友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

待つことから

2012年02月09日 19時20分29秒 | Weblog

   待つことを 我は選びぬ 夜の街に 風と風との 出会ふ音する   

 

 歌人の栗木京子さんの作である。解説がないので間違っているかも知れないが、恋の歌であろう。どんなに努力しても届かない恋もあるから、諦めなければならないが、努力と諦めの次に考えられるのは待つことである。この歌では、待ち合わせの時間が過ぎているのにまだ恋人が来ない、それでもう少し、あと10分待ってみようと決めた。夜の街には風が吹いてきて、そんな風が出会う音がする。寒い、早く来て欲しいと恋人を待っているのだろうが、恋の成り行きを待っているとも取れる。

 この歌に触発されて、私も作ってみた。

 

   山茶花に 冷たき風が 突き当たり 春待つ我は 身も凍るよう

 

   待つだけが ただひとつの 道ならば 春まではあと 少しとぞ思う

 

 短歌は31文字で作らなくてはならない。俳句のような17文字に比べれば、14文字も余計に使えるのだから、感情をこめることができる。私には俳句は短すぎて、標語のようで伝え切れない。短歌はわずか14文字多いだけで、情景の描写だけでなく、心の内を匂わせることができる。栗木さんの歌が恋人を待っているのだと思ったので、私は恋人を春にたとえてみようと思った。寒風の中で咲いている山茶花、見ている私は春を待ち望んでいるが身体は凍りつきそうだ。待つ以外に手立てはない。待てば必ず春は来るだろう。

 けれども待つだけの恋は悲しい。そこで、

 

   苛苛と 待つだけの愛 寂しいと 告げてみたいと 時には思う

 

 こんな風にストレートな表現よりも、春を待つという方がいいのだろうか。情景描写だけなら

 

   雪道に 山茶花の咲く 垣根あり 赤い花にも 雪積もりたる

 

   次々と 舞来る雪に 街は今 銀世界へと 変わりゆくらむ

 

 山茶花の赤い花の上に、白い雪が積もっているというだけであるし、雪が降ってきて瞬く間に銀世界に変わってしまったというだけで、別に面白くない気がする。そんな雪が溶けて道が汚れてきた。通る人たちは汚れないようにと歩いていたので、

 

   雪どけの 泥道のように 嫌われて 恋は夢から 消えていくよう

 

 雪が溶ける時はどうしてあんなに汚くなるのだろう。恋の終わりも夢から覚めていくように、雪が溶けていくように儚い、そんな風に歌いたいのだが、どうも観念的である。

 それではこんな老人だから作れる歌はどうだろう。

 

   親友が 友だちとなり 知人へと 変わりゆくなり 老い深まりて

 

   老いてなお 求めることの 虚しさは 人の優しさ 人のぬくもり

 

 お口直しに石川啄木の歌を2首添えておく。

 

   たわむれに 母を背負いて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず

 

   はたらけど はたらけど猶 わが生活楽に ならざり ぢつと手を見る

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ドラマ『キルトの家』の老人たち

2012年02月08日 19時29分02秒 | Weblog

 寒い。昨日までが少し暖かかったので、今日はとても寒く感じる。天候は不順で、青空が見えたかと思うとたちまち黒い雲が北西の空からやってくる。小さな粉雪が雨のようにパラパラと降ってきて飛び跳ねている。けれども長く続かずに、再び太陽が顔を出し、雪は瞬く間に溶けていく。空気は一気に冷たくなり、底冷えに思わず身体が震えた。まだ、春は遠いようだ。しかし、テレビの天気予報は、この急激な天候不順は春に向かっているからだという。「春になれば」と、今は待つより手立てはない。

 

 そんなわけで今日も一日家に閉じこもっているが、そうなると何を書きこうか、きっかけが見つからない。ボーとしてパソコンに向かっていた時、「時々読んでいますよ」と言ってくれた人が、「最近は不倫のススメがありませんね」と言ったことを思い出した。中学からの友だちのブログに『友だち以上恋人未満』が載らなくなり、それにつられて私も扱う頻度が少なくなった。「弁解するようだけれど、決して不倫のススメを書いているわけじゃーないよ。もっと高みから、男と女を観察しているつもりなのだけど」。

 

