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風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

近頃のロシア

2024-02-20 02:25:58 | 時事放談

 ロシアの反体制派指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏が刑務所内で死亡したと、インタファクス通信がロシア連邦刑執行庁の情報として報じた。まだ47歳という若さだった。

 これを受けてロシア全土で追悼行為の輪が広がっているらしい。それが、ナワリヌイ氏ゆかりの場所ではなく、KGB本部があった場所(=FSB本部の前)に設置されたソ連時代の政治弾圧の犠牲者を追悼するモニュメント「ソロベツキーの石」だったり、赤の広場のすぐ近くのアレクサンドル庭園にある無名戦士の墓だったりするから、当局もおいそれと手が出せないらしい。呼びかけがあれば当局に拘束されかねないが、自然発生的に人々が記念碑に集まっているらしい。

 ナワリヌイ氏は、弁護士であり政治活動家でもあって、2009年以降、プーチンやメドベージェフ政権を批判する活動で注目されて来た。昨年暮れに連絡が取れなくなったと騒がれたら、モスクワ郊外から北極圏の僻地の収容所に移送されたことが確認された。2020年にも、シベリアからモスクワに戻る機内で体調が急変し、ドイツの病院で治療を受けたところ、神経剤の一種ノビチョクによる毒を盛られたとされた。当時にしても今回にしても、都合が悪い人物を消すプーチン政権の手にかかったと考えるのが自然だろう。プーチン政権にしても習近平政権にしても、最近の権威主義体制の異形はとどまるところを知らない(もっとも、習近平のやることは、中国共産党の勝手ながらも法治の体裁をとっているという意味では一緒にして欲しくないと思っているかもしれない)。

 つい先週、日経にラトビアの外相(元首相)の論考が掲載された。ロシアは沸騰したヤカンのようなもので、外から内部に影響を及ぼすことは出来ない、ならば、周囲の防御を確実にするため、私たちはロシアを封じ込めていく必要がある、と。再び脅威として台頭し始めたロシアに対する苛立たしさを抑え切れない様子だ。横暴な大国と地続きの小国にとっては切実だろう。その根拠として二点。一つはファシスト哲学で、ラトビアの外相は、19世紀後半に生まれた哲学者イワン・イリインを挙げた(そう言えば本人の身代わりに娘を殺害されたアレクサンドル・ドゥーギンも同氏の『失われた純粋なロシア的精神』を称揚していた)。近年、ロシアでその著書が復活・再版されて、プーチンだけでなくロシアの戦略エリートの考え方に浸透しているらしい。その内容は、国家を偉大にするために、ロシアには隣国を征服する権利があるという、今どきなんとも大時代なものだ。もう一つは政治文化で、ロシアでは、妥協は対立を解決する美徳ではなく、弱さの表れと見做される、という。異民族(とりわけ中央アジアの遊牧民族)の侵略と支配を受けてきた歴史的なものを感じさせる。この点では中国にも共通するものがある。

 いろいろ考えさせられる。

 一つは、これだけ周囲の国々から厄介視され、それもあって、内に向けては偏執的なまでに反体制の策動に怯える独裁者の姿だ。権威主義体制の統治は盤石に見えて、正当性に関しては脆弱さと背中合わせだ(民主主義体制は何かと不安定でも国民の負託を受けているという一点で安定的であるのと対照的だ)。それはもう一つの、年齢にも関係するかもしれない。プーチン71歳(ロシア人男性の平均寿命68.2歳)、習近平70歳(中国人男性の平均寿命74.7歳)で、独裁者とは言え持ち時間は最大でも本人の寿命までであり、最近の誇大妄想的とも言える冒険主義や疑心暗鬼は年齢と無縁ではないだろうし、遠からず権力の移行があり、混乱があるかもしれない。ついでに、バイデン大統領81歳、トランプ元大統領77歳は、ともにアメリカ人男性の平均寿命76.3歳を超えており、さらに、クリントン元大統領77歳、ジョージ・W・ブッシュ元大統領77歳と、アメリカではここ30年間、オバマ元大統領62歳を除いて、1942~46年の間に生まれた方々が国家の顔となってきた。男性だからとか、女性だからと言ってはいけないように、年寄りだから悪いとは言わないが、あのアメリカにして余り健全だとは思えないが、余談だ。

 もう一つ、そうは言っても3月のロシア大統領選は無風の出来レースになってしまうということだ。そして私たちは年齢からくる予測不可能性に脅かされることになる。

 

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マエストロに捧げるG線上のアリア

2024-02-13 03:02:20 | スポーツ・芸能好き

 小澤征爾さんが6日、心不全で亡くなった。享年88。

 「世界のオザワ」について、クラシックが苦手な私に言うべきことはない。朝日新聞から引用する。「カラヤンに弟子入りし、1961年にはバーンスタインにも才能を認められ、ニューヨーク・フィルの副指揮者に。ウィーン・フィルやベルリン・フィルなど世界の名門楽団と共演を重ねた。(中略)カナダのトロント交響楽団を経て70年、米タングルウッド音楽祭の芸術監督とサンフランシスコ交響楽団の音楽監督に。73年から29年間、ボストン交響楽団の音楽監督を務めた。2002~10年にはオペラの最高峰、ウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた。02年には日本人指揮者で初めてウィーン・フィルのニューイヤーコンサートに登壇した。」(2月9日付)。なんと華々しい経歴だろう。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、9日、SNSに、指揮をする小澤さんの写真と共に「ベルリン・フィルはかけがえのない友人であり、当楽団の名誉団員でもある小澤征爾に心からの哀悼の意を表します」と日本語で追悼のコメントを投稿したそうだ。フランスのフィガロ紙は「クラシック音楽の魔術師、小澤征爾が死去」との見出しを掲げ、ルモンド紙は「西洋で指揮者として初めて成功したアジア人だ」と伝えたらしい。西洋音楽へのコンプレックスがある日本人にとって、これほど誇らしいことはない。

 私はただ、人生で唯一の接点である1997年の夏の一日を思い出すだけである。

 場所はボストン郊外、森の中のタングルウッド。ボストン交響楽団の演奏の中央に小澤征爾さんがいて、芝生が広がる広場では、人々が思い思いに音楽を楽しむ。芝生で寛ぐ若者たち。テーブルと椅子を持ち込んで、ワインを片手に耳を傾ける老夫婦。そして、アメリカ駐在中の私は、同僚家族とともに、レジャーマットを敷いて子供たちを遊ばせながら、ピクニック気分。なんと贅沢な時間だろう。

 1973年から2002年まで29年間にわたって音楽監督を務めたボストン交響楽団では、9日午後の公演で、小澤さんが生前、友人が亡くなったときに別れの曲として贈っていたというバッハの「G線上のアリア」が楽団員によって演奏され、そのまま静かに演奏の手をとめて黙祷を捧げたそうだ。そして、ボストン交響楽団が拠点とする音楽ホールでは、建物についた楽団の頭文字の「BSO」という看板の「B」の字の電気を消して「SO」とすることで小澤さんへの哀悼の気持ちを示したという。

 あの夏の日は永遠に。ご冥福をお祈りして、合掌。

 

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JALの新社長

2024-01-21 15:33:49 | ビジネスパーソンとして

 日本航空(JAL)が発表した4月1日付の新社長人事が話題だ。社長になるのは、女性、しかもCA出身者で初めてで、さらに2002年に経営統合した日本エアシステム(JAS)出身者としても初めてという、初めてづくしだそうだ。

 早速BBCは、日本政府は「2020年までに大手企業の女性役員比率を3割以上にする目標を掲げていたが、達成できず、期限を2030年に延長している」「2025年までに女性役員を最低1人選任するよう努めるべきだと提言している」、また、「日本の女性役員比率は2021年に13.2%と、経済協力開発機構(OECD)加盟国の中で最も低い。日本の女性役員の少なさについてOECDは2019年の時点から、『人材の致命的な配分ミス』があると指摘している」と書き添えた。毎度お馴染みの日本批判である。確かに、振り返れば画期的な出来事だが、今さらそんなに持て囃さないで欲しいという思いもある。

 新社長となる鳥取三津子さんは1985年の短大卒で、男女雇用機会均等法施行の前の年にあたる。当時、短大卒の女性は事務職として採用されると、男性社員の代わりにコピーを取ったり、当時はパワポなる便利なソフトがなかったものだから、OHPを使ったプレゼンのために透明材料のOHPシートに色付きセロファンを貼り付けたり、といった補助的な仕事をする、ある意味で(当時の世相に皮肉を込めて)優雅な、また、午前10時と午後3時に部員にお茶をいれて配る「お茶当番」をしたりという、今では考えられない長閑な時代だった。スチュワーデスと呼ばれたCAは、そんな中では女性らしさを発揮できるからだろうか、才色兼備の女性憧れの花形職業と見做されていた。TBSのドラマ『スチュワーデス物語』(1983年)や、古くは同じTBS系の『アテンション・プリーズ』(1970年)がスチュワーデス人気を無闇に盛り立てた側面もある。実際には立ちっ放しで時差ボケがあり我儘な乗客の御用聞きもする肉体労働者だと卑下する声もあったが、日本のフラッグシップとも言うべきJALのCAはプライドが高く、(あくまで相対的に)高齢化していたのに対して、全日空(ANA)のCAは若くて対応が良いと評判で、私の周囲で海外出張が多いFrequent FlyerはANA派に切り替えるというように、飛行機会社の人気を前線で支える存在だった。

