母のことは父以上によく思い出す。
母は明治の末に生まれた。田舎の農家の長女だった。明治の半ばには私立の高等女学校が開校していたが、まだ女性が学問することは一般的ではなかった。まして、鉄道も開通していないような田舎では、女子を進学させることなど考えにくい。母の父親はたくさんいた兄弟の中で母だけをなぜ進学させたのだろう、その理由はわからないが、母は親元を離れ、高等女学校へ進学し、教師になった。そのためか、田舎の人には珍しくハイカラな考えの持ち主であったようだ。代用教員をしていた2歳年下の役者のような美男子であった父と恋に落ちて結婚した。材木屋の跡取りであった父の勝手な結婚に祖父は怒り、二人の苦難の生活が始まった。母は小説家を夢見ていた父のために尽くしたようだ。しかし子どもが産まれ、父は教師になる道を選び、師範学校へ進んだ。
こうした母のことは後に姉や従兄弟から聞いた。私が小学校へ入学する頃は、母は教師を辞め、近所の若い女性たちに裁縫を教えていた。同級生の母親に比べて年老いている母が私はイヤだった。母は感情の激しい人だった。小学校に入学する前に子ども用の自転車を買ってもらった。嬉しくて乗り回しているうちに、チリンチリンとなるベルのふたをどこかに落としてしまった。そのまま家に帰ると、母にすぐに探しに行けときつく言われたことを覚えている。小学校の中学年の頃だと思うが、何かの時に「こんな家はイヤだ。姉の家の方がよっぽどいい」と言ったことがあった。すると母はそばにあった物差しだったか箒だったかを持って怒った。私はビックリしてすばやく逃げたが、逃げ遅れていたならお尻にあざができていたであろう。
ある日、見ず知らずの貧しい身なりの女の人が訪ねてきた。「お金を貸して欲しい」と言う。母はいくらかのお金を包んで渡した。裁縫教室の女性たちは「先生、あれは乞食でお金なんか返す気持ちなんかない。やっても無駄だよ」と母に言っていた。母は「いつかきっと返しに来るわよ」と、非難に笑って答えた。母は困っている人を見ると放っておけない性質だった。お金がないと言いながら、借りに来る人には何とかやりくりしてでも用立てしていた。お正月前や春先などはよく縫い物を頼まれていた。そんな時は何日も徹夜がつづいた。「身体だけは丈夫だから」と自慢していたが、私が高校1年の時に亡くなった。
中学3年の頃から少しずつ体調を崩していたと思うが、決して何も言わなかった。高校生になってしばらくした頃、母は入院した。見舞いに行く度に母の身体は小さくなっていた。ふっくらしていた顔もやせた。それでも気丈夫さは少しも変らなかった。夏が近づくと、父や姉に私より2歳年下の妹のことを「頼むね、頼むね」と言うようになった。母の危篤の知らせを聞いて病院へ行ったが、すでに亡くなっていた。病院の車で母を家に連れて帰ることになり、私が母の身体を抱きかかえてくるままで運んだ。あまりに軽かった。小さかった。本当に骨と皮だけになってしまっていた。車に母を乗せ、私は一人病室に戻った。先ほどまでは母が寝ていたベッドはなにもない。それまで、なぜか全く泣けなかったのに、涙が止め処もなく流れ、母のいたベッドに伏して泣き続けた。
物差しを持って追いかけてきた母はもういない。高らかに豪傑笑いをする母はもういない。「男はね、紳士にならなくてはいかんよ」と言っていた母はもういない。どこにも母はもういないのだ。そう思うと本当に泣けた。
母は明治の末に生まれた。田舎の農家の長女だった。明治の半ばには私立の高等女学校が開校していたが、まだ女性が学問することは一般的ではなかった。まして、鉄道も開通していないような田舎では、女子を進学させることなど考えにくい。母の父親はたくさんいた兄弟の中で母だけをなぜ進学させたのだろう、その理由はわからないが、母は親元を離れ、高等女学校へ進学し、教師になった。そのためか、田舎の人には珍しくハイカラな考えの持ち主であったようだ。代用教員をしていた2歳年下の役者のような美男子であった父と恋に落ちて結婚した。材木屋の跡取りであった父の勝手な結婚に祖父は怒り、二人の苦難の生活が始まった。母は小説家を夢見ていた父のために尽くしたようだ。しかし子どもが産まれ、父は教師になる道を選び、師範学校へ進んだ。
こうした母のことは後に姉や従兄弟から聞いた。私が小学校へ入学する頃は、母は教師を辞め、近所の若い女性たちに裁縫を教えていた。同級生の母親に比べて年老いている母が私はイヤだった。母は感情の激しい人だった。小学校に入学する前に子ども用の自転車を買ってもらった。嬉しくて乗り回しているうちに、チリンチリンとなるベルのふたをどこかに落としてしまった。そのまま家に帰ると、母にすぐに探しに行けときつく言われたことを覚えている。小学校の中学年の頃だと思うが、何かの時に「こんな家はイヤだ。姉の家の方がよっぽどいい」と言ったことがあった。すると母はそばにあった物差しだったか箒だったかを持って怒った。私はビックリしてすばやく逃げたが、逃げ遅れていたならお尻にあざができていたであろう。
ある日、見ず知らずの貧しい身なりの女の人が訪ねてきた。「お金を貸して欲しい」と言う。母はいくらかのお金を包んで渡した。裁縫教室の女性たちは「先生、あれは乞食でお金なんか返す気持ちなんかない。やっても無駄だよ」と母に言っていた。母は「いつかきっと返しに来るわよ」と、非難に笑って答えた。母は困っている人を見ると放っておけない性質だった。お金がないと言いながら、借りに来る人には何とかやりくりしてでも用立てしていた。お正月前や春先などはよく縫い物を頼まれていた。そんな時は何日も徹夜がつづいた。「身体だけは丈夫だから」と自慢していたが、私が高校1年の時に亡くなった。
中学3年の頃から少しずつ体調を崩していたと思うが、決して何も言わなかった。高校生になってしばらくした頃、母は入院した。見舞いに行く度に母の身体は小さくなっていた。ふっくらしていた顔もやせた。それでも気丈夫さは少しも変らなかった。夏が近づくと、父や姉に私より2歳年下の妹のことを「頼むね、頼むね」と言うようになった。母の危篤の知らせを聞いて病院へ行ったが、すでに亡くなっていた。病院の車で母を家に連れて帰ることになり、私が母の身体を抱きかかえてくるままで運んだ。あまりに軽かった。小さかった。本当に骨と皮だけになってしまっていた。車に母を乗せ、私は一人病室に戻った。先ほどまでは母が寝ていたベッドはなにもない。それまで、なぜか全く泣けなかったのに、涙が止め処もなく流れ、母のいたベッドに伏して泣き続けた。
物差しを持って追いかけてきた母はもういない。高らかに豪傑笑いをする母はもういない。「男はね、紳士にならなくてはいかんよ」と言っていた母はもういない。どこにも母はもういないのだ。そう思うと本当に泣けた。