 終わってしまったけれど、土曜日のNHKテレビで山田太一脚本の『キルトの家』を観た。兄嫁と義弟が恋に落ち、都会の団地に住むようになるが、その団地は高齢化が進んでいるというのがドラマの設定だった。兄嫁と義弟が恋をして家を飛び出してくるのは、どんな事情があったにしても異常である。東日本大震災から逃れて、団地に来たということになっていて、「あの津波のようなとんでもないことが起きるかも知れない」と恐怖を語るシーンがあったけれど、取ってつけたようなセリフに聞こえた。

 

 育ててくれた兄であり結婚した夫の出現を恐れているように思ったけれど、地震とか津波を持ち出したのは、人生には何時何が起きるか分からないと言いたいのかも知れない。ドラマの主題はあくまでも団地の年寄りの生き方なのだから。ドラマは2通りを上げていて、ひとつはキルトの家に集まる老人たちの生き方で、もうひとつは団地の自治会が提唱している相互扶助というかボランティアに頼るという生き方。前者が松阪慶子を中心に山崎努をトップとする自立を重視するグループで、後者を余貴美子が演じていた。

 

 自治会では1件に付き250円で老人のためにボランティアをしてくれる人を募集しているが集まりは悪い。そういう助け合いを拒み、自分たちで自立していこうとキルトの家に集まっているが、やがてキルトの家も人手に渡ることになる。この先どうなっていくのか分からないけれど、老人は弱い者だからと十把ひとからげで見ないで欲しいという主張は鮮烈だった。老人一般ではなく、個人であると。老人であっても人を好きになるし、恋もするという主張だ。自尊心が前面に出ている気難しい老人としか受け止めてもらえないことが悲しいけど。

 

 私自身もいつの間にか老人の仲間入りをしてしまった。「はい、お年寄りはこちらに並んでください。みなさん、大きく口を開けましょうね」などとやられたら、死んだ方がマシだと思ってしまうひねくれ者だ。「扱いにくい年寄りね」と言われないように、早く逝ってしまいたいね。

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社会を変えるのは年寄りの務めか

2012年02月07日 19時03分31秒 | Weblog

 年寄りが集まると、政治の愚痴か人の悪口が多い。でなければ、誰それが入院したとか、「いやそいつはもう死んだ」とか、暗い話ばかりである。「田中防衛大臣の答弁は全くダメだ。あれで大臣が務まるなら、私がやった方がまだましだ」と言っていられるのも、当事者では無いからで、次から次へと弱みを突かれたら冷や汗で震え上がるだろう。年寄りはテレビをよく見ているし、新聞も隅から隅まで読んでいる。こういう人たちが真剣に社会を変えようと思ったら、相当な力になるだろう。50年も60年も前なら、学生たちが国家を変えるつもりで戦っていた。しかしそれは、つもりの領域から出なかった。

 

 でも今、年寄りは自由な時間と多少の金銭を蓄えている。どういう社会こそが造られなければならない社会かも、それなりの知識があり経験からも分かってきている。昔の学生たちよりもっと大きな力を持っている。でも、やはり動かないだろう。悪口は言えても、自らの身体を使って、社会を変えていくエネルギーを結集するほどの燃えるものがない。小泉改革で派遣法が変わり、使い捨ての労働者が生まれた。シルバーもそこに組み込まれ、若い人たちの働く場を奪っている。シルバーは多少賃金が安くても小遣い稼ぎだからいいが、若い人は生活が懸かっているから大変だ。そう思ってはいるけれど、やはり小銭は欲しいので安い賃金で働く。

 

 「生活保護を受ける人間が増えているそうじゃないか。いったん、生活保護を受けると働かなくても生活できるから誰も働かんと言うぜ」と社会保障制度を危惧する。ソ連の崩壊をモスクワ大使館で見ていた休職外務事務官の佐藤優さんは、「人間は動物として食べていくことができれば満足するという存在ではない。自らが生きていることに、何らかの社会的意義があるということを感じていなくては、生きることができない人々もいる。(略)『自由かパンか』という定式は完全な誤りであり、『自由もパンも』というのが、人間の自然の要求であると感じた」と述べている(『テロリズムの罠』より)。

 