 その意味でも、今回の人事発表は、なかなか変わらないニッポン(ガイジンから見ての日本という意味でカタカナ書きにした)が変わりつつある象徴と言えそうだ。当時の世相から想像するに、鳥取さんは優秀な女性だったに違いない。かつてなら、いくら優秀でもある年齢を過ぎれば肩叩きにあったことだろう。しかし、その後は普通に総合職としての女性採用が、また管理職への女性登用が進んできたことだろう。そのため、CAで初というような言われ方は、今後はもうなくなることだろう。

 その後、JALは、CAのプライドが高く、高齢化していたという噂と関係があるかどうか知らないが、2010年に経営破綻し、「経営の神様」稲盛和夫さんが経営に参画して改革に辣腕を振るわれ、再生した。その点からも、今回の人事は順当だと評する声がある。

 当時、JALの役員は東大出が多く、稲盛さん曰く、「私のような地方大出身のもともとは中小企業の社長のようなタイプとは全く違います。自分たちは最高の高等教育機関で経営学を学んだと自負していて、『人として何が大事か』というような私の哲学をすんなりとは受け入れません」(JAL再生過程における社内文書での言葉)という状況だったそうだ。稲盛さんが植え付けた経営スタイルは「現場主義」で、まず整備の現場を歩んできた大西賢氏を社長に指名し(自らは会長に就任)、その後任にパイロット出身の植木義晴氏、次いで現社長で整備畑出身の赤坂祐二氏、そして今回、CA出身の鳥取さんへと引き継がれる。

 逆に、経営企画や子会社経営の経験がないことを不安視する声もある。JAL関係者によれば、社長の有力候補としては他に、営業企画のエースでグループCFOの斎藤祐二取締役専務執行役員(59)と、総務本部長の青木紀将常務執行役員(59)がいたそうで、今後は、現社長の赤坂氏が会長として経営に目配りし、斎藤氏や青木氏が実務をサポートする体制を予想する声もある。今どき、創業者の社長でもない限り、経営の隅から隅まで知悉する者などいないだろう。そうした不安を慮ってか、赤坂現社長は、「これからの経営は、いろんな人達の力をいかに引き出せるか、にかかっているのではないかと思います。事業が多様化しているなかで、これからはチーム経営が重要だと思います。そういう意味では長年安全・サービスを担当していた鳥取さんはふさわしい人物だと考えています」と説明された。

 鳥取さんが入社した年には、JAL123便が御巣鷹の尾根に墜落し、520人が死亡するという痛ましい事故があった。そして、今月2日には、JAL516便が羽田空港で海上保安庁の航空機と衝突し、海上保安庁側は搭乗者6人中5人が死亡したが、JAL側は乗客・乗員合わせて379人が全員、奇跡的に脱出する事故があった。JAL所属の機体が起こした全損事故はJAL123便以来のことで、何やら因縁めく。JAL516便のCAの対応が評価されているタイミングで鳥取さんの社長就任を公にするのは巧妙だと舌を巻く関係者の声もある。

 今なお大企業でも、同じ程度に優秀なら女性を引き上げろ、という不文律がある。それを逆差別だと受け止める男性もいるかも知れない。こうした不毛な「女性だから」という議論は、そろそろいい加減に止めにしたいものだ。だから、鳥取さんの次の発言は頼もしい。その自然体のご活躍を期待したい。

「安全運航は引き続き揺るがぬ信念をもって、取り組んでいきたいです。また、JALは社会の役にたっている、献身的で、楽しそうな会社だなと思ってもらえるように取り組んでまいります。心から働きたくなる、そして一人ひとりの能力が発揮できる場となれば、必ずお客様に選ばれるエアライングループになると思います。あまり女性だからとは思っておらず、自分らしくやっていきたいです」

