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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

気の毒なひと

2021-09-26 | 人々の風景
マスクって不思議だ。
怒号に近い、怒鳴り声に近い、感情的な声が電車内、向かいの長椅子から聞こえる。
相槌的な会話をする、同じくマスクの女性は声の主はわかるのだが、怒鳴り声の男性が誰だかわからない。
じろじろ見ては失礼だが、じろじろ見てしまう。
白い大きなマスクでスマホ操作している男性こそが、声が聞こえてくるピンポイントの場所から推定すると、そのキレかけ男性だと思われるのだが、いたって静かな佇まい。
マスクの口元も他の箇所も動かない。
なんか変だなー。

と、どうでもいい、しかし、目の前で繰り広げられる気になる現象、光景を書いてみた。

で、さて、と。
NHK「関西熱視線」を見た、、、と書き出したところで、なんだか眠くなってきた。
ほんの短時間、目をつぶっていた。
ちょっとだけ眠ったかも知れない。
そこで、目を開けて斜め前の怒り声の男性をふと見てみると、、、
ごく最近、ある喫茶店で見た光景と重なった。
わたしが座っていた席の、二つ隣の客席にキレる男性がいて、ちょっとしたことで同伴の女性に大声で怒鳴りまくり、わたしは気分が悪くなって、そそくさとその店を出た。
あの男女と同一人物である可能性もある。
その店がある地と、男女が降りる駅は、一駅違い。
わたしとは同じ沿線電車、利用客同士というわけか。
嫌だなあ。

女性はあくまでも、おとなしく穏やかなので、男性はどんどんエスカレートする。
激昂に近くなる。
よくあんな男性と付き合っているなあと思うが、もし夫婦なら気の毒になる。
家庭内ハラスメントである。モラハラか。
女性は慣れっこになっているのか、怖くて抵抗できないのか、恐怖支配のマインドコントロールされているのか。
家庭内のことは、埋もれてしまうと社会から見えないだけに、深刻である。
セフティネットから、すり抜け、ずり落ちそうな危険性もはらんでいる。
優しすぎる、おとなしすぎる女性は、モラルハラスメントの被害者になりかねない。

わたしも若干その傾向があり、趣味の場では辛い目や苦しい立場に追いやられることもある。
自分に原因がある、自分が悪いと思い込むのは、よくないそうだ。
わたしは内省する心が強い時があり、特定のタイプの人との組み合わせによっては深く傷つく。
であるが、たまたま傷つけられるような相手とはうまく離れられてラッキーだった。
わたしは、同時に、楽天家で無神経で鈍く自己チューなところがあるせいで、とことん傷つかないのかも知れないが。
でも、あの電車&喫茶店の男性みたいな人となら、絶対に傷つく。
というか、あんな人なら最初に人物評価を下した時点でシャットアウトしていると推測する。
結構、無意識ながらも自己自衛本能は備わっているようなので。

とは言え、あのようなおとなしい女性が日常的に被害に遭っているのを目の当たりにして、こころが痛む。
別れることが出来ることを祈る。
でも他人にはわからない、二人だけの何か絆みたいなものもあるのかも知れない。
だが、わたしなら嫌だ。

悪口三昧

2020-08-22 | 人々の風景
喫茶店に入った。
周りのお客さんたちは、ペチャクチャとよく喋る。
別に聞くともなく、勝手に聞こえる。
じつに、しょうもないことを延々と、くっちゃべっている。
だれに迷惑をかけるでもなし、友達らしき人同士が、共通の知人をこき下ろしている。
悪口オンパレ。
ああやって憂さを晴らしストレス解消して、休み明けにはまた元気に出勤することだろう。