 みんながそれぞれに苦労を負担するのであれば、人は協力し合うだろう。人類がここまで生き延びてきたのも、「協力できる」力を持っていたからだと人類学者は説明している。平等も全く同じでなければいけないわけではなく、それなりにでよいという認識が私たちにはある。1%の人に何億何兆もの富が集中し、一方で住む家の無い人がいる。苦しい人に富を分けても1%の人は決して困らないはずだ。いろんな人が居て、人の社会は成り立っているけれど、「助け合う」ことは人が生きていくための基本と考えよう。そのためにどうするか、みんなで考え決めていこう。

 

 役人は新しいことを始めたがらない。政治家は当選することしか考えない。若者たちは希望が無いので、税金や年金を払いたくない。いや、そればかりか働く場所さえない。「何でもいいじゃないか、我々も与えられた仕事を夢中になってやり、それが自分の仕事になった」と、年寄りは自らの経験からそう言う。けれど、若者たちは動けない。社会に求めること事態が無駄だと思っている。そうなるとやはり、年寄りの出番である。社会を変えるのは年寄りの務めと立ち上がろう。腰が立たない?やっぱり年寄りには無理か。ならば黙って若い人に従っていくしかない。

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新美南吉の安城時代

2012年02月06日 19時45分45秒 | Weblog

 昨日、長女のダンナのお母さんから「よかったら読んでみてください」と冊子を4部預かった。安城で発行されている新美南吉に関するものだった。童話作家の新美南吉は半田市の生まれだけれど、県立安城高等女学校で4年間教壇に立っている。東京外国語学校を卒業し就職するが、結核のため半田に帰り、24歳から29歳で亡くなるまでの5年間をこの学校に教師として勤めた。学校から少し離れたところに下宿して通っていたようで、安城市には『新美南吉を歩く』というガイドマップが作られ、ガイドボランティアも結成されている。これらは「新美南吉に親しむ会」が土台となって行われているようだ。

 

 ダンナのお母さんはこの「新美南吉に親しむ会」のメンバーで、会が発行している『花のき』に原稿を寄せていた。歴史のことが好きで、安城ゆかりの人を訪ねて東北地方を旅行したことなど聞いたことがあったし、南吉の話も聞いた気がしたが、ぼんやりとしか覚えていない。でも、『花のき』を読んで、安城の新美南吉には無くてはならない人のひとりだと分かった。愚かにも、私は南吉が勤めていたのは私学の女学校だと思っていた。明治42年生まれの私の母は、戦前にその私学の女学校に勤めていたことがあると聞いていたので、ひょっとしたら新美南吉と机を並べていたのではないかと夢想していた。けれどもよく考えてみれば、私の姉は昭和6年に生まれているのだから、南吉が赴任してきた昭和13年は7歳と6歳の年子を抱えていて、そんなロマンチックな夢を追う余裕はなかっただろう。

 

 学校に赴任するまでの南吉は「タバコを買う銭もない」ほどだったから、安城の人たちが「南吉の生涯で経済的にも安定し、心身ともに最も充実した時期でした」と書いているのも道理である。「代表作の多くはこの安城時代に書かれました。このため、安城は南吉の第2のふるさとと呼ばれています」と『新美南吉を歩く』にある。南吉は安城高等女学校でいい仲間の先生に出会っているようだ。修学旅行の引率した時、一緒に行った3人の先生と旅の絵を手帳に描いているし(『三人道中』)、翌年、生徒を引率した富士登山した折にも『六根晴天』なる画帳や、また同僚と伊豆大島を旅して『三人旅日記』を絵と文と写真を交えて作っている。

 

 これらは平成17年に安城市歴史博物館で開催された企画展「安城と新美南吉」で展示された。この企画展の冊子の最後に、「新美先生安城高女勤務年譜」が載っている。筆者は長女のダンナの母親である。安城の新美南吉には無くてはならない人なのは、お母さんがこの原稿を書いたというだけではない。お母さんは安城高校(安城高等女学校が学制編成で変わった)で司書として働いていた折、学校の移転などで倉庫に埋もれていた南吉に関する資料を探し出し、整理していたのだ。安城高女時代の貴重な資料を整えた彼女の功績はきわめて大きい。息子や娘たちは「口うるさいだけ」と言うけれど、それは母親なら当たり前のことで、ひとりの人としては凄い仕事をしてきた。コツコツと資料を整えただけでなく、文章もうまいと感心した。頭が下がる。

