友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

とんでもない国になってきた

2016年12月15日 18時15分05秒 | Weblog

 とうとうカジノ解禁法(IR整備推進法)も年金抑制法も可決された。徹底抗戦すると言いていた民進党は何をしたのだろう。衆議院で内閣不信任案を提出したが、与党が過半数を占めているから「粛々」と否決された。反対討論に立った自民党議員から「委員会や本会議で欠席ばかり、国民の負託に応えているとは到底言い難く、大変嘆かわしい。国会は国の唯一の立法機関として、法律を審議する場であり、賛成か反対かを国民の前でわかりやすく示すことです。欠席ばかりでは結果は残せません」とまで揶揄されている。

 論戦できないのであれば、懲罰覚悟の非暴力戦術だってあったはずだ。蓮舫代表は「数があればなんだってできる」と泣いたそうだが、まずは民進党内の考えをひとつにすることだろう。それにしても、負けた人がいないと収益が上がらないギャンブルで金儲けをしようなどと政治がすることではない。みんなが豊かな生活を送られるようにするのが政治の役割なのに、負けた人から金を取り上げ、生活困難者に仕立てることを政治が行うとはなんと情けない国家なのか。

 オスプレイが名護沖で墜落したが、アメリカ軍は不時着事故と言う。そればかりか、抗議に出向いた副知事に対して米軍の責任者は机をたたく勢いで、「パイロットは県民に被害を与えなかった。感謝されるべきだ」と言う。米軍からすれば、日本を守っているパイロットが民家に落ちないように海に不時着したのだということだろうが、被害がなかったこともパイロットが無事だったこともよかったが、そもそも米軍が駐留していなければ事故はないわけで、日米同盟こそが元凶と言える。

 米軍の将校も、内閣不信任案の反対討論を行った自民党議員も、「オレたちが支配者」と無意識に思っている。「文句があるなら言ってみろ」と言うけれど、それで正直に文句を言えばズドーンと殺されそうだ。どういう人たちが権力を握っているのか、もっとよく見極めなくちゃーいけないし、普通の市民の声が届くような政治の仕組みに変えないと、ますますとんでもない国になってしまう。

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労働時間の短縮を

2016年12月14日 18時18分59秒 | Weblog

 保育園で3歳以下の幼児を担当している友人が、「朝7時から夜7時まで、12時間も保育園にいるのよ」と言う。「ゴメン。それをお願いしたのは私なんです」と私。長女は子どもを保育園に預けていたが、同じ保育園に子どもを預ける働くお母さんたちと一緒になって、延長保育に取り組んでいた。仕事を終えて夕方5時までに迎えに行くのは困難だからだ。

 私も共働きで、子どもを祖父母に預けて職場へ行っていたので、彼女たちの悩みは理解できたから議会で延長保育を提案した。その時、保母さんから「子どもたちがかわいそう」と言われた。子どもたちにとっても親と一緒に過ごせる方が幸せである。けれど、そういう世の中になっていないのだから、過渡期的に延長保育を行うこともやむをえない。もっと労働時間が短くなって、家族が一緒に過ごせる社会にすべきだ。

 これだけ高度成長を遂げてきたのに、どうして労働時間の短縮が取り組まれないのだろう。大手の企業ですら残業時間が増えているという。一日8時間労働を6時間に短縮し、労働時間帯も選べるようにすれば、企業の営業時間は変更することもない。一か月にどのくらいの収入があれば普通の生活ができるか、そのくらいの計算は出来るのだから、みんなが生活できる制度にすればいい。

 最低収入の倍も、いや何十倍も何百倍も収入がある人がいるのだから、そういう人からホンの少し収入の少ない人に回しても決して困ることはないだろう。今日は「赤穂義士の討ち入りの日」。先日の古舘伊知郎さんの番組ではこれまでの史実とはかなり違っていたが、いつか新しい発見があるように、労働時間の短縮も日の目を見ることもあるだろう。討ち入りを果たして再就職したかったはずが、切腹となってしまったこともあるから、歴史がどう動いていくのか定かではないけれど‥。

