友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

子どもから大人になった日

2007年03月02日 23時04分04秒 | Weblog
 小学校5年生の担任は若い女性だった。優しい声がよく響く美しい人だった。明るくて溌剌としていて、見ているだけでもうっとりとするような先生だった。クラスはとてもよくまとまっていた。

 4年生のクラスのボスはイヤな奴だった。プロレスごっこが好きで、授業後は決まって何人かが残って相手をさせられた。なぜ何か、私も決まって残された。彼は身体も大きく、彼の家にはテレビがあったのか、プロレスの技もよく知っていた。この放課後の遊びが大嫌いだったのに、イヤとは言えなかった。私は級長だったけれど、級長の役目は全く果たしていなかった。おとなしくて、先生に当てられるのもできるだけ避けていた。写生大会があった時、ボスが自分の画用紙を私に渡して「絵を描いておけ」と言った。私は従った。ボスの絵を仕上げ、自分の絵に取り掛かった時はもう時間が少な過ぎた。ボスの絵は入賞したが、私の絵は佳作にもならなかった。通知表には毎年、「もう少し積極性が欲しい」と書かれていた。

 5年生のクラスのボスは、みんなが一目置いていた。公平だったし、思いやりもあった。クラスの雰囲気は4年の時とはガラリと変っていた。1学期が始まってまだ間のない初夏になる前だった。クラスの男子のほとんどが朝早く登校し、校庭の北側にあった池で遊んでいた。始業を告げる予鈴が鳴った。魚とりに夢中になっていて、「授業が始まるぞ!」と声を上げる者がいなかった。その代わりに「一時間目は休んで、公園へ行こう」と言う声が上がった。「今日はストライキだ」とか「サボって先生を困らせよう」と言う声も上がった。「校内にいたら見つかってしまうから」と、ひとまず学校の隣にあった公園へ行くことになった。公園には小川があり、もっと大きな池もあった。たくさんの生き物がいた。どのように捕まえるかを巡っていろいろな案が出された。授業のことなどもうすっかり忘れて、魚を追う係り、すくい上げる係り、指示をする係りなど分担ができ、さらにチームワークはよくなった。

 しばらくすると、2時間目か3時間目の授業を告げる鐘が聞こえた。「そろそろ帰った方がいいよ」と言う意見と、「『今日はストライキ』と決めたのだから学校へは帰らない」と言う意見とに分かれた。「ここにいたら捕まるから、もっと遠くに逃げた方がいい」と言う者がいて、「それならこの向こうにある、昔の国境の川まで行こう」ということになった。公園で捕まえた獲物をもとに戻し、戦に行く兵士のように、ストライキをしていた会社の社員のように、隊列を組んで目的の川へと歩いた。クラスの男子のほとんどが校庭の池にはいたはずなのに、公園へは行かなかった子が何人かいた。公園で良いチームワークで魚を捕っていた時も何人かが学校へ戻って行った。隊列を組んで歩いているのは、男子の半分ほどしかいない。「今日はストライキだと言って、みんなに公園へ行った方がいい」と言った子もいつの間にかいない。ボスはリーダーとしてみんなの先頭に立っていた。私はボスに従ってその何人かの後を歩いていた。

 「このままでは捕まってしまうから、もっと上流へ行こう」と誰かが言った。私たちがさらに上流に向かって歩いていくと、「オーイ」と後で呼ぶ声がした。教頭が自転車で走ってきた。私たちは学校へ戻った。校長室の隣の部屋に入った。担任の若い女性の先生は泣いていた。きれいな顔がゆがんでしまい可哀想だった。校長が何か言った。教頭も何か言った。担任の先生も多分何か話した。でも何も覚えていない。他の学校の校長だった父親が美しい担任にそれから何日か経って謝っていたが、それがどこでどのように行われたのか全く覚えていない。

 2学期が始まると、クラスのボスは大阪へ転校していなかった。私はいつまでもおとなしい子ではいけないと感じていた。裏切り者は必ずいる。みんなで決めたことを守らない奴がいる。自分はみんなを守らなくてはならない。みんなを守ったボスはいなくなった。これからは自分がその役目を果たさなくてはならない。私は自分を改造することに決めた。
コメント
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