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音楽に親しむ

2012年02月05日 20時12分53秒 | Weblog

 今日は長女のダンナの両親が長女夫婦のところへ来るという。ダンナの両親は息子のところに生まれた孫の顔が見たいという思いが強いのだろう。私もそれはよく分かる。ありがたいことには、ダンナの両親は長女の連れ子である高校2年の孫娘も自分たちの孫のように可愛がってくださる。せっかくの機会であったから、私は高2の孫娘のためにも家を出て行くべきだと思っているので、「この子には鹿児島か沖縄か島根か鳥取でもいいし、新潟や福島か岩手でもいいので、どこか遠くの大学に行って欲しいと思っているんです」と話した。お父さんもダンナはちょっとびっくりして否定的だったけれど、真っ向からの反対ではなかった。いや、反対だとは言えないように私はつぶやいたのだ。

 

 孫娘の両親がヘンだなと思ったのは7年くらい前からだと思う。別々のフトンで寝ていると言っていたし、ちょうど韓国の子どものホームステイを引き受けた時だと思うけれど、なぜかノリが悪かった。孫娘はそんな両親を見てきたためか、「私は、結婚はしない」と言う。それはそれでいいと私は思っている。そんなことを言っていても実際には結婚する場合もあるし、逆のケースもあるので、格別反論する必要はない。我が家は共働きであったので、長女は結婚せずに母親のような働く女性になると言い、次女は早く結婚して子どもが帰ってきたら一緒におやつを食べる家庭を作ると言っていた。しかし、長女は確かに手に職をつけたけれどすぐに結婚した。次女はなかなか結婚しなくて働くことに喜びを感じていて、遅くなってから結婚したけれど子どもはいない。

 

 人生は決して思い通りにはならない。今日も長女のダンナの両親と話していてそう思った。ダンナのふたりの姉は小さい時からピアノを習っていて、末の弟である彼も当然のようにピアノを習った。けれどもそれが彼には苦痛の種になるとは誰が予想できたであろう。小学校へ上がるとピアノを弾く男の子は異様な目で見られたという。それで彼はピアノを止めてしまったけれど、ピアノの先生は「この子は必ずどこかで芽を噴きますよ」と言っていたとお母さんは語る。彼が再び音楽に目覚めたのがいつからかは知らないけれど、音楽のセンスがあると私も思う。

 

 ダンナのお父さんは音楽好きで、その血はまたさらに先祖に遡るのかも知れないが、音や歌には敏感でありこだわりがある。「お父さんはいつ頃から音楽にのめり込んだのです?」と聞くと、「高校生の頃かな」と言う。私が中学生の頃だから、ジャズとかボサノバが流行していた記憶がある。そうした音楽と地元に伝わる和楽器の音楽とがダンナの父親の中で新しい音楽を築いていったのかも知れない。その血を受けて彼は小さい時からそんな音を聞いていたのだろう。ピアノと横笛や太鼓の音がミックスしていったのだ。私たちが聞き親しんできた短調の物悲しい音と、洋楽の、ジャズやボサノバの故郷のアフリカを思う音とがミックスして、もっと前向きで楽しく明るい音を求めたのだろう。それが長女のダンナが作り出した音の原点なのだ

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読書三昧

2012年02月04日 19時03分50秒 | Weblog

 正月から読書する機会が増えた。デイサービスの手伝いに行っていた時は、電車に40分くらい乗っていたから、本を読む時間があった。電車の中とか病院の待合室とか、そういう場所は軽い本ならどんどん読める。井戸掘りがなくて、市民講座の方も一段落しているので、一日中家に居ることが多い。そんな時は電子辞書と漢和辞典を傍らにおいて読書に励む。小説にメモ書きすることは無いけれど、評論のようなものはページの余白に書き込みをしてしまう。英語や意味の分からない言葉は電子辞書を引けばすぐに分かるが、読めない漢字は漢和辞典にたよる他にない。昔は読めない漢字や分からない言葉は推測して進んでいた。ところが私が思い込んでいた読みが全く違っていたことがあり、辞書を引いて正しく覚えないといけないとこの歳になって気が付いたのだ。

 