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女性たちがダンナのことを怒って話していた

2016年12月13日 17時25分49秒 | Weblog

 朝の喫茶店は老人たちが多い。昨日は孫娘のクリスマスプレゼントを買うために、近くの大型店に行った。こちらも平日だったから年寄り夫婦が結構いたが、やはり主な客は女性たちで、母と娘が友人同士より多いような気がした。赤ん坊を抱きかかえていれば母と娘と分かるけれど、女同士で歩いているとどっちが母親だろうと思うくらい歳の差が分からない。

 喫茶店で私の後ろでまだ若い女性がふたり、ダンナのわがままについて怒っていた。「酔っぱらって『車の運転が出来ないから自転車で迎えに来い』と言うので、その店まで行ったら、『自転車をそのまま置いて運転して行け』と言うのよ。『じゃー、明日の朝、私は仕事に行けないじゃん』と言うと、『そんなら自転車にオレが乗って帰る』と言うんだけど、自転車に乗れないくらい酔っぱらっていてフラフラだから、『もういいから乗って』と車に乗せたら高いびきで、ホントに腹立った」と言う。

 「ウチの人も勝手なのよ。お母さんにはいい子ぶってて、『ハイ、ハイ』と何でも聞くのに、私が頼むと『そんなことも出来ないのか』って聞いてくれないし、こんなに子育てで忙しいのに全く協力する気がないの。『たまには手伝って』と言ったら、『オフクロは何でも一人でやって来た』とお母さんを引き合いに出してくるの。『お母さんは専業主婦だったじゃないの。私は働いているのよ』と言ったら、『じゃー、やめたら』だって。それで食べていけるならいつでもやめたいわ」とこちらも負けていない。

 NHKの『あさイチ』で、「家に帰りたがらない夫」を特集していた。昔なら仕事の後、仲間と飲みに行くケースだが、最近は家にすぐ帰らずにゲームセンターや喫茶店で2・3時間過ごしてから帰るという。家に自分の居場所がないとか、迎え入れてくれる雰囲気がないのが理由のようだ。夫婦でいながら疎遠な関係だが、離婚までは考えてはいないそうだ。相手に対する気持ちがズレてしまうことはあるだろう。修復には時間がかかる者かも知れない。

 今晩はおたすけの忘年会です。

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男はやっぱり男だから

2016年12月12日 17時49分53秒 | Weblog

 テレビドラマ『漱石悶々』を観て、笑ってしまった。もちろん、ドラマだから本当のことではないのだろうが、脚本を書いたのが女性だったから、そう思って観ていたのかも知れない。私も胃潰瘍だったことがあるから、漱石の苦しみはよくわかる。胃が切り裂かれるように痛い。死んだ方が楽になれると何度思ったか知れない。仕事から解放されたらコロリと無くなってしまった。その代わり、インポになって慌てた。

 漱石は弟子や友人と一緒にいる時は何も考えずにいるから楽なのだろう。妻の一言や緊張する相手と対面する時は、極度に身構えてしまうから胃が刺すように痛む。ドラマの中でも度々胃痛に悩まされていたが、ある時余りの激痛に倒れ込んでしまう。それは確か、漱石が恋心を抱いて悶々とした気持ちが極度に高まった時だったと思う。そう、漱石は口やかましい妻の元から離れて京都に遊びに来ていて、置屋の女将に恋してしまったのだ。

 襖を隔てて二人が会話をする場面では、それ以上の進展は見られなかったが、ここで女将が「そちらにいってもよろしゅうおますか」と声をかけたら、漱石は待っていたという素振りを押さえて、「どうぞ」と答えただろう。そうして二人が一夜を過ごしたなら、漱石の胃潰瘍もたちまち治ってしまったかも知れない。男と女はそれでいいだろう。漱石は才覚のある女将に心惹かれていたし、女将も漱石の純朴さが嫌ではなかったはずだ。

 「時には娼婦のように 淫らな女になりな 真赤な口紅つけて 黒い靴下をはいて」と黒沢年雄が歌ったのを思い出す。「バカバカしい人生より バカバカしいひとときがうれしい」と続く。「時には娼婦のように 下品な女になりな 素敵と叫んでおくれ 大きな声を出しなよ 自分で乳房をつかみ 私に与えておくれ まるで乳呑み児のように むさぼりついてあげよう」と、きっと漱石もそう思ったはずだ。どんなに偉い文豪でも男はやっぱり男だから。

