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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

わたし

2022-04-10 | ブログ
わたしの日記は自虐色が入っている。
なぜか。
自虐を抜くと、感じ悪いイヤ〜な匂いを放ち、甚だしく鼻持ちならないからだ。
単に運よく幸せに暮らしている。
なので、周りを気にせずキャアキャア無邪気に騒ぐと、間違いなく叩かれる。
だから大人しく静かにしている。
実際のリアル生活には愛が溢れて、幸福が満ち溢れている。
そう書くと、不思議と嘘くさい。
文章というものは、じつに面白い。

小説は事実より奇なり。
あ、違うか。
事実は小説より奇なり、か。
どっちだった?
どちらも背中合わせ。
幸せは、ある日、どんでん返しがある。
世界で実際に起きている、映画より悲惨な現実と向き合う勇気がない。

わたしが今したいことは、何?
コロナ禍はまだまだ収まりそうもない。
が、そろそろ旅に出たいかな、と。
旅の写真は限りなくわたしを癒やしてくれる。
旅の真っ最中に自分の瞼のスクリーンに全力で焼き付けたらよいものを、70%焼き付けて、残りの30%の余力で写真や動画を撮り、画像、映像、データで保存する。
脳は段々弱るから、リスクヘッジ。
生では(脳が)処理しきれない冷凍食品のようなもの。
 
姑も祖母も少し長生きをし過ぎた。
天寿を全うしたが、ちょうどぴったりの長さをちょっとはみ出した。
その点、舅も父も祖父も、よい頃合いでこの世を去った。
good-byの旬というものがある。
姑も祖母も、旬があった。
にもかかわらず、旬を掴みきれなかった。
旬に乗り損ねた。
旬より数年、長く生きた。
そのちょっとはみ出した延長分は、しんどくて悲しいだけの時間だった。
何よりも本人が辛い。
わたしの希望は、自分の生の旬を掴むこと。
理想的な終焉時期に終わること。
しかし、こればっかりはなかなかうまくいきそうもない。
神様が決めること。
人間は(倫理上)操ってはいけないことになっている。
余命は医師が診断してくれても、自分の命日を自分で決められない。
命日を自分で決めるには、今はまだ法律が追いついていない。

明るくない話題の独り言、文字、文章が次々出て来てしまう。
困った性分だ。

ちなみに、近所の人々と井戸端会議するのが好きな人がいるようだ。
自分の生活の近況をペチャクチャ話す。
それがストレス解消となる。
わたしには考えられない。
自己開示こそが、ストレスの元になる。
性質、性格の違いだろう。
わたしはストレスや情熱は、文章にして粗熱を取り、発散する。
と、これはわたしの一方的な嗜好。
駄文の書き散らし、いつもすみません。

またまた脳内から文字群が溢れてきた。
今日はヘンだ、いや、いつもヘンだ。
続きはまた。





実家

2022-04-09 | 暮らし
gooブログの皆さんのアピールチャンスが楽しい。
写真が綺麗、目を引く、だとか、タイトルがインパクト大で興味津々だとか、、、
最も大きな理由は、わたしの気分がアピールチャンスにアップされているブログを読みたい気分だったこと、なんだけど。
たまたま、というもの。

だが、「たまたま」ほど、大切なことが詰まっているものはない。
意図しないことに、運命の出会いがあったり、真理を見つけたりする。
と、大袈裟に書いてみた。

たまたま、今回のアピールチャンスで、東北最先端の県にお住みの、豪雪に見舞われたブロガーさんの記事を拝読した。
そもそもアピールチャンスにアップされていたのは、その豪雪の記事ではなく、山にお花を見に行く、美しいお花の写真オンパレのものだった。
パラパラと他の記事も読んでみて、親近感を覚えた。
それは、、、実家の雪下ろしや草刈りをはじめとする、ご実家の維持に精を出しておられるところ。
お母さんは施設に入られ、実家は今は空き家になっているが、まだ新しいキレイなかんじの家屋である。
市内からご実家に通われている様子。
あの豪雪、地域の方々は親ごさんが住まなくなり空き家になった後も住まわれるのだろうか。
住みやすい市内などに、引き続き住むのか、実家に引っ越すのか、夫婦別居となるのか、別荘がわりに使うのか、その人の事情によるだろう。