 偶然に古本屋で書名だけ見て買ってきた3冊は結構面白かった。田原総一朗さんと姜尚中さんと中島岳志さんによる座談会を本にした『国家論』、佐藤優さんの『テロリズムの罠』、岩崎日出俊さんの『金融資産崩壊』。この3冊は電車で読むことはなく、家で辞書を片手に読んだ。姜尚中さんはやたらと英語を交じ得て話すので、辞書で確かめることにした。中島さんという人の名は初めて知った。京大の卒業で現在は北大の准教授である。右翼運動や保守主義に詳しかった。佐藤さんはこの頃よく本を書いている休職外務事務官。同志社大学の神学科を卒業し外務省に入った変わり者だ。岩崎さんは早稲田大学の政経学部を卒業し日本興業銀行に入り、スタンフォード大学で経営学修士を取得した後、アメリカの証券会社で働いていた金融通だ。

 

 姜尚中さんは1950年生まれで全共闘世代だが、岩崎さんは53年生まれ、佐藤さんは60年生まれ、中島さんに至っては75年生まれである。田原さんだけが戦前の生まれで、60年と70年安保を体験してきている。破廉恥なことをすることが反体制だともてはやされた時代、結婚式で花嫁との性行為を招待客に見せたという伝説まである。田原さんは、「昔は国家はいらない。市民によるコミュニティがあればそれでよいと考えていたけれど」と以前の考えを否定している。小沢一郎さんについても自民党の手法と言いながら評価している。私は田原さんがどういう社会や国家を求めているのか、よく分からなかった。

 

 3冊に共通する部分もあった。小泉改革で推進された「新自由主義」に対する否定である。世界が大きな曲がり角に来ているということも共通して言われている。新自由主義ではますます混乱と破壊が進んでしまうと言うが、ではどうすればよいのかというところで違いが出てくる。国家が経済に介入することになるだろうと予測するが、それがどの程度なのか、どのようにしてか、はっきりしない気がした。今日の状況が、1929年に始まった世界恐慌とよく似ていると3冊とも認めているが、この危機をどう乗り越えるのかまでは暗示はあっても明示はない。

 

 この3冊の他に、短歌に関する本も3冊平行して読んでいる。短歌教室をやめてしまい、強制的に作ることがなくなったので、勉強してみようと思ったのだ。結論から言えば、「私たちは、歌を作る前に、ある、漠然としたテーマをおもいうかべつつ、作歌に入っていく」(『短歌の世界』)のだから、作ろうと思った時に作ればいいということだ。でも、ドキドキしたり、感激したり、悲しかったり、心に思うものがないとテーマが出てこない。一日中家に居ると、テレビと新聞だけがネタ源だからブログを書くことさえ四苦八苦している。何か、いいことないかなあー。

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人の気持ちはややこしい

2012年02月03日 19時04分53秒 | Weblog

 今日が節分ということは、明日はもう立春なのか。昨日のような雪降りはなかったけれど、空気は凍りつくように冷たい。大学の先生夫婦から「西安・敦煌5泊6日の旅に行きませんか」と誘っていただいた。私が中国に行ったのは7年前で、四川省の成都が主だったが、古い歴史が感じられる街だった。敦煌へは一度行ってみたいと思っていたけれど、そのような機会はなくもう旅することは無いだろうと思っていた。期間は2月27日から3月3日まで、費用はひとり22万円ということであった。

 

 西安も敦煌も中国大陸の内陸にあるから、昼間はともかく夜間は相当に冷えるだろう。カミさんは「きっと寒いわね」としきりに言う。私は少々重いけれど寝袋のようなコートがあるが、カミさんは都会で着るようなコートしか持ってない。けれども「外国旅行なのだから、そんな(寝袋のような)コートではなく、カシミアの黒のコートで行くべきよ」と言い切る。旅行の服装で迷っているのかと思っていたら、いろんな旅行会社から送られてきたパンフレットを取り出して、朝から晩まで何度も見ては考え込んでいる。「22万円はちょっと高すぎる」とつぶやく。「そんなに納得できないなら、正直に自分の気持ちを伝えておいた方がいいよ」と言うと、「もう少し考えさせて」とパンフレットから目を離さない。

 