先日も別の喫茶店で友人同士?が、他人の悪口をぶちまけあっていた。
耳ざわりはかなり良くない。
まあ、人間のホンネだろう。
鬱病になるよりはマシ。

聞かなければいいわけで。
耳に栓をするか、注文したものをとっとと食べて店を出ていけばよい。

人の悪口は嫌なものだ。
そう思うと、うちの子供たちはそういう会話はしないなあ。
悪口を延々と喋るのではなく、スパッと斬るというかんじか。
世の中の人は、人に聴いてもらってストレスのはけ口にしているようだが、私は御免こうむりたい。
嫌な真っ黒なドロドロ、、、悪口を言っている人だって、本人もちゃんと出来てないんじゃないの?
自分の不出来を世の中に晒しているようなもの。
と言っても、特定の友人に向けてだが。

お近づきにはなりたくないので、その場限りの一期一会の喫茶店のご縁。
と言っても、縁はない。
アカの他人。

わたしもブログでは思いっきりそうなっていることだろう。
お読みになられた皆さん、すみません。

働くということ

2020-07-18 | 人々の風景
今日のgooユーザーサービス「アピールチャンス」は、予想に反してスベらなかったようで、大変嬉しかった。
一種のギャンブルなので。
ハイリスク、ハイリターン。
お客さん、一人〜二人だけ、という時も度々あり、スベり抗体、耐性が出来た。
兎にも角にも、皆さま、ありがとうございます。

で、御礼も早々切り上げ、いつもの自己中、独断ネタに戻る。

高学歴ニート論を唱えるブロガーさんがいて、興味深く拝読している。
社会の(漬物石)重り、シンパシー派として、高齢者を引き合いに出されている。
これに専業主婦を加えたりすると、ひと昔前なら、てんやわんやの(昭和死語?)大騒ぎになっていたことだろう。
(今ならたぶん専業主婦の定義が変化しているはず)

高学歴ネタに食い付く人は少なくないはず。
「高学歴女子は家事が下手」とかも美味しいキャッチだ。

最高峰高学歴で仕事がデキない人を数人知っている。
ただし、それでも家族を養っているから素晴らしい。
低学歴でやり手社長も知っている。
ただし、やり過ぎてちょっと羽目を外したりもしている。
頃合い、バランスが難しい。
普通の学歴で普通の人も知っている。
あと付け加えるなら、、、
高学歴で仕事がデキる人、
低学歴で仕事がデキない人、
高学歴&低学歴で仕事をしない人、

専業主婦は?
これは今回は横に置いておこう。

仕事や分野にもよるし、一概に総括しにくい面がある。
家庭のサポートが有る無しによっても働き方が変わるような気もするし。

「日本の成功した300人」なんていうのもある。
基準は?
年収?
ポスト、役職?
誰に認められるのか。
上司?外部?

内部で認められないと社外に出るだろう。
自由業や自営業は?
目立った業績を上げるのなら、起業家が主?

ユニークな発想や存在だったり、今後の活躍が期待できるものだったり、現状はまだ芽が出ていなくても。

そんな上澄みをターゲットにするのではなく、もっと幅の広い選択基準ではどうか。

社会事情が少々変わっても雇用が大丈夫な公務員は?
学閥とかあるのだろうか? 
(公務員は遠い親戚にしかいないので、公務員のことはあまり知らない)
だが、業績不振でリストラなどはないのでは?

林・元予備校先生の「やりたいことをする以前に、出来ることをする」に、わたしは一票。
やりたいことを選べるのは別に高学歴の人だとは限らない。
AIが頭脳の代わりに働いてくれるから、優秀な頭脳は即戦力としてはそこまで必要ない?
(職種や職場規模にもよるだろうけれど)
受験ノウハウ・テクニックをマスターした高学歴よりも、ある分野に飛び抜け、ずば抜けて優れている人が求められている?
あるいは、独創的な人?
高学歴という括りでは捉えきれないだろう。

だが、高学歴の人が、以前、わたしが勤務していた極小会社の求人募集で応募されてきたが、第一印象通り、ダメだった。
高学歴はかえって一般のそこらへんの就職の手枷足枷になる。