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永遠の舟歌

2024-01-12 03:01:12 | スポーツ・芸能好き

 演歌歌手の八代亜紀さんが急逝された。享年73。

 今日の日経新聞・春秋は、「特殊な声帯をお持ちです」との引用文で始まり、「喉を酷使してのガラガラ声ではない。生来ハスキーボイスになる声帯の形なのだという。医師にそう告げられ、驚いたと八代亜紀さんは自伝で語っている。」と続けた。経済新聞が一人の演歌歌手の死を惜しむのは異例である。そして、こうも書く。

(引用はじめ)

 「〽雨雨ふれふれ」ときたら「かあさんが」と続く。そんな常識を「もっとふれ」に塗りかえたといわれた大ヒットが「雨の慕情」だ。海鳴りのごとく響く「舟歌」も世代を超える人気曲に。

(引用おわり)

 会社の同僚の一人は、子供の頃、「おさけはぬるめのかんがいい~」「しみじみのめばしみじみと~」などと大声で歌っていたらしい。「舟歌」は1979年発売だから、計算すると3歳!?だったことになる(微笑)

 斯く言う私は、演歌に興味はないし、八代亜紀さんのファンでもない。そう意識したことはないし、子供心にNHK紅白歌合戦で見た(注目した)記憶もない。しかし、この若さで亡くなったという事実を突きつけられると、世代は違えど同時代を生きてきたご縁という言葉では片づけられないほどの喪失感がある。振り返ると、デビュー作はともかく、出世作の「なみだ恋」(1973年)、代表作の「舟歌」、日本レコード大賞受賞作の「雨の慕情」(1980年)くらいは、歌詞を見なくても一番だけなら歌える。それだけ1970年代は(演歌を含む)歌謡曲の全盛期で、テレビやラジオで流れる曲をいつの間にか口ずさめるほど、音楽が身近にあり、八代亜紀さんはその代表的な歌姫だったということだろう(ついでに言うと、すぐに覚えるほど子供は記憶力が良いということでもあるのだろう、今なら絶対無理だけど)。それもそのはず、Wikipediaによると「演歌歌手では珍しく全盛期の楽曲全てが連続ヒットし、女性演歌歌手の中では総売上枚数がトップ」だそうだ。また、「熊本県八代市出身。地元のバスガイドを経て、上京して銀座のクラブで歌ううち、スカウトされた」(1月9日付 朝日新聞)くらいのプロフィールなら私でも知っている。

 その銀座のクラブで歌うようになると、ホステスたちから「あきちゃんの歌には哀愁がある」と好評を得たそうだ(Wikipedia)。学生時代には、音楽の授業で教師から「そんな声出しちゃいけない」などと言われ、ハスキーな声にコンプレックスを感じていたそうだが、銀座のホステスや客たちから褒められたことで、「自分の声はいい声だったんだ」と気づき、自分の声を好きになったという(同)。確かに、いわゆる演歌歌手として、こぶしが回って歌がうまい、という感じではなく、ハスキーでドスが利いて、それでいて艶があるところが、トラック野郎を中心に受けていたのだろうと、今にして思う。演歌歌手とか演歌の歌姫と言うよりブルースの女王と呼ぶべきかもしれない。

 数ある作品の中で、私が一番好きなのは実は「ともしび」(1975年)である。これも一番だけならソラで歌える。・・・とまあ、結局、私も隠れファンだったのだろうか??? 

 所属事務所は公式サイトで発表した追悼文で、「代弁者として歌を歌い、表現者として絵を描くことを愛し続けた人生の中、常に大切にしていた言葉は『ありがとう』でした」と総括された。「代弁者」の意味は、デビュー当時から、「レコーディングでは、歌っている時の自分の顔を誰にも見せない」ということを決めており、その理由は、「私は辛い人や悲しい人、苦しい人の代弁者のつもりで歌ってきました。歌入れの時はそういう人の表情になっているはずで、それを見られるのは恥ずかしいから」という本人の弁(Wikipediaより)に示される。「表現者」の意味は、画家志望だった父親の影響で、小学生の頃は将来画家になるつもりだったそうで、40歳頃に油絵の質感に惚れ込んで人に師事し、その後フランスの由緒ある「ル・サロン」展に1998年から5年連続入選し、日本の芸能人として初の正会員(永久会員)になるなど活躍された(同)ところに表れる。歌と絵について本人は、「歌うことも絵を描くこともエネルギーがいるけど、私の場合は歌という肉体労働で酷使した自分を、絵を描くことでマッサージしている感じ」と評している(同)そうだ。最後に「ありがとう」については、優しく面倒見の良い両親の影響もあり、若い頃から色々とボランティア活動をしてきた(同)そうで、その一環として、長年、老人ホームや福祉施設、女子刑務所の慰問公演を続けていたり、2011年の東日本大震災や2016年の地元・熊本地震の後、何度も被災地を訪れて様々な支援活動を行っていたり、ということを踏まえると、スポニチが記事で「歌を愛し、人を愛し、常に感謝の思いを大切にしていた八代さん。最後まで周りのスタッフ、そして病院の関係者すべての人に『ありがとう』を伝えていた」と書いたこともよくわかる。結局、心に染み入る歌声と、そんな人柄が滲み出ていたことが、多くの人に愛され、惜しまれる所以だろう。