 私は我が家の財政状況は全く知らないし、お金の管理はカミさんにあり私には決定権はない。旅行に行くか否かはカミさんが決める。そんな私でも人にお金を貸したことがある。収入が別々の時期の名残のもので、たいした金額ではなかったので、カミさんの管理下に移行しなくても済んだ。友だちが「どうしてもお金を貸して欲しい」と言うので、カミさんに内緒で用立てたけれど、そういう時に限ってなかなか返しももらえない。お金の貸し借りは友情を壊すと昔から言う。私もそう思って生きてきた。しかし、頼まれては断れなかった。この男なら信用していいと思った。いい男なので必ず返してくれると信じている。

 

 義理の弟も旅行の段取りがつかないでいる。今年の正月に兄弟縁者が集まった時、妹が「ふぐを食べに行きたい」と言い、私は姉と「近くの温泉に行きましょう」と約束していた。「それなら1泊でふぐを食べに行こう」ということになり、義理の弟に「1泊2日休めるところを教えて」と言った。ところがそれから全く音沙汰がない。電話すると「まだ、どこが休めるか分からない」と言う。海外へは飛行機が嫌いだからと言い、それなら国内で一緒に行こうと誘っているのだが、どうも後ろ向きだ。嫁さんの兄弟と旅行に行っても面白くないのかも知れない。

 

 気を使うことはないと思うけれど、それはやはり人によりけりだ。私はいつも一緒に旅行している誕生会のメンバーが一番気楽で楽しい。このメンバーでお酒を飲んでいると時間の経つのを忘れてしまう。義理の弟にしてみれば、血のつながった3人に対して彼とうちのカミさんという組み合わせが、彼の立場からすると面白くないのだろう。うちのカミさんだって、私の姉妹に付き合うのは楽しくはないのかも知れない。兄弟3人で出かけてもいいけれど、それではカミさんや義理の弟をないがしろにしているようで気が進まない。人の気持ちはややこしい。

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宅急便

2012年02月02日 19時47分02秒 | Weblog

 

 朝起きると銀世界だった。気温も低くて、風こそ無かったけれど空気は冷たかった。雪が止むと小学校の運動場から子どもたちの大きな声が聞こえてきた。積もった雪を丸めて雪合戦をしている。元気がいいなあーと、私は暖房の効いた部屋からはしゃぎ回る子どもたちを眺めていた。雪はいい、何もかも覆い隠し、穢れの無い真っ白な世界を見せてくれる。大雪のために交通網は遮断され、各地で事故が起きている。雪かきをしていて転落し死亡する事故も起きている。秋田県の玉川温泉では岩盤浴中の人が雪崩に巻き込まれて亡くなっている。雪国の人は雪を恐いと言うけれど、たまにしか見ない雪景色を私は美しいと思ってしまう。

 

 お昼近くになって雪は止まった。太陽が顔を出してくると、たちまち雪は溶け出して路上はべたべたになる。運動場も黒い土が露になり、残っている雪も泥をかぶって醜い。あれほど美しいと見ていた景色が一変し、なんともやりきれないまだら模様となる。人の世も同じか、いや人生そのものもこんな風に美しい時もあれば、泥にまみれて醜い時もある。それでもまた美しく輝いたり、光を失ったり、そんなことの繰り返しだ。執着しなければ、ほどほどに生きていけるし、美しいものを求めなければ、そこそこの風景しか見ないですむのかもしれない。人の欲が美しくも醜くもする。でも、欲が無い人生などあるのだろうか。

 

 5日に長女夫婦のところにダンナの家族が来るという。カミさんは長女のダンナとお父さんにバレンタインチョコを贈るので、どれがよいか選ぶのにいっしょに行ってと欲しいと言う。高校2年の孫娘とも待ち合わせて、チョコを決めた。次女のダンナにも贈るというのでチョコを選び、続いて「あの子は赤味噌が欲しいと言っていた」というので、食品売り場で赤味噌と信州味噌を買う。チョコと味噌だけでは物足りないからと、我が家にあったワインもいっしょに贈ることにする。きれいな化粧箱にこれらを詰めようとしたが無理だった。「じゃー、ちょうどいいくらいのダンボール箱がある」と見せるが、大きすぎるとか汚いとか文句を言い出す。「でも、これしかないから」と私はカッターナイフでダンボールを切り、うまく収まるように作り直す。