キャリアがあっても、ほんの少し前まではそれでよくても、今は通用しないように、時代の進化のほうが速くて、かえって邪魔になる場合もある。
しかも本人は自分の過去の成功体験から離れられないで、臨機応変に柔軟な発想ができない。

仕事は難しい。
出会い、マッチング。
いつまでも理想の仕事には出会えないことは普通にあり、どこで妥協するか、なんだろう。

橋下徹氏ぐらいになれば、そりゃあ周りにいるメンバーも違うのだろうが、一般の人々はまた違う。

経済的にあやふやな立場のわたしが、何千時間、力説しても始まらない。
経済的自立なしには、仕事論を論じる資格なし。

ちなみに、ニートの人はどうやって食べているのだろう?
親のすねかじり?
主婦や主夫も経済的にはあいまいな場合もある。
あいまいでない場合もある。

ああ、全然まとめられない。
ぼやけて、ぼやぼや。
何を言ってるのか焦点ぼけぼけ。
テーマを選び損なった。
言葉の選び方も慎重にしないといけないし、、、。


最後に話は変わるが、
わたしの好きな俳優、三浦春馬さんが突然、この世を去って動揺している。
まだ30歳。
若すぎる。
生き急いだ。
ご冥福をお祈りします。






かなわん人

2019-12-03 | 人々の風景
さて、今朝は何を書こうかな。
リアルタイム、電車内、隣のブース座席のおばあさん。
目の前に座っている女性に、ベラベラ話している。
99パーセントをおばあさんが話し、1パーセントを前の女性。
ほぼ聞き役。にこやかや笑顔で、そうですね〜と、頷く。
アカの他人じゃないかと思う。
なぜなら、あんな話、延々と聞くのは、ヘルパーさんぐらいなんじゃないかと。
見ず知らずの人に、自分の人生を語るおばあさん。
たんなる、おしゃべりなのか、寂しい人なのか。
なんだかね〜。

自分の人生を肯定しまくる。
子育てとは、夫婦とは、、、自分が偉い話ばっかり。
通路を挟んで座っていても、うんざり。
聞き役の女性も、降りるまでの辛抱だろう。
話の中身を一句もらさず、聞いているわたしのほうが、かなわん人かも。
次の駅で降りるまでに、ブログ終了できて、やれやれ。
これを「暇つぶし」という。

あら、話題の通路隣のおばあさんも降りるようだ。
大阪は都心だから、いろんな人が集い通過する。

少年と、わたし

2019-12-01 | 人々の風景
昨日、21時から、テレビ番組、NHKスペシャル、「ボクの自学ノート〜7年間の小さな大冒険」を見た。
とても感動した。
隅から隅まで、端から端まで、わたしは大絶賛、大共鳴。
とても共感を覚えた。
今は高校生になった梅田明日佳君が、まるでわたし自身、自分のことのような、そんな錯覚を覚えた。
どっかりと感情移入した。
きっと、沢山の人が同じような感想を抱いたと思う。(彼と似たような性質、傾向の人は)
明日佳君は、小学校3年から始めた自習ノートを先生に読んでもらっていた。
小学校を卒業すると、自習ノートの課題は終了したが、引き続き自習ノートを書き続け、読んでくれる人々を探して、直接、手渡した。
読んだ人達は、絶賛していた。
だが、明日佳君に手紙を渡されたうちの一人の女性が放送内で言っていた。
もし自分の子供なら、、、手放しでは喜べない、と。

作文、絵画、自主研究、、、いろいろ自分の興味あることを自習ノートを通して世の中と繋がっている明日佳君。
あんな逸材なのに、学校では、変わり者扱いだそうだ。
アインシュタインと同じだ。
好きなものにのめり込むのはよいが、時間は無尽蔵ではない。
時間をかけすぎず、効率を考えよう、でないと社会では適応できないよ、と学校から指導を受けている。
やるべきことをほったらかして、好きなことに打ち込んではならない、と。
まあそれも一理ある。
学校は社会の常識も、とりあえず教える。