 感謝の気持ちをお返しに、心よりご冥福をお祈りしつつ、合掌。

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2023年回顧・野球の神様

2024-01-06 02:53:10 | 時事放談

 冴えない世相でも、日米のプロ野球界には神風が吹いているようだった(日本人にとって)。WBC優勝に始まり、メジャー本塁打王、二度目のMVP、10年総額7億ドルでドジャース移籍と、大谷翔平に明け暮れた一年に吹き続けたのは、野球の神様が吹かせた神風であろうか。

 MLB公式YouTubeチャンネルが2023年に投稿した動画の中で、断トツの再生回数を誇るのはWBC決勝の日本-米国戦だそうだ。今、見ても涙がちょちょ切れる私のような日本人が多いのだろうか(笑)。振り返ると、その日、オフィスで打合せから自席に戻って、何気なくYahooスポーツの一球速報を覗いた私は、戦慄した。ほんまに野球の神様がいると思った。9回裏2アウト、ランナーなしで、大谷とトラウトの一騎打ち。WBCで大谷の投球を受けた甲斐拓也が「独特ですし、回転もちょっと違いますしね。低いところから高いところに吹き上がって、曲がってくる。普通であれば下に落ちていくと思うんですけど、下に落ちない。吹き上がってくるっていうのが一番の特徴かなと思います」と言うスイーパーが決め球となった。思わずオフィスで静かにガッツ・ポーズ。宮崎での強化合宿中、栗山監督は「WBC決勝戦。最終回のマウンドには“ある投手”がいて、ガッツポーズしているイメージがあるんだよね」と語っていたそうだが、夢が、これ以上は考えられない状況設定のもとで現実となった。

 勝負そのもので痺れるシーンが多かったのはもとより、本番前の楽屋裏で侍ジャパンのメンバーに与えたインパクトも鮮烈だったようで、そのエピソードも印象深かった。中でも大谷翔平のフリーバッティングが話題で、推定160メートルの衝撃の飛距離に、「言葉が出ない。初めて感じたことがいろいろありました」(村上宗隆)、「噂は聞いていたんですけど目の当たりにするとビックリしましたね」(岡本和真)、「ぶったまげたっすね。一言で言ったら」「飛距離もすごいですし速度もすごかったので『ヤベー』としかみんな言っていないですよ」(万波中正)と感嘆の声を上げたのは、素人ではなく同じプロの選手たちだ。ブルペン捕手としてチームに帯同した鶴岡慎也氏が、大谷と他の選手の差を評して、「プロの1軍と2軍ほど違う」と言うよりも、「プロ野球選手と高校球児ほど違う」との表現の方が妥当だと言うほどだった。ファンサービスと言うより、日本の球界を代表するスターたちに文字通りに見せつけ、良い意味で刺激を与えたかったのだろう。日本人でもパワーをつければここまでできる、と。

 お陰で、日本プロ野球史上最年少三冠王の村上ですら、ショックから打撃不振に陥ってしまった。自分の前(3番)を打つ打者(大谷)があんな打球を飛ばし、自分の状態が上がらなくて、前の打者が申告敬遠されるような経験は衝撃だったろう。焦燥が募ったに違いない。5番に下がった準決勝メキシコ戦、1点ビハインドの9回裏に走者一・二塁の好機で打順が回って来たときには、この日3三振の村上に代えて牧原大成を代打に送る(犠牲バントで進塁させる)作戦も考えられたようだが、ぎりぎりのところで、「ムネに任せるわ」との栗山監督のメッセージを打席に向かう村上にわざわざ伝えさせ、迷いが吹っ切れた彼から劇的なセンターオーバーの逆転サヨナラ弾を引き出した。栗山監督の人心の機微を捉えた采配も見事だった。

