傘下だ)。
 岸田さんの人となりについて、英BBCは「無味乾燥で退屈だと言われているが、長い間、党内では将来のリーダーとして期待されてきた」、ロイター通信は「調整役として知られる」、フランスAFP通信は岸田氏を「カリスマ性を欠いた、穏便なコンセンサスの精神を培ってきた元外相」、ロシア国営タス通信は「穏健な保守主義」で「酒好き」と紹介したという。さすが、ちょっと突き放した感じの、ウォッカの国・ロシアだ(かつて訪露時の酒豪ぶりが記憶にあるのだろうか)。
 韓国大統領府の関係者は、「我が政府は、新しくスタートすることになる日本の内閣と、韓日の未来志向的な関係発展のために引き続き協力していく」とコメントしたという。毎度の「未来志向的」なのは結構だが、相手に言う前に自ら率先垂範して欲しいものだ。中国外務省の報道官は、「日本の新政権と協力し、中日関係を正しい軌道に乗せ健全で安定した発展を推進させることを望む」と、新政権への期待感を示したという。ここで言う「正しい軌道」とは何を指すのだろう。相互主義の国際関係にあって「正しい」という価値判断を含む形容には違和感がある。いろいろ細かいところで一致しなくても大きくは外交関係を損ねない戦略的互恵の関係維持を言うのなら分かるが、まさか「正しい」歴史認識に基づき中華思想に沿った相互尊重(という名の下での中国への敬意)を言うのではないだろうな・・・
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パックンが見る自民党総裁選

2021-09-28 08:17:15 | 時事放談
 総裁選の論戦を見ていると、巧拙は別にして、一応、他と区別しようとする政策論議がまがりなりにも行われ、野党が繰り出すような揚げ足取りの矮小化した議論には至らないという点で、妙な安心感がある(笑)。同じ自民党議員というコップの中の争いなので、考え方が極端に違うわけではないが、ある程度の幅の中で、いずれ一国の首相になるのだから、実現可能な政策を競うわけで、それなりに現実的でなければならないし、理想的な要素もないと明るい未来は見えて来ない。落選したら議員ではなくなるわけでなし、なんだかんだ言って仲間意識もあって、一定の品位が保たれているのだろう。
 そうは言っても、一口に自民党と言っても、リベラル(河野さんや野田さん)から保守(岸田さんや高市さん)まで、さらに政策課題によって、結構、幅があるものだと感心する。これが自民党の強さだろう。以前、自民党は「鵺(ヌエ)」のようだと形容したことがあるが、その射程を、世間の支持を得やすい(という意味ではややポピュリズム的とも言える)リベラルな経済・財政領域にまで拡げたために、結果として、野党との争点が護憲や消費税廃止のような極端な議論に寄せられて、野党の存在意義ひいては活躍の余地が狭められて来た。
 パックンはNewsweekに寄稿したコラムで、『アメリカから見ると自民党はめっちゃリベラルです』と題して、揶揄しているが(*)、その通りだと思う。
(*)https://www.newsweekjapan.jp/pakkun/2021/09/-929-nhk-lgbtq-2.php

 河野太郎さんが、「本来保守主義というのは、度量の広い温かい寛容な社会を目指すのが保守主義なんだと思う」と言われたのは詭弁、と言うより個人的な嗜好・願望を表明されただけであって、本来の「保守主義」の意味にはないことだ。「リベラル」だと素直に宣言すればいいのに、徒に保守派に阿っているように見える。かつて立憲民主党の枝野代表が、自らを保守と強弁されたのに通じるものがある(枝野さんの場合は、戦後リベラルを保守するから保守と呼んだだけで、内実は戦後リベラルそのものという、なんというマヤカシだろう 笑)。
 パックンによると・・・女系天皇や同性婚を認めるという意味ではリベラルな河野さや野田さんに、異を唱える岸田さんや高市さんにしても、岸田さんはアベノミクスの新自由主義的な側面に批判的で、富の再分配を通して格差社会の是正を目指すとされているし、高市さんにはアメリカの保守派のような主張はない・・・というのはパックンが言うに困った冗談だろうが(笑)、結果としてアメリカ的に見れば、皆、リベラルじゃないか、というわけだ。まあ、アメリカの保守が主張するような、銃規制や人工妊娠中絶に対する反対などは、アメリカの歴史や宗教的な信念に根差すもので、そもそも日本の土壌にそぐわないが、戦後、牙を抜かれた日本が徹底した平和主義で、極端な競争やそれに伴うあからさまな優勝劣敗を潔しとせず、平等を尊ぶ「優しい」社会であろうとして、リベラル基調なのは事実だ。
