友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

鉛筆の持ち方、箸の持ち方

2016年12月08日 17時46分07秒 | Weblog

 テレビを見ていた私が、「この子の鉛筆の持ち方はダメだな」と呟くと、つかさずカミさんから「何を言ってるのよ。あなただって書き順が間違っていてもきれいに書ければいいと言ってるじゃーなの」と叱られてしまった。今、学校では鉛筆の持ち方とか箸の持ち方とかを教えないのだろうか。

 鉛筆を正しく持てば、きれいな字が書ける訳ではないだろうが、なぜか気になった。箸の持ち方もそうだが、外国人が奇妙な持ち方で魚をほぐして食べているのを見ると、食べられるなら持ち方はどうでもいいのかとさえ思えてくる。私たちの子どもの頃はどうしてあんなに「持ち方」に厳しかったのだろう。

 漢字の書き順についても厳しく教えられたが、余りにも先生が厳しかったので私は反発して、きれいに書ければいいじゃーないかと指導を無視した。ところが大人になって、書を書く時、「押さえる、跳ねる」が分からないことに気付いた。それからでも書き順の練習をすればよかったのだが、もう取り返しがつかなかった。

 鉛筆の持ち方も、箸の持ち方も、多分、「形の美しさ」にこだわる日本人だからだと思う。その美意識が変わってきたのなら、それはまた仕方のないことだ。名古屋市長の河村さんが「名古屋城の天守閣を木造で再現したい」とこだわっているが、なぜ今木造で造るのか私には理解できない。あったものなら後世へ保存する意味があるけれど、焼失しコンクリートで復元した天守閣を木造に造り変えることに意義が見出せない。

 「形」にこだわる日本人だから、コンクリートではなく木造ということだろうけれど、本人が趣味で行うなら「どうぞご勝手に」と言えるけれど、多額の税金をそんなことに使う必要はないだろう。「形」のこだわり方がズレてきているような気がする。これは「生き方」の反映なのかも知れないと、最近の世相を眺めてそう思う。

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