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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

人間万事塞翁が馬

2011年02月16日 18時40分30秒 | Weblog
 3月で83歳になる姉が突然電話をかけてきて、「さいおうが馬はどういう意味だったかね。さいおうの前に何がつくかね」と聞いてきた。「にんげんばんじ‥」と言いかけて止めた。ヘタなことを言って、「あんたはもう少し勉強せにぁーいかんね」と叱られたのではたまらない。昔の人は学歴に関係なく、結構物知りが多い。ましてや中国の故事に関することでは負けそうだ。「今からパソコンで調べて、ファックスしてあげるけど、どうしたの?」と聞いてみた。なぜ、電話してきたのだろうと気になったのだ。

 「この頃ね、ちっとも覚えられんのよ。さっき聞いた事をすぐ忘れてしまって、ダメだね」と言う。「そんなことは姉さんだけじゃーないよ。部屋へ何を取りに戻ったのか思い出せないなんて、いつものことだし、忘れるのは覚えるためだと言う人がいるくらいだから、そう気にすることはないよ」と話す。ひとり暮らしで何でも自分で出来るからと言っていたけれど、ちょっと寂しくなっているなと思った。お正月に妹のダンナがカラオケに行こうと言っていたので、「姉さんの方には何か連絡あった?僕のところにはあれから何もないんだけれど」と聞くと、「酔っ払って大きなことを言っただけじゃないの」と冷静だ。

 「あのね、うちのカミさんが『姉さんと妹夫婦を誘って、グァムへ行こうか』と言ってましたよ。ハワイまでは遠いけれど、グァムなら比較的近くてしかも暖かいからいいんじゃないかって。どう?」と言うと、まるで子どものような声になって「行く、行く」とはしゃぐ。嫁にいった姉の娘は眼球の病気で手術しなければ見えなくなってしまう。それに付き添ってやりたいけれど、行けばむしろ足手まといになり迷惑をかけるかも知れない。そんなジレンマが寂しさになっていたのではないだろうか。「じゃー、すぐファックスするからね」と言って、“塞翁が馬”を調べてみた。

 「にんげんばんじ」などと言わなくてよかった。「思うようにはならない。悪いことがあればいいこともある。そんなことだったと思うけど」などと生半可なことを言わなくてよかった。「人間」ではなく「世間」の意味で、「じんかん」と読むそうだ。故事の成り立ちは思っていたとおりだったけれど、「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍へ、また禍から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである」という意味で使われることも分かった。

 今日の井戸掘りもそのとおりで、初めは順調で、これまで掬い上げてこなかったドロを鉄管内に入れて出すことが出来た。しかし、しばらくするとその量が減ってきたので、20キロほどある重い鋼鉄菅に変えみた。この道具は重すぎて作業がしにくい欠点があるが、電動の巻き上げ機を利用することでその欠点を克服しようと機械も手に入れた。それで今日はやってみたけれど、巻き上げることは出来ても逆の落とし込むことがスムーズに出来ない。勢いよく落とし込めなければ掘り進めない。右肩の痛みが治りつつあったけれど、そんなことで怠けてはおられない。我武者羅にやり抜く他にない。

 それでも今日はほぼ停滞である。なあに、人間万事塞翁が馬である。
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