暫定的に住まい方を選んでいても、やがて、歳をさらに取り、また違う選択をすることもある。
健康、時間、気力、お金。
これらがキーとなる。
必須優先順序をつけるとすると、1.お金、2.健康、3.時間、4.気力、といったところか。
リタイアしていればまだマシだが、現役のまま介護付きで実家通いの皆さんもいる。

わたしの知人もそうだった。
関西在住、家族も勤務地も大阪。
ご実家は九州。老いたご両親だけで住まわれていた。
見守り、生活補助や介護が必要になり、最初はお父さん、次にお母さん、と、次々順番に遠距離サポートし、お見送りされた。
当時は仕事と掛け持ちだったから、かなり大変そうだった。
第二の就職は途中で辞めてあきらめ、サポート一本化となった。
奥さんは大阪で教師をされていたので、着いていくわけにもいかなかったが、できる限りの協力をされていた。

あの九州のだだっ広いご実家に、今はゆとりの滞在をされている。
時たま、海や山、畑の自然を満喫されている写真を送って来られる。
あのまま、あの地に永住されるのか、二つの家を行ったり来たりか、、、
わたしと似たような世代(あちらは少し上)なので、動向を見守っている。
南の地なので、暖かい陽光が伝わり、ご実家は過ごしやすい終の住処となることだろう。
(ただし、自立できる間は)

自立できなくなるギリギリまでは好きな所で過ごし、自立できなくなったら介護施設か家族と同居ということになる。
(今は介護施設が充実しているから、そちらのほうが一般的かも知れない)
これはどの地域に住んでいてもだが。
在宅のままこの世を去るのは、理想的な場合と、理想的ではない場合がある。
それまでの生き方の延長に、終焉がある。

どういう生き方をしたいかは、各自の選択。
中には選択出来ない人もいるかも知れないが、こころは自由。
こころが自由なうちに選択したい。
ちなみに、こころが不自由って、、、?

積極的に人生を謳歌している人々を見る。
ある方は、ご本人は暇にならないよう、無理矢理スケジュールが空白にならないように何かしらを詰め込んでいる、とおっしゃる。
が、わたしには積極的な姿勢に見える。
嫌々、渋々、詰め込んでいるようには思えない。
たとえ渋々でも、わたしの目には好ましく映るから、わたしのような人が寄ってくるだろう。
類は友を呼ぶ、、、。吸引力、あり。
健康な身体に健康な魂が宿る。

もし、健康を害しても、その時はまたその時。
別のフェイズに展開された精神に移行していることだろう。
拗ねたり絶望したりせず、「来たか」とジタバタせず受け入れたならば優等生だが、そうは行かないだろう。
とりあえず、今日の健康と幸せに感謝し、明日も続くよう祈るしかない。

とは言え、何も考えなくても明日は来る、、、んだけど。
なるようになる。
ならないようにならない。

毎日、いつも同じことを言っている、、、わたし。


失くしモノ

2022-04-08 | 日々のこと
風が吹けば桶屋が儲かる。
この流れで、買ったばかりで即、失くした、半年近く探していたモノが見つかった。

毛布の洗濯をしようとする→「毛布用洗濯ネット」を探す→毛布用洗濯ネットがあった洗面台の下から「非常時持ち出し袋」を発見→非常時持ち出し袋に詰めるモノをあれこれ用意→必要品を入れる「巾着袋」を探す→ストック庫から巾着袋とタオルの隙間に長年の「探しモノ」発見