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閉め出され寒風に耐える

2016年12月11日 17時40分49秒 | Weblog

 ひゃー、凍え死ぬところだった。空気は冷たかったけれど、どうしても大きな鉢の土を今日中に入れ替えたかった。朝から作業にかかり、昼食をとって再び始めた。ガラス戸の向こうからカミさんが「トントン」と叩いて、出かける合図を送って来た。古い根を切り落とし、肥料と赤玉土を混ぜ込んだ新しい土を入れ、残った土もきれいにして次に使えるように土作りをする。植え込みが終る頃はさらに風が強くなってきた。よし、今日はここまでと全てを片付けて部屋に入ろうとするが鍵がかかっている。

 カミさんが出かける時に無意識のうちに施錠したのだ。どこか鍵が開いているところはないかと探したが、北の部屋も鍵がかかっている。夏と違って冬は風が強いので、ガラス戸に隙間が出来ないに施錠してしまう。これは困った。管理事務所に電話をして、開けてもらうことは出来るが、それではカミさんが恥をかくし、友だちに頼んでも同じことだ。こうなったらカミさんが戻るまで待つしかない。

 風はますます強くなる。風を遮るところを探すが、吹き返しもあってどこにいても寒い。太陽が射してくれば暖かいのに、雲に隠れて顔を出さない。このままじっとしていたら体温が低下してしまう。登山をしたことはないが、山で死ぬ人は低体温が原因だったと思い出し、とにかくカミさんが帰って来るまで歩き続けることにする。歩けるうちは死ぬことはない。ルーフバルコニーを行ったり来たり2時間半ほど歩き続けた。

 「トントン」とガラス戸を叩く音がした。振り向くとカミさんがいた。「まだやってるの?」と聞く。「鍵がかかっていて中に入れないんだ」と言うと、「ウソ!」と慌てる。「寒いから早く中に入れてよ」。開けてもらって部屋に入る。助かった。温かいコーヒーを飲む。カミさんは故意に施錠した訳ではないから、怒る訳にはいかない。これが逆でなくてよかった。うっかりしてそんなヘマをやったりしたら、雷が落ちるだろう。

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「命」がどんどん軽くなってきている

2016年12月10日 17時51分00秒 | Weblog

 悔しいというより、情けなくて、何も考えられないのではないだろうか。結婚もせず、弟と妹とも断絶し、利権に絡んで私腹を肥やしたりもせず、孤独に生きてきたのに、どうしてなのかと思索しようとしても前には進めない。みんな離れていった。自分を大統領の地位に祭り上げた人たちまでも、大声で非難する。いったい何があったのか、朴大統領は何も考えられない、そんな気がする。

 韓国の国民は凄い。日本でも「安保関連法案」が国会で審議された時、多くの学生や主婦や高齢者が法案に反対するデモを行ったが、韓国のデモは規模が大きいし、継続している。デモで政権を倒した経験があるからだろうか。日本では60年安保も、70年安保も、そして今回の安保関連法の時も、確かに大きなデモがあったが、これまで政権を揺るがしたことすらない。

 国会で強硬採決が行われ、民進党や共産党の議員が委員長席に詰め寄り「ダメだ、ダメだ」と叫ぶが、国民の目には「あんなことしか出来ないのかねえ」としか見えない。多数決が民主主義であるうちは「あんなことしか出来ない」のだ。安倍首相が言うように、「私の言うことが理解できないなら、何時間審議しても同じ」なのだ。いやもっと言えば、法案が提案された時点で成否は決まっている。

 福島から横浜に転校してきた子どもがいじめられた。新潟でも原発から避難してきた子どもが担任から「菌」をつけて呼ばれた。横浜の子が「新潟の子に学校は謝ったのに、どうしてこっちは謝ってくれないの」と弁護士に話している。謝れば済む訳ではないが、それなりの立場にある人はなかなか素直に謝らないのが常だ。先生が問題を起こしても、現れるのはいつも校長や教育委員会で当事者でないのも不思議だ。

