元民主党代表の小沢一郎さんが強制起訴となった。本人は「私が無罪であることは裁判でおのずから明らかになる」と豪語していた。私の友人で、現職の議員に聞いても「有罪にするのは難しいのでは」という答えが多かった。確かに物的な証拠はなく、秘書が「供述は間違いだ」と言い張り、小沢さんは「何も知らなかった」と言い続ければ、有罪にすることは困難だろう。けれども、誰もがそんなことで「いい」と受け止めているだろうか。「疑わしきは罰せず」は正しい判断だと思うけれど、この小沢問題は法的に白黒をつけるということではない。
そもそも政治組織がなぜ土地を購入する必要があるのか。小沢さんは「支援者がそれを望んでいる」と説明していたけれど、支援者はなぜ土地の購入を望んでいるのだろう。その土地の購入資金はどこからどのように工面されたものなのか。小沢さんは「私の私的なお金」と言うけれど、それでは自由党が民主党と合併した時に、国から受けていた政党助成金はどこへ行ってしまったのか。本来なら国へ返還すべきものを、小沢さんの政治団体へ寄付してしまった。それは法的には何も問題はないとしても、道義的な責任はある。
小沢さんのようにお金をかけて選挙をする体質を、変えていくことが今最も求められている。だからこそ、民主党ははっきりと小沢さんと線を引くべきだと私は思う。愛知県は知事選挙が、そして名古屋市では市長選挙と市議会の解散を決める住民投票が6日に行われる。知り合いの県議会議員は選挙で1千万円使ったそうだ。「知事選挙なら1億円くらいは必要ではないか」と知人は言う。どうしてそんなにお金がかかるのか、私には理解できない。かなりお金をかけて選挙を戦ってもそんなにかからないはずだ。
亡くなった元議員が「選挙はお金がかかる」と話してくれたが、「どうして?」と聞いてみると、「応援者が勝手にお金を使ってしまう」と嘆いていた。選挙になると俄然張り切る人がいて、訳もわからないままにタカリ取られるようだ。それほどお金をかけたのだから、何とか取り返したいと思うようで、それが癒着を生む土壌を作っている。政治信条ではなく、地域への利益誘導ができる、あるいは個人的な頼みが通用する、そういう人物が頼れる政治家と評価されている間は、市民のための政治にはなっていかないだろう。いや、市民がそういう政治家を頼りにしている限り、政治は一部の人たちの意のままだ。
小沢さんは信念のある政治家と言われている。自分の思うことは決して曲げないと評価されている。そのこと自体は非難されるべきことではないけれど、そうしていったい彼は何がしたいのか、私にはわからない。資本主義の発達で教育レベルは上がり、それに伴い市民のレベルも各段に高くなった。産業革命の頃の一般市民とはもはや雲泥の差である。しかも情報は瞬時に市民全体にいきわたる。政治が変わるのも当然のことだ。問題はどう変わるのかだと思う。
そもそも政治組織がなぜ土地を購入する必要があるのか。小沢さんは「支援者がそれを望んでいる」と説明していたけれど、支援者はなぜ土地の購入を望んでいるのだろう。その土地の購入資金はどこからどのように工面されたものなのか。小沢さんは「私の私的なお金」と言うけれど、それでは自由党が民主党と合併した時に、国から受けていた政党助成金はどこへ行ってしまったのか。本来なら国へ返還すべきものを、小沢さんの政治団体へ寄付してしまった。それは法的には何も問題はないとしても、道義的な責任はある。
小沢さんのようにお金をかけて選挙をする体質を、変えていくことが今最も求められている。だからこそ、民主党ははっきりと小沢さんと線を引くべきだと私は思う。愛知県は知事選挙が、そして名古屋市では市長選挙と市議会の解散を決める住民投票が6日に行われる。知り合いの県議会議員は選挙で1千万円使ったそうだ。「知事選挙なら1億円くらいは必要ではないか」と知人は言う。どうしてそんなにお金がかかるのか、私には理解できない。かなりお金をかけて選挙を戦ってもそんなにかからないはずだ。
亡くなった元議員が「選挙はお金がかかる」と話してくれたが、「どうして?」と聞いてみると、「応援者が勝手にお金を使ってしまう」と嘆いていた。選挙になると俄然張り切る人がいて、訳もわからないままにタカリ取られるようだ。それほどお金をかけたのだから、何とか取り返したいと思うようで、それが癒着を生む土壌を作っている。政治信条ではなく、地域への利益誘導ができる、あるいは個人的な頼みが通用する、そういう人物が頼れる政治家と評価されている間は、市民のための政治にはなっていかないだろう。いや、市民がそういう政治家を頼りにしている限り、政治は一部の人たちの意のままだ。
小沢さんは信念のある政治家と言われている。自分の思うことは決して曲げないと評価されている。そのこと自体は非難されるべきことではないけれど、そうしていったい彼は何がしたいのか、私にはわからない。資本主義の発達で教育レベルは上がり、それに伴い市民のレベルも各段に高くなった。産業革命の頃の一般市民とはもはや雲泥の差である。しかも情報は瞬時に市民全体にいきわたる。政治が変わるのも当然のことだ。問題はどう変わるのかだと思う。