なんと嬉しい、、、というか、苦笑い、、、というか、というか、道草ばっかり、、、
ではあるが、自分のポリシーを改めて再認識、再確認した。
もはやわたしの哲学になっている。
諦観の先にある、目標達成。
探し物ゲット。
諦めた頃に、ご褒美。

今回の探し物は、次女が昨年、実家に身を寄せていた期間の最初の頃、地元の生協で買ったもの。
1000円ぐらいの小さい塵取りミニ・ハケ。
平べったいハケを、親指と人差し指、中指で挟んで、小さな置物の埃はらいに使う。
値段も値段だし(万が一、無くなっても嘆き悲しまなさそうで)それだけに絶対に失くしそうなので、置き場にはかなりアタマを使った。
いくらなんでも、書類や貴重品コーナーにはふさわしくないが、台所のごちゃごちゃと一緒くたにすると、瞬く間に紛失しそうだと強く思った。
気合いを入れて保管場所を2、3回、移動させ苦労して決めた。
次女も注文した横で知っているし、失くした時もリアルタイムで知っている。
なので、人知れず、わたしだけがこっそり知っていることではなく、失態、失念を次女は身近で見たわけだ。
思えばこれが、母の認知症の始まりの頃だった、、、などと将来、遠い目で症状の進行度合い、検証の答え合わせをすることだろう。
だが、次女を含む、他の子供たちよ!
こんなことでひるんでいてはいけない。

母(わたし)は、かなり若いころから、今とあまり変わらない、超うっかり屋さんなのだ。
彼らもその被害には何度も遭っているはずなのに、「何故、何も感じなかったの?」と長女に聞いてみた。
「何も疑うことも変に思うこともなかった」と彼女は言う。
なんと純粋で純朴で母(わたし)に着いて来てくれる幼い子供たち。
だが、今となれば、わたしのポカをなんでアンタたちが疑問に思うなり、注意するなり警告するなりしてくれなかったのだ?!と逆ギレしている。
が、頭から信じているので、何も感じなかった、と言われたら、グウの音も出ない。
まあ大事に至らなかったから良かったものの、あれが、35年後の今なら、わたしはすっかりしょげて落ち込んでいることだろう。
若い頃から、しょっちゅう、大ミスだらけ。

注意力散漫というのでもなく、わたしの場合は、どうもムラがあるようだ。
良い時と悪い時の差が激しい。
頂点とボトムの雲泥の差、、、で、中間がない。
脳みその混ざり具合が良くなかったようだ。
仕方ない。
オンとオフの自分が2人いることにしよう。
いや、オンオフは誰にでも言えることなので、低エネルギー状態と高エネルギー状態というかんじか。
こんな脳のパイプ接触不良だから、学生の頃は苦労して当然かも知れない。
当時はそういう微妙なライン分けをしなかったので、
精密適正チェックもされず、がさっと大まかにハイレベル優秀集団に放り込まれてその後、何のフォローもせずに放置された、、、
かわいそうなわたし。
どうにか、良い時もあったおかげで瀕死ではあるものの、そこから抜け出せたが。

と、またまた過去のトラウマが顔を出す。
これは過去ではなく、わたしの個体としての特徴のようなので、一生のお付き合いとなる。
天然。

もっと深刻な別の失くしモノは、数年に及んだが、過日、発見できて、こころの底から、こころの快晴を迎えた。
もう別れたきり二度と会えないと諦めていた、生き別れた我が子との再会のようだった。
一生分の安堵を得た思い。
闇スポット、コトンと暗黒ブラックホールに落ち込むのだが、ひょこっとある日、失くしたモノが顔を出す。
何だろねー。

わたしは幸せものに違いない。
固執、確執のものは、モノ(物体)だから。
一瞬にしてモノを含む思い出を喪失したとすると、どうなるのだろう?
あまりにもたくさん一度にそんな瞬間が来たら、、、
想像を絶する喪失感。
ちょっとしたことでもこころが痛むのに、歳を重ねるに従い、人の悲しみを想像すると胸が張り裂けそうになる。
自分も潰れてしまいそうになるのは、誰しも望んでいない。
なので、こころの交通整理をする。