明日佳君は、公立高校の受験に失敗した。
好きなことに打ち込むあまり、学校の勉強が疎かになったのだろう。
よくあることだ。
個性を大事にすると、全体的にどれもまんべんなく出来る、ではなくなる。
凸凹が出来る。
スペシャリストか、ゼネラリストか。
明日佳君も、理系か文系か、自分の進む道に迷いがあるようだ。

アインシュタインの素晴らしい点は、ものすごく難しいことを、誰にもわかるように伝えられることだそうだ。
明日佳君は、口べたではあるが、文字や行動で、伝える力が強力、押しが強い。
だから、文系、理系と決め込まなくてもよい、と明日佳君を知る人がアドバイスしていた。

目がキラキラして、好奇心の塊の明日佳君。
わたしは、彼の、自分が考えていることを人にわかるように説明する能力、文章力に、脱帽した。
頭の中でこんがらがって、ぐちゃぐちゃになるのではなく、整理されている。
彼はアナログ少年で、タイポグラファーのように、きっちりした美しい、わかりやすい、鉛筆習字のお手本のような文字を書く。
筆圧も、しっかり。
さらさらと、くるくると軽く適当に鉛筆を回して、流しているのではない。
一文字、一文字、力を込めて、こころを込めて書いている。

だが、友達と遊んだり、周りには目を向けず、ひたすら自分が興味のあることだけを掘り下げる。
なので、同級生たちや学校では、コミュニケーション能力がないとみなされる。
このあたり、わたしと似ている。
だが、わたしは、若くなく、将来性もなく、才能もないので、自分が面白いと思うことだけに関心があり、コミュニケーション能力がない部分だけが、明日佳君との共通点だ。
肝心カナメの、キラキラ能力はない。
でも、なんだか、(能力の有無や、ポテンシャルの違いはあるが)自分を見ているようで、とても面白かった。

いったい、なにをこんなにワクワクしているのだろう、、、
長女に一連の番組で紹介された明日佳君のことを話すと、クールな反応が返ってきた。

もし、明日佳君みたいな子が自分の子供なら、やはり困るかも知れない、と。
どの分野でも、ものにならない時は、どんな職業で身を立てるのか、と。
夢、理想、好きなことと現実。
彼女はわたしの子供の割には、とてもシビアだ。
母親であるわたしがこんなのだから、だろうか。反面教師。
しかし、精神的にも経済的にも社会的にも、自立してくれて嬉しい限りだ。

わたしは、良い時代に生まれた。
今、平成や令和にもし生まれていたら、完全に落ちこぼれである。
わたしが生まれた時代は、今と価値観や、社会のシステムが違っていたので、わたしのような人間でも生きていけた。
ああ、よかった。わたし。
(ちっとも反省にはなっていない、、、)


自分の危機を乗り越える方法

2019-05-25 | 人々の風景
昨夜見たEテレ、20時から放送のテレビ番組「人生レシピ」。

ダントツに熱心に見る「ファミリーヒストリー」の次に、ちょっと好きな番組だ。
鶴瓶の旅番組は、見ない。なぜか、ノイズになる。
人が紹介する旅はあまり好きではないし、鶴瓶の旅番組は、人情味や家族愛、ほのぼの温かさが売りなのだろうが、かえって、わたしにとっては息詰まり、暑苦しい。

さて、昨日の「人生レシピ」。
いつなんどき陥るか分からない人生の苦境を、誰の中にも備わっている“レジリエンス”を引き出し、乗り越える方法を紹介する内容だった。
「レジリエンス」、、、聞きなれない言葉。
たぶん、覚えられない。
レジデンス、レジエンス、って言いそうだ。
まあ、なにしろ、それを興味深く見た。
安藤和津さんが出演していて、一昨年まで鬱だったようなことを言っていた。