 弾劾が決議された。罪状がハッキリしたなら、朴大統領は自殺するような気がする。軍人の娘の取るべき道はそれしかないだろう。あちらでもこちらでも、「命」がどんどん軽くなってきている。

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今日は漱石没後百年だって

2016年12月09日 18時26分56秒 | Weblog

 新聞やテレビで12月7日は真珠湾攻撃から75年と報じられていたが、今日は夏目漱石が亡くなって100年という。漱石が亡くなってからわずか25年で日米開戦だったのかと、ちょっと驚いた。漱石は明治の文豪と思っていたが、明治から日米開戦まではこんなにも短いのだ。明治維新によって、西洋と肩を並べる「富国強兵」を目指した日本だったが、その結果、日米開戦に突入しもう一度新しい国に脱皮することになった。

 漱石は俳句を嗜んだが、戦前の教養人らしく漢詩も作っている。「秋風鳴万木 山雨揺高楼 病骨稜如剣 一灯青欲愁」。どう読むのか忘れたが、漢字を見ればなんとなく言いたいことが分かる。漱石は胃潰瘍で病床生活を送ったと言われているから、そんな時の詩であろう。「秋風に無数の木が鳴いている 山の雨に高い建物も揺れている 背骨は角張って剣のようだ 一筋の青い灯火が悲しい」という意味だろう。

 漢字というものは面白いと思う。もともと絵から出来た文字なので、字を見れば意味を察することが出来る。漢字はいくつかの字の組み合わせでもあるから、ひとつ一つの意味が分かれば漢字の意味も推測できる。中国人が「漢詩」をどのように読むのか知らないが、音読よりも書いた漢字を見る方が情景や伝えたいことが分かるような気がする。

 漱石が演説したかは知らないが、文筆家で演説がうまい人を私は知らない。学生の時、大江健三郎さんの講演を聞きに行ったけれど、ボソボソと言うだけでさっぱり分からなかった。文章がうまい人はどうも書き言葉に頼るから、話し言葉が出てこないのではないかと思う。西洋には名演説家がいるのに、漢字社会には名文家はいても名演説家はいないような気がする。

 さて、明日の晩は漱石が愛してしまった女性を宮沢リエさんが演じるドラマがあるという。どういうドラマなのか、見てみたい。

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鉛筆の持ち方、箸の持ち方

2016年12月08日 17時46分07秒 | Weblog

 テレビを見ていた私が、「この子の鉛筆の持ち方はダメだな」と呟くと、つかさずカミさんから「何を言ってるのよ。あなただって書き順が間違っていてもきれいに書ければいいと言ってるじゃーなの」と叱られてしまった。今、学校では鉛筆の持ち方とか箸の持ち方とかを教えないのだろうか。

 鉛筆を正しく持てば、きれいな字が書ける訳ではないだろうが、なぜか気になった。箸の持ち方もそうだが、外国人が奇妙な持ち方で魚をほぐして食べているのを見ると、食べられるなら持ち方はどうでもいいのかとさえ思えてくる。私たちの子どもの頃はどうしてあんなに「持ち方」に厳しかったのだろう。

 漢字の書き順についても厳しく教えられたが、余りにも先生が厳しかったので私は反発して、きれいに書ければいいじゃーないかと指導を無視した。ところが大人になって、書を書く時、「押さえる、跳ねる」が分からないことに気付いた。それからでも書き順の練習をすればよかったのだが、もう取り返しがつかなかった。

 鉛筆の持ち方も、箸の持ち方も、多分、「形の美しさ」にこだわる日本人だからだと思う。その美意識が変わってきたのなら、それはまた仕方のないことだ。名古屋市長の河村さんが「名古屋城の天守閣を木造で再現したい」とこだわっているが、なぜ今木造で造るのか私には理解できない。あったものなら後世へ保存する意味があるけれど、焼失しコンクリートで復元した天守閣を木造に造り変えることに意義が見出せない。

 「形」にこだわる日本人だから、コンクリートではなく木造ということだろうけれど、本人が趣味で行うなら「どうぞご勝手に」と言えるけれど、多額の税金をそんなことに使う必要はないだろう。「形」のこだわり方がズレてきているような気がする。これは「生き方」の反映なのかも知れないと、最近の世相を眺めてそう思う。