さて、と。
出て来た掃除ミニハケ、また同じところに戻して仕舞い込んだ。
掃除する気、あるのか?わたし。
ミニハケ購入と同じ頃に、糠床(ぬかどこ)の素を買ったがまだ使わず、あと2か月で賞味期限を迎える。
はやく糠漬けを作らないと、、、。
なかなかお尻が重い。
生協で買った時に見ていた次女も今は家にはいないので、着手しなくてもわからない。
が、ある日、言われることだろう。

「おかあさん、あの糠床どうした?」
「糠漬けを漬けて、お漬物を食べて使い切ったよ」と、次女の目をちゃんと見て言い切れるか?
しれっと言ってしまうかも知れない。
だが、その時は、
「さあ、、、どうしたんだろうねえ??」
と、失念のふり、かも。
「おかあさん、失念と放念は違うよ」などと説教されそうだ。
きっと次女も仕事と子育てに忙しいから、忘れていることだろう(と期待する)。

嬉しい出来事

2022-04-05 | 趣味
嬉しいことがあった。
帰り道。
鼻歌ふんふん、らんらん、スキップ。

喉から手が出るほど欲しかったものが、なんの策略も練らず、力まず、自然な流れで、手に入った。
といっても決定ではないが。
焦って、あえて手を打って(不確定な状態であっても)無理に確定する必要はない。
そのまま放置しても、流れは出来た。
こんなものか。

何がなんでも、、、と肩に力が入っている間は、上手くいかないようだ。
精一杯頑張ってあくせくジタバタして力を出し切り、ある程度して諦観にも似た心境で力が抜けた時に、望む方向に進むようだ。
水に何かが混ざっていたものを掻き回しているうちは、濁るが、やがて静かにしていると沈殿して水は綺麗になる。
そんな感じか。
自分が出来る限りのことをしたのなら、それでも結果が見えないのなら、待つ。
人工的に手を加えたり、強制的に矯正したりしないで、自然体で時の流れにまかせる。
それで良い。

やったー!!という劇的な激しい喜びではなく、静かにじわじわ喜びが湧いてくる。
後から時間をかけて。
いずれにしても、待てば海路の日和あり、を地で行くようなことになった。
また、事態がひっくり返って、ぬか喜びに終わったとしても、それはそれ。
焦らずゆっくり見守ることにする。
なるようになる。
なるようにしか、ならない。

一生懸命しているうちは、結果が出ないが、やがて、実を結ぶ日は必ずやって来ると信じたい。
一つでも成功例を体験すると、それからは困難があっても忍耐力で乗り切れるような希望が持てる。

※この記事、抽象的な内容でわかりにくい。
ハッキリ書けばいいのは、わかりきっているが、書くと幸運が逃げていきそうな気がして書けない。
確信犯です、すみません、、、

ドライブ・マイ・カー

2022-04-04 | 映画
自分のイチオシ日記記事を少しでも早く読んでもらいたくて、goo様にお願い記事をアップしたところ、、、
その記事のほうにAIが反応したようで、肝心のオススメ記事は、さっぱり泣かず飛ばす。
そういうこともあろうかと、あの2つの記事はセット、2個1(ニコイチ)にするつもりで、同じ場所で撮った少し角度の違う写真を画像として上げた。
これも一つのリスクヘッジ。
しかし、主客転倒の見本のようになってしまった。
せっかくの自分が悦に入る自己満足記事(自分的オススメ)が、「goo様にお願い」記事で、隠れてしまった。
余計なことはするものではない、ということか。