末期ガン宣告された、元タカラジェンヌが、深い絶望から這い上がるプロセスも紹介されていた。
人がどう思うとか、人にどう思われる、とかではなく、自分がどう思う、自分がどうしたいかを軸に、ものごとを考えるキッカケになったようで、過去の呪縛から解放され、病気になる前より、今が楽しく充実しているとか。

わたしにも思いあたるフシがある。
人がどう思う、ではなく、自分がどう思うか、、、。
かつて、母が、「世間なんか人のことを言うばかりで、何もしてくれない」と怒っていたことを思い出す。
わたしが人間関係のことで少し悩んでいた時に、姉に言われたこともフラッシュバックする。
「あんたの悩んでいる人たちは、人がどう思うか、それが基準になっていて、自分が無い。すべて、人に映る自分。

○○したいが、▲▲さんに非難されるからできない、というのも。
▲▲のせいで、わたしは、○○できない。

非難や反対意見を恐れては何もできない。
自分が考えているのではなく、他人が考えていることに自分が振り回されている。
自分は悪者になりたくないから我慢する。
自己犠牲と引き換えに、非難されない自分を手に入れる。
かわいそうな自分、と、皆んな言ってくれる。
「○○できないのではなく、しようと思えばできるのに○○したくないだけだ」と姉が言った。
できない理由を他者のせいにする。
受動的、被害者意識が強い、自分を悪く言われるのが怖い、ただの臆病者だと。
こころを落ち着かせて、静かに自分の気持ちに耳を傾ける。
何、言ってる?
自分はどうしたいの?
他人のノイズはさておき、自分は?

この発想法にシフトすると、余計なものは削除され、とても気持ちが軽くなった。
自己責任で自己選択する。
したいことをすると逆風とセットになるが、同時にリスクも引き受けて、突き進む。
リスクなしで、自分がしたいことは出来ない。
リスクを少しでも軽減したり、自分のやりたいことをどうしてもしたいのに邪魔が入った場合は、策略を練る。
子供みたいに、「あれ買って〜」とダダをこねたり、どうしても欲しいからと、人のものを取ったり、手段を選ばないのは、やはり非難されて当然だ。

よほど周りや世間の皆さんが同情、共鳴、応援してくれるような気の毒な状況なら別だろうが、出る杭のような、他人がしたくても出来ないことを、自我を出して一歩進むことは、良く思わない人も必ずいる。
非難されてもいい勇気とセットで、やりたいことをする。
(ただし、知恵付きで)
評価の目を気にすると、評価されることを目的にして主客転倒した行動をするのであって、それは本当に自分がしたいことなのか。
自分の胸に聞いてみるといい。
純粋に自分は評価されたいことをしたい、それがどんな辛いハードなことであっても、自分がしたいことだ、というなら、それでも大いに結構だ。
したいことをしたら、結果的に評価された、なんていうのは理想だが、なかなかそんなうまい話はない。


番組では、福島の原発事故で家も土地も失った一家が、前を向いて暮らしを再建させた様子も映し出していた。
「後ろを振り向くな、前だけを見ろ」と、旦那さんが言っていた。
彼がかつて、よく親に言い聞かされていた、「全力で前だけを見て走る、後ろを振り向いてはいけない」という教え。
宗教ストーリーでは、教えに背いて振り返った妻は塩の像にされるのだが、そういう宗教的寓話が信念の中心にあったかも知れない。

宗教でなくても、こころの柱があると、ぐらつかない。
わたしで言えば、「自己チュー教」か、はたまた「自分教」か。
教祖、兼、信者、一人のみ。
一人だから、コロコロ意見を変えても、誰にも文句を言われない。
文句を自分に言われたら、自己嫌悪が伴うにしても。