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「みんなちがって みんないい」

2016年12月07日 18時26分36秒 | Weblog

   スターキャットのスタジオでキャスターの山口千景さんと話した。山口さんは話を聞くのがうまい。それに先回は私ひとりだったけれど、今回は3人いるので仲間うちで話すような雰囲気だった。けれど、何を話したかとなると思い出せない。サブに徹したかと言えば、出しゃばり過ぎなかったとは思う。

 スターキャットの若いスタッフが、「今度、井戸掘りをする時はぜひ、お知らせください」と言うので、「その時は長靴を履いて、汚れてもよい服装で来てね」と言っておいた。若い人たちにとっては、井戸掘りは想像つかないことのようだ。放送では話さなかったけれど、児童公園に井戸を掘り手押しポンプを設置したけれど、出てくる水はきれいなのに、2・3日すると井戸の周りは鉄さびで茶色くなってしまうので、若いお母さんたちは「子どもによくない」と触らせないらしい。

 「これは鉄分で、触ったからと言って身体に悪いわけではありません。昔の人は、ポンプの口に木綿の袋をかぶせて鉄分を取り除いたんですよ」と説明しても納得しない。子どもの頃から、水は蛇口をひねって出てくる水道水しか知らないし、菌を殺すコマーシャルしか見ていないから、無菌であることが絶対のように思っている。しかし、私たちの身体の中にも菌はいるし、空中にも地中にも海中にも菌は無数にいる。

 人間にも強い奴もいれば弱い奴もいるし、美しい人もいればそうでない人もいる。いろんな人がいることを認めるから人への思いや優しさも生まれてくる。私たちは井戸掘りだけでなく、地域のお祭りにも参加しているが、3歳くらいの子から80歳近い人まで幅広い。互いが出来ないところを自然とカバーしている。酒を飲んで、大ボラを吹いて、滅茶苦茶なことを言っているようでも、決して人の悪口は言わない。「みんなちがって、みんないい」と詠った金子みすゞの世界にいる。

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高齢者だって出来ることはある

2016年12月06日 18時11分42秒 | Weblog

 風が強くて外での作業は諦めた。それならと年賀状の絵を描いた。初めに鉛筆で下絵を描いて、孫娘の小筆を借りて墨汁で濃淡をつけていく。細かい作業をする時は眼鏡をはずした方がしやすい。最近は手紙を書く時も新聞や本を読む時も眼鏡が邪魔だ。細かな作業をしていると、手よりも目が疲れてくるような気がする。こうしてパソコンに向かっている時は眼鏡をかけないと画面が見えないが、きっとそのうち眼鏡なしの方が操作しやすくなるのだろう。

 最近、高齢者の交通事故がテレビでよく取り上げられる。高速道路で逆走したり、ブレーキとアクセルを踏み間違えて店舗に突っ込んだり、どうしてこんなことが起きるのと思うような事故が多い。その悲惨な状態を見せられると、運転するのが怖くなる。私も高速道路を走っている時、標識が近くにならないと読めない。夜間は特に分からないから、逆走運転も起きるのだろうか。

 私は昨年、うっかり運転で追突事故を起こしてしまい、それから運転するのが嫌になった。長い間事故もなく、みんなが信頼してくれる安全運転だったのに、何だかその自信までも無くしてしまった。スピードは出さないが運転は好きな方で、長距離も平気だったのに、最近は運転しないならその方がいいとさえ思うようになった。こんな風に、あれもしない、これもやめようでは、ますます本物の高齢者になってしまう。

 明日はケーブルテレビ『スターキャット』の午後4時からの生放送に、NPO「おたすけ」の3人で出演する。井戸掘りに興味を持った『スターキャット』が、「どういうメンバーで行っているのか?」と聞くから、「72歳の私が一番若い、高齢者ばかりの仲間です」と答えたところ、「ぜひ、スタジオで話を聞きたい」というので、みんなで出かけることにした。年寄りが地域に貢献できることもあるという例のひとつになればと思う。

 「もう、恋愛も出来ない」と自爆した年寄りがいたが、何かに夢中になっていると歳を取ることも忘れる。明日はどんな話が出来るのだろう。サブに徹しなきゃーと思っているのだが‥。

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