お気に入りのお花の写真を2枚も使ってしまい、いささかオリジナル写真が残り少なくなり寂しいが、、、、

さて。
今話題の映画を観た。
「ドライブ・マイ・カー」。
国際的な賞を取った話題作。西島秀俊主演。
ちょっと映像の色調が暗くて長め。
題材、モチーフがわたし好みではなかった。
ドライバー役の個性的な若い女優さんに興味を持った。
主役、キャストは今の俳優、西島秀俊以外では無理なのかなあとシュミレーションしてみたが、2、3人候補を上げ、絞ってみた。
だが、やはり1番は西島秀俊だろう。

やたら美しい俳優さんは、損をしていると感じる。
美しい外見、容貌ばかりに目が奪われて、演技が目立たない。
他の美しい俳優が演じてもさほど変わらないかも、と思ってしまう。
やはり、個性は要だと感じる。

作品内で、現実的な生活シーンをいくつか観て、わたしならあれは嫌だなあ、わたしはあんな風にしない主義、とか、自分の脳内クレームがうるさい。
まるで夫婦間の生活空間、室温などの体感温度や、タオルの洗濯回数や掃除などの衛生面での好みの違いを感じるように。
その他、食べ物の好みなどを言い出すと、キリがない。
食事シーンは、招かれた家庭ではあったが、他はあまりなかったような気がするが、失念?

ストーリー的に、最も重要だと思える話の流れ、分岐点として、不可解な展開、疑問を抱く筋運びを感じた。
わたしが業界のことを知らないため無知なだけかも知れないが、実際にはそんな事実はない、嘘、ねつ造、作り物ではないかと想像してしまった。
今もまだ疑心暗鬼。
そのうち、時間が経つと色々見聞きして解決されるかも知れないが、解決されないかも知れない。
こだわっても仕方ないから、疑問は疑問のまま飛ばす。

自分がすでにもう若くないからかも知れないが、主人公の妻に感情移入できない。
戯曲も好きではない。
妻が(職業としての)作品を作る時の手法、技法も好きではない。
視点、扱い方、言語での表現法も嫌い。
つまり嫌い、ということ。
嫌いなのに延々と3時間近く頑張って観たのは、評価される映画とはどんなものなのかという興味と、西島秀俊演じる役は、さほど嫌いでもなかったから。

それよりもなによりも、村上春樹作品は好きではない。(一を見て十を勝手に想像)
別にわたしが掘り下げても無意味だと思えるような小難しいことをチマチマくどくど追求して、結局何なん?という苛立ち。
わたしにとっては煩いアプローチ。
俳優たちは熱演していたが、テーマへの取り扱い方が、どうも嫌い。
鬱陶しい。
何を当たり前のことをご大層に、時間をかけて、今頃、言ってる?
わかりきったことを。
わたしが20年ぐらい前には既に気づき悟ったこと。
はぁ〜、、、ため息。
わかりきったことを丁寧に解説するのはご親切ではあるが、解説したいなら、もっと誰にでもわかるように、わかりやすく解説してほしい。
わからない人は繊細ではない、なんてかんじを勝手に先読み、深読みする。
世の中には、わかっていても、わからないことにしておくほうが、スムーズにことが流れることもある。
あえて、つっこみまくるあたり、イライラする。

ではあるものの、こういう、賛成であろうが反対であろうが、多様な感想を持つことは大事である。
こころに訴えているということだ。
後を引かない、その場限りの、ああ楽しかった、ああ怖かった、、、の刹那的映画とはまた違って、意義があると感じる。

映画を見終えた後のわたしの感想としては、作者の感性が小さいトゲがいくつも刺さるように、チクチク刺さって、イラついた。
とはいうものの、イラついた人がいるのかどうかはさておき、評論や観た人の感想を読むと、こういうこころの機微は誰の胸にもあることなんだそうだ。
「人はわからないなんてことは、わかりきっていること」と、当たり前に淡々と処理せず、もっと丁寧に扱え、取り組めというメッセージ?
時間をかけて優しく労わりながら、問題に向き合え、ということ?

監督さんと、西島秀俊の勝ち!!
さすがだ。