末期ガンが治癒され、快復するわけではないが、精神的に回復すれば、それが一番の救いか。
末期ガンは、他人が見た、同情すべき状況だが、本人のこころは、解放されている。
ただ、他人にはわからないだろうが、本人が良ければそれでいい。
他人にわかってもらおうとするから、お互いしんどい。
自分がわかっていたら良いのでは?
(さらに欲を言えば、ごく近い身内だけがわかってくれたら幸せ。
身内がいない人もいるし、いても断絶している人もいる)

物分かりのよい自分にするには、日頃から自分ととことん話し合っているほうが、いざという時に手間がかからない。
わたしの場合、自分との長々しい対話は、もしかの場合に備える危機管理かと言えば、そんなのでもなんでもない、たんなる、趣味なんだけど。
ブログに救われてます。


人々が交差する、昭和レトロな喫茶店

2019-04-22 | 人々の風景
大阪市内の、環状線やら、私鉄やら、いろんな電車が停まる駅の、駅前ど真ん前にある喫茶店。
昭和レトロな雰囲気で、分煙なんか、どこ吹く風。
プカプカ、モワモワ、お構いなく、周りからの濃い煙に、帰宅するとタバコの匂いが服に付着している。
ダンス会場に行く時、そこでボリュームたっぷりな、お値段も昭和の良心的価格のランチを食べるのだが、、、。

今どき、分煙しない店など珍しいからか、はたまた、良心価格のせいか、あるいは、立地の良さからか、いつもその店は混み混みである。
どう見ても時が逆流したような店。
古い、ビニール椅子に脂っぽい手あかが、テカテカついたような、庶民的な風情。
高級志向の人は、行かないかも知れない。

その店では、もちろん周りに遠慮することなく、思いっきり、タバコをプカプカ吸う人も多く利用する。
サラリーマンもいるし、労働者、ブルーカラーも、子連れ主婦も高齢者も、老若男女で賑わっている。

と、長々説明。
そこでわたしが、とても驚き感じることがある。
喫茶店だから昼時は主にその店のオススメランチを食べるが、一人で来る人もいるし、おしゃべりしている人もいる。
で、近くから、おしゃべりが聞こえると、ある種のトーンには、わたしは耳ダンボになってしまう。

まず、声、発音。
わたしは生まれも育ちも国籍も日本なので、日本語や日本人の細かい特徴がよくわかる。
背中合わせなので、顔は見えないが、イントネーションや、話し方で、即座にその人の社会的属性が想像できる。
うわぁ〜、絶対にわたしとは、接点がない人だ!という人がいる。
(昨日のわたしの背後に座っていた女性)

そのダミ声の女性は、マイナス感情を吐き出すように、一方的に話していた。
まずは、状況説明、自分との関係。親族の話のようだ。
長々だらだらと一方的に聞かされる、親族でもなんでもない相手のことが気になった。
なぜなら、あんな話、関係ない人にとっては、なんの関係もなく、しかも不満を爆発させられてもはた迷惑なだけだ。
しかし、相手は、ほんの一言、二言だけ、合いの手を入れる。
わたしは二人の関係性を想像した。
あんな話に素直に付き合ってあげる相手とは?
ちらと見ると、背中合わせの女性の肩越しに、相手の肘から先が見えた。
腕と袖口から、60代前半ぐらいの男性だと推定した。
この、ダミ声の女性の夫ではない。(内容が、相手は知らないと思われる親族の話だから)
では恋人か?
肩から上だけの後ろ姿で想像する、ダミ声女性は50代後半〜60代か?
まあ、恋人でもあり得ないことはない。
男性が、女性に熱を入れているのだろう。でなけれな、おとなしくあんな話を延々と、しかも肯定スタンスで聞かない。