 最近はMMT理論という学会からのお墨付きもあって、また世界中で進む格差社会がパンデミックによって一気に加速する非常時にあっては弱者保護に大義名分があり、さらに国家資本主義の中国に対抗すべく国家が成長投資を牽引する傾向が特にアメリカに顕著な中、低迷しているとは言え世界第三の経済大国・日本も乗り後れてはならないとする雰囲気が濃厚で、積極的な財政出動に対する罪悪感が薄れつつあって、国民に寄り添って「優しい」「大きい」政府に舵を切る政策が大手を振るっている。リベラルな野党のお株を奪うポピュリズムに他ならない気もするが、これでは再来月に衆院選を迎える野党が埋没しかねず、焦るのも無理はない。
 おまけに、自民党の強さの源泉であり、また悪しき伝統としても語られる派閥主義を、若手議員が克服するような動きを見せた(これに対してはポジティブな見方が大勢だが、要は選挙に勝つことに必死なだけではないかと、私は半ば冷ややかに見ている)上、自民党内で改革派と目される石破茂さんや小泉進次郎さんが河野さんを推して、自民党主流派の3A(安倍晋三さん・麻生太郎さん・甘利明さん)が支持する岸田さんや高市さんとの間で対立構造らしきものを作り出して、疑似的な政権交代劇あるいは世代交代劇を演出して、一種のお祭り騒ぎである(笑)。日経新聞とテレビ東京が23~25日に実施した世論調査によると、事実上の次の首相となる自民党総裁に「ふさわしい人」として、河野さんが依然、46%で人気がトップなのは、このあたりの事情を反映しているのだろう(なお、岸田さん17%、高市さん14%、野田さん5%)。野党としては、たまったものではない。
 そのため、大手リベラル・メディア(特にAERAなどの朝日系)は、かつて自民党をぶっ壊すと豪語して選挙戦に突入した小泉元首相の再来に擬えるのか、河野さんを持ち上げる一方、女性なのにフェミニストではない高市さんを貶めるような報道が見られて、お祭り騒ぎに彩を添えている(というのはイヤミで言うのであって、これもメディアによる一種の印象操作)。他方、河野家のファミリー企業「日本端子」はソーラーパネルに搭載されるコネクタなどを開発し、中国共産党と近い関係にありそうだとネットで話題になり、河野パパにしても息子・太郎さんご本人にしても中国に宥和的で、再生可能エネルギーを熱烈に支持されるのはそのせいかと私なんぞは納得したものだが、利益相反のスキャンダルになり得るものとして、大手・左派メディアの間で盛り上がる気配がない。有本香さんによると、中国の合弁相手BOEテクノロジーグループは豪州戦略研究所の「ウイグル人強制労働企業」報告書に記載されているらしい。太郎さんご本人は、「政治活動に影響を与えるということは全くない」と言い訳されたのを、産経新聞が報じていたが、問題がないとはとても思えないのだが・・・。
 さらに、最近の出来事として、アフガニスタンからの退避作戦の失敗は、自民党政権下の失策として本質的な議論があってよいはずなのに、リベラル・メディアや野党にとっては不都合と見做されるのか、いつの間にか通り過ぎてしまった。私が海外駐在したのは、幸いアフガニスタンのような政情不安の国ではなかったが、国が助けてくれると信じられるか否かは切実な問題であり、ホットスポットとしての朝鮮半島や台湾には在留邦人が多く、その救出に課題がないとは言えないだけに、もっと注目されてよいはずだ。アフガンのケースでは、いろいろ検証記事が出てきて、一日違いでテロに巻き込まれて不幸にも間に合わなかったという言い訳は、通用しそうにない。元・自衛官の横山恭三さんは、外務省が、アフガンからの邦人等を退避・救出するのに際し、初めから他国頼りだったことと、日本政府に長年協力してきたアフガン人スタッフ500人の退避・救出を二次的な任務と考えていたことを問題視され、結果として自衛隊機の派遣が決定的に遅れたことを糾弾されている(JBpress『日本に大恥かかせた外務省、危機管理能力が決定的欠如』)。横山さんは、その理由として、退避作戦を、内閣総理大臣が主導すべき国のオペレーションではなく、外務省一省のオペレーションだと考えていた(そのために防衛省などへの相談がなかった)せいではないかと主張される。元・自衛官として憤懣遣るかたないのはよく分かるが、私はもう一歩踏み込んで、外務省にしても、またそれ以外の省庁にしても、自衛隊を安全ではない国や地域に派遣することの法的な難しさが関係者の意識にあったから、つい後れてしまったのだろうと想像する。この点で、高市さんや岸田さんは、数少ない議論の中で、自衛隊法の改正に言及されていた。リベラルとしては、かつて自衛隊の海外での活動に消極的だった負い目があるのかも知れないが、このパンデミック下で「国民の命を守る」をキャッチフレーズに東京オリパラに反対の声を挙げたのであれば、同じように、国民である在留邦人やその協力者を守ることも主張して然るべきだっただろう。
 パックンは、皆、リベラルだと言うけれども、このあたりはアメリカのリベラルではあり得ない日本人の宿痾とも言えるものであって、日本的なリベラルにはいろいろと違和感があるのだ。
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