友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

偶然を受け入れれば必然

2007年03月12日 19時14分51秒 | Weblog
今日は天候が変である。
朝には雪も舞っていた。風は一日中強く吹いている。昼食をとった後、私はテレビをつけたまま、縫い物をした。昨日、孫が「お願いがある」と言って、孫の母親つまりは私の娘のスカートを持ってきた。スカートの裾のほつれを直して欲しいというのである。娘が孫に言いつけたのであろう。テレビに目をやったりしていたので、所々縫い目が曲がっているがまあこれでよかろうと思う。

私の母は裁縫を得意としていて、教室を開いていた。以前は学校で教えていたらしい。物心ついた頃には、家で近所の娘さんたちに裁縫や編み物を教えていた。教室で娘さんたちが縫い物をする姿を見ているのが好きだったので、縫い物は自然とできた。一人暮らしの時もボタンの取り付けやほつれを直すことは自分で充分にできた。四谷シモンという人形作家がいるが、人形が芸術になると子どもの頃に知っていたなら、そういう道に進むことだってできただろうにと思う。

人がどんな道に進むのかは偶然な要素が多い。幼い時から自分が何になりたいとかハッキリしている人は幸せである。何がしたいのか、何になりたいのか、ハッキリしないままに大きくなり、たまたま入った学校やそこでの成績、出会った人など、いろいろな偶然が重なって、職業に就くことになる。就いた職業を自分の天職とするか、そうは思えなくて天職を求めて転職するか、どんなに思い悩んだとしても結局は死ぬまでわからないのかもしれない。

中学の同級生の中にも、卒業してすぐ養成工になるつもりだったのに健康上の理由で入社できずに普通高校へ進学し、大学の薬学部を出て薬剤師になったものがいる。たまたま中学の時に病気治療のために休学したことから、担任が普通高校ではなく商業高校へ勧めたことで、担任を恨んでへそ曲がりの振りしたまま今日に至ったものもいる。文学青年だったのにやり手のサラリーマンとなったものもいる。親の職業を継いで大工となり、大卒の2倍を超える年収を稼いでいたものもいる。高校は家庭科を出たけれど、その子どもは東大を出たものもいる。

人生は結局偶然の積み重ねではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする