友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

普通ではなかったの?

2007年03月21日 18時36分58秒 | Weblog
 昨夜、孫娘の父親が撮った卒業式のビデオを見た。
 もっと感慨深いものかと思ったが意外にそうではなかった。実際に見ていないせいなのだろうが、娘や孫から卒業式の様子を聞いた時には涙が止め処もなく流れたのに、ビデオを見ていても泣けなかった。途中からお茶でも飲もうかと思って、席を立った。カミさんが「ウロウロして何をしているの」と詰問する。長女が「多動症だね」と畳み掛ける。

 その時、ふっと気が付いた。私は全く普通の平均的な人間だとズーッと思ってきたけれど、本当は普通ではなかったのかも知れないと。私は小さい時は無口でおとなしいだけの子どもだと自分では信じていたけれど、落ち着きに欠ける子どもだったのかも知れない。私は自分では人の意見に耳を傾ける方だと思ってきたが、人の意見を素直に聞き入れることができない人間だったのかも知れない。私は早くから、いろんなことを決め付けていたけれども、それは自分を正当化するための手段ではなかったかと思う。

 私は小学校の4年生くらいの時、この世の中の貧富の差をなくすためには政治家になろうと思った。祖母の葬儀がきっかけで、日本の習慣や風俗に染まらないためには日本人の小説は読まないようにしようと決めた。民主主義の国の人々が何を大切にしているのかを知ろうとした。中学で数学を勉強して、答えのあるものをなぜ学ぶのかと思った。数学や物理は自分の性に合わない、合わないものに努力する必要はないと考えた。好きな科目は勉強したが、あとはそこそこで良いと決めていた。

 今思えば、なんと物の考え方が偏っていたかとよくわかる。狭い自分の考えに陥っていたことか、恥ずかしい限りだが当時は頑固にそう思っていた。高校生になって、数学が論理学だと気が付いたが、もうその時は遅かった。受験勉強の数学に立ち向かえる力量の備蓄はなかった。勉強の方法は全て丸暗記だ。思考で論理立てて勉強することができればもっと楽しくやる気にもなったかも知れない。英語もなぜこういう組み立てになっているのか、考えもせずに暗記していた。社会人になって、英語の発音は例外はあるが、つづりのとおりなのだと気が付いた。

 50代になって、60代から韓国語を独学で勉強している人が「人間って不思議ですよね。物にはみんな言葉がありますし、キレイとか暗いとか形容詞を持っていますものね」と話され、目からウロコが落ちた。そうか言葉は伝えたいためにあるのだから、そう考えれば言葉を学ぶことは楽しい。教育テレビの深夜番組で遺伝子についてやっていて、遺伝子や染色体はそのように研究されてきたのかと思いながら見た。今さら過ぎ去った時間を取り戻そうという気持ちはないし、またできるものでもない。学ぶことはちょっと楽しいなと思えてきた。
コメント (1)
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