それにしても、ダミ声女性。
なんども振り返ってしまうほど、わたしとは接点も縁もないタイプ。
年齢だけは同世代と思われる。
場所が大阪市内のど真ん中、しかも、梅田とかではない、ちょっとディープな地域だからだろうか?
どうすれば、あんなに、オール・マイナス要素の掃き溜めみたいなキャラクターが形成されるのだろう。
どんな生き方を積み重ねると、あのようなテイストが醸し出されるのだろう。
マスコミで報道されたり、映画やドラマで見て想像する、犯罪関係者的ニュアンスが漂うイメージ。
もし、あの女性が、同じ地域に住むか、同じ職場にいるか、親族にいるか、だったりして、頻繁に関わりをもたなければならなかったり、利害関係があったりしたら、わたしはこころの病気になるだろう。

というぐらい、、、しかし、わたしが知っているのは、彼女の肩から上の後ろ姿と声と話し方、内容の一部だけである。
決め込み、決めつけが著しいが、だいたい予想は外れたことはない(と自分では思っている)。
(しかし、今までの経験からすると、思い込みは結構激しいようにも感じるが、感受性が強く、どんどん想像が膨らみ、早とちり傾向もあるように捉えられなくもないが。
後になって、なあんだ、思ったほどのことはなかった、ということは、ないことはない、、、
と、自分の間違いを認めたくないものだから、読みづらい文章表現「二重否定が続く」背景、原因、解説を見苦しく付け加える)


で。
なんと長い、まったく見ず知らずの、なんの接点もない彼女の悪口を書きまくったが、、、
驚いたことに、その話を対面で聞かされていた相手は、恋人ではなく、女性だった。(今の時代、同性の恋人かも知れないが)
おかしいなあ、、、腕や袖口イメージでは男性だったのだが、、、女性もある年齢を超えると中性を超えて、逆の性別に変化するのだろうか、、、。

そして、次に、その同性の相手が口を開いた。
今度も一方的にペラペラ状況説明。
その後、またまた一方的に意見、感情を延々と。(話の中身は、人間関係が絡む、職場、仕事の仕方について)
ダミ声女性は、一言も発せず。
この二人、かわりばんこに、感情の吐き出し合いをしているのか、、、。
道理で相手がしゃべっている間、もう一人の人は、なにも話さないはずだ。
相手が話し終わるのを待っている、順番待ちだったのか。

相手にとっては、全く興味のない話であっても、聞いてもらうとスッキリするのだろう。
わざわざ人に話す内容ではないと不思議ではあったが、内容よりも、話すこと自体に意味があるようだ。
気が晴れるんだろう。
わたしのブログと同じだ。

ランチタイム、お昼休みのひとときを、こころのリフレッシュに使う人々だった。
わたしは、同じ時間帯、彼女たちとは背中合わせで、スマホ端末の説明を受けていた。
どっちが有意義か、なんて比べる意味がない。
どちらも、それぞれの思い思いの時間の使い方をしている。
ランチタイムが終われば、それぞれの持ち場に戻る。
大阪ディープ喫茶店は、同じ時間、同じ場所に、いろんな人が交差する。
そんじょそこらのテレビや小説より、ずっと面白い。

もやもや、もやもや

2016-10-29 | 人々の風景
昨日の富裕層デパートの記事。
行きの電車の中でほとんど入力し、締めはアポ待ち時間、さらに仕事の空き時間に、加筆訂正したので、まとまった時間を取った上でゆっくり考えられなく、どうも、アタマの中で自分なりの、すっきり感がない。
納得の結論が導かれないまま、今日の朝を迎えた。

で、たまたま、寝ぼけた顔で起きてきた次女に、投げかけた。

「昨日の話なんやけど、どうも、もやもやする」

いつもならメンドくさ煙たがられるところが、本日は非常に珍しく、話に付き合ってくれた。
で、手短に問題点や疑問点を話した。
途中、脱線しまくりで、(「話が外れてるで」と指摘されるまでもなく)ちっとも手短ではなかったが。