 他方、日本プロ野球界の締め括りは、阪神-オリックスという、1964年の阪神-南海(現ソフトバンク)以来、59年ぶり2回目の「関西ダービー」となった。大学卒業まで20年間、大阪に住んでいながら巨人ファンだった私には縁が遠く、阪神が38年ぶり2回目の「あれ」を手にしても上の空。悔し紛れに、カーネルサンダースの呪いはとっくの昔(2009年3月10日に救出)に解けているのに…と毒づく始末だった(苦笑)。当日午後10時現在、道頓堀川に7人が飛び込んで、いずれもケガはなかったそうだ。めでたし、めでたし。

 悔し紛れついでに、我らが岡本和真のエピソードにも触れておきたい。WBCからの帰国直後、「行く前は僕が試合に出るもんだとは誰も思わなかったでしょうし、そういう部分で自分が最後フィールドに立てて優勝、世界一を味わえたっていうのもありがたいことですし、野球って楽しいなって」「同時にもっとすごい人たちを見たので、レベルアップしないといけないなと思ったり、自分自身がちっぽけに思えるのはいいことだと思って、もっと頑張ろうって思いました」と殊勝に語ったそうだ。村上と違って何と牧歌的な、ムーミンのような大らかさは伊達ではないだろう(笑)。大谷の移籍を知ったときには、「あんな金額、1人が稼ぐ数字じゃないでしょ。企業やん。社員が何万人かいる大企業でしょ。えぐい。ヤバい。ホンマの企業ですよ、1000億って…」「そんな人と一緒に野球やったんだなって。すごいでしょ? すごくないすか?」と岡本節をぶちかましている。やや天然気味に微妙に外してくれるところがカワイイ。

 その大谷のLAドジャースへの移籍は、ア・リーグ本塁打王と自身2度目のMVPを引っ提げていたとは言え、右肘じん帯を修復する手術を受けて治療中の身でありながら、総額7億ドル(1015億円=入団合意時の為替レート)という破格の待遇になることが驚きを以って報じられた。これに絡めて、投手ができない間も打席に立ち続けられる・・・これこそ(野球好きの彼の)二刀流たる所以だと、栗山氏は納得されたものだ。しかもその契約内容は、実に97%の6億8千万ドル(994億円=同)が後払いで、それでも来季から2033年までの10年間の年俸が2百万ドル(約2億9000万円=同)に達するのも話題になった。入団記者会見では自身が、「自分が今受け取れる金額を我慢して、ペイロール(年俸の支払い)に柔軟性を持たせられるのであれば、僕は全然後払いでいいというのが始まり」と解説している。そして、勝つことの優先順位を問われて、「野球選手としてあとどれくらいできるか、誰にもわからない。勝つことが僕にとって一番大事なこと」と答えた。この後払いが山本由伸のドジャース入りを呼び込んだと言えなくもない。来年こそ、ワールドシリーズのマウンドを期待したい。

 この年末に、こうした喧噪を総括するかのように、WBCの裏側を収めた映画「憧れを超えた侍たち 世界一への記録」がテレビ朝日系列で地上波初放送された。タイトルはもちろん、決勝の試合前に大谷が語った名言に因んでいる(下記に採録)。この映画のラストシーンとなった大谷の最後のセリフ「俺のグローブどこ?」の「俺のグローブ」がXでトレンド入りしたらしい。決勝戦の9回裏、トラウトをスイーパーで空振り三振に仕留めて世界一を決め、帽子とグラブを放り投げて感情を爆発させた、あの場面である。ファンから、「どこまでかわいいの」「思いっきり投げてましたよ」「急にかわいいキャラになるのなんなん」「この名言は来世まで伝えていきたい」など様々な反応があった中で、大谷が全国の小学校にグローブを寄贈すると発表したことから「全国の小学校に散りました」という投稿もあったそうだ。確かに、あのグローブは形を変えて、「野球しようぜ!」という大谷の思いを乗せて全国の小学生のもとに届けられたのだろう。野球の神様も満足気に微笑んで、暖かく見守っておられることだろう。

 「憧れるのをやめましょう。ファーストにゴールドシュミットがいたり、センター見たらマイク・トラウトがいるし、外野にムーキー・ベッツがいたりとか、野球やっていれば誰しもが聞いたことがあるような選手がいると思うんですけど、きょう一日だけは憧れてしまったら超えられないんで、僕らはきょう超えるためにトップになるために来たので、きょう一日だけは彼らへの憧れを捨てて勝つことだけ考えていきましょう。さぁ行こう!」

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