 

 「本当にセンスが無いのだから」とぶつぶつ言われながら、まあまあきれいなギフト箱が出来上がった。カミさんは小言を繰り返しながらも買ってきた包装紙で仕上げた。自分で選んだ包装紙なのに、「お葬式の箱みたいかしら」と不安そうに言う。「そんなことはないよ。立派な誕生日プレゼントだよ」と納得させる。善は急げとばかりに宅配便の集積所へとふたりで持って行った。受付の女性が「中身は何ですか」と聞く。「ワインとチョコと味噌です」と答える。「ワインですか」と困った顔をして、「ちょっと中を見せてもらっていいですか」と包装紙のセロテープをはずしにかかる。あんなに注意して包んだ包装紙が破れてしまう。カミさんは覚悟を決めたのか、「破っていただいてもいいですよ」と言う。

 

 結局、ぶつぶつ言われながら私が作り直した箱は捨てられ、宅急便のお酒専用の箱に変わった。ワインや味噌を包んだダンボールも捨てられた。あの格闘は無残にも跡形なくゴミ箱行きとなった。それでもカミさんの誕生日とバレンタインを祝った手書きのメッセージは、大事にその中央に納められたからありがたかった。

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50年後の人口推計

2012年02月01日 19時46分54秒 | Weblog

 厚生労働省から新しい人口推計が公表され、テレビや新聞で取り上げられている。50年後(正確には48年後)の2060年の日本の人口は8千7百万人と見込まれている。現在は1億3千万人ほどだから、約3分の2に減少することになる。この数値は昭和20年代後半の人口と同じだそうだ。新聞やテレビが注目するのは「少子高齢化」である。現在の労働人口(15から64歳)が全人口に占める割合は64%だが、50年後には51%に下がる。これに対して、65歳以上の人の割合は現在は23%だが、50年後は40%になる。高齢者1人を1960年では11.2人の現役世代が支えていたが、2010年は2.8人となり、50年後には1.3人となる。1人で働いて1人の老人を世話する勘定だが、この人は子どもや地域や国家も支えている。

 

 テレビや新聞は「少子高齢化」を問題にするが、その論調は多くなった高齢者を少ない若者で支えられるのかということにある。そして結論は、今のうちに労働人口を増やしておかないとあなたたちを支える人たちが困ることになるというものだ。子どもを産むか産まないかは個人の意思で、他人がとやかく言うことではない。それでは少子高齢化の歯止めにはならないと言うが、歯止めにならなくてもいいと私は思っている。

 

 50年後には私の上の孫娘は年金生活に入る年齢であり、下の孫娘はちょうど50歳である。今、生涯結婚しない人の割合は10人に1人だそうだが、50年後は5人に1人になるという。上の孫娘は「私は結婚しない」と言っているがさらにこうした風潮は強くなるという予想だ。そうなると、上の孫娘などは「結婚しない者は責任感が無い」と非難されることになる。私は「結婚はしなくてもいいけれど、男と暮らしてみてもいいよ。暮らすのは嫌ならセックスくらいはした方がいい」と孫娘が20歳になったら話そうとは思う。

 

 私たちの両親の時代は女性が働く場所が無かったので、生きていくためには離婚できなかった。50年後の社会がどのようになっているのか分からないけれど、たとえば現在の家庭は存在しなくて、共同生活のようなものになっているかも知れない。そうなれば結婚もしたがって離婚もない社会となるだろう。子どもは個人のものではなく社会が育てることになる。人口が減少し消費が減れば、生産のあり方も変わる。どんな社会になっていくにしても、それは社会を構成する人々の意思が、好き嫌いに関係なく反映されたものだ。

 

 人口推計は現在の数値を基準にしているから、本当にそうなるとは限らない。50年後といえば今の30代が80代になるわけだが、人口添加物を食べてきた世代だから今のように長生きするとは限らない。医療だって、延命治療路線から外れるかも知れない。戦前戦後の食料の乏しい時代を生きてきた私たちより上の人たちは粗食ゆえに長生きをしている。しかし私たちやその下の世代は今ほど長生きしないかも知れないし、私たちの子ども世代はもっと短命かも知れない。それに、生き方や価値観が変わっていけば人口推計も変わってしまうだろう。

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