次女曰く。
「人の目を通しての富裕層ウォッチングではなく、自分の目でHデパートに行って、見てきたら?」

なるほど。納得。

そもそも、富裕層とは?その定義、捉え方が、わたしの姉と、わたしとは微妙に違う可能性がある。
姉妹であるが、家を離れるまでは同じ育成歴でも、離れてからは違う別人生。
(そもそも生まれた時から別人格)
多少の誤差は生じるだろう。

で、
富裕層うんぬんよりも、ファッションセンスの問題ではないかと。
センスは、人によって違う。
多くの人に愛され憧れられるファッションが好きな人は、求めているものと、求められるものが同じだから、一直線で、やりやすい。
わたしのように、自分の好きなものと、一般的な好みとに多少のズレがある場合が、ややこしい。
決して人様からの賛同を得たいわけではないが、人が良いと思っているものに対しても、確かに物理的には良いとは思うが、それがどうした?と、なる。
自分もマネしよう、取り入れよう、参考にしよう、とはならない。
否定はしないが、なびかない。
肯定するとしても、多くあるものの一つ一つとして、それぞれを肯定する。
決して、それだけが良い、他のものは良くないとは思わない。
ふ〜ん、そうなの、それで?
と、なってしまう。
可愛げない。
自分の核を持っているから、混じったとしても、溶けないのだろう。

ファッションから入る富裕層、こういう流れで定義しようとするから、すっきりしないのだ。
ファッションそのものに、頑とした自分を持っているので、「高そう→富裕層」という式はあっても、「マネしたい、参考にしたい」とならない。
しかも、最近のわたしは、同じ「高そう」でも、ファッション性を追求するのではなく、快適性、機能性を重視する傾向にあると思われる。
だとすると、ウォッチングは正解だ。
見て楽しむ。自分なら、買わない、着ない。憧れない。
「ふ〜ん」の一種。

人それぞれ価値観は違うし、ファッションセンスにいたっては、もっとバラバラ。
だから、服が売れるのだろう。

歩んできた道によって、価値観は分かれる。
ファッションセンスは、さらに価値観以前に、感性の問題。
「好み」ってやつである。
人それぞれで、どれも正解で、決まりきった模範解答はない。

富裕層が集まるデパート

2016-10-28 | 人々の風景
大阪、梅田、H百貨店(同じH百貨店でも、下町を走る電鉄会社系ではなく、山の手、高級イメージのほう)に行くと、貧富の差を感じる、と、若手・顧問税理士Kが言っていた。

「金持ちって、いるところにはいるんですね」
と、目を丸くして興奮気味。

姉も、あのデパートで、富裕層ファッション・ウォッチングをすると楽しい、と言っていた。

高級外車で駆け付ける、ベビー連れのママ友たち。
まあなんと、おベビー様は、お高そうなベビー服を着て、ママたちも高級ブランドに身を包んでいたそうな。
梅田のど真ん中、電車で来いよ、と、無関係な他人の声。

若い人はブランドがんがんだが、しっとり年齢層の奥様たちも、上から下まで、それはそれは上質な服装。
ギンギン、ブランドを表面には出していないが、バッグまで、一点ものと思われる、いかにも高額で趣味の良い装い。
ヘアも当然、手を抜くことなく美しく整えられ、トータルコーディネートは完璧、お金持ち〜というオーラを放っているそうだ。
服装、身なりによる、富裕層判定である。

家に帰って、姉のマダム・ウォッチングの詳細を下の娘に説明すると、
「お金の全てを服装に使っているのかも知れへんやん」と。
相変わらず、ユニークな反応。
全身ユニクロ・トータルコーディネイトは快適だ、という、コメント付き。

なるほど。
各自の価値観。
若手顧問税理士Kは、一昨日、会議室で姪が着ていた、とある人のお下がり服を良い品質だと褒めちぎっていた。
が、わたしは、物質的には上質であるとは思ったものの、誰が、どんな人が、いつ、どんなケースで、どのように着るか、だと感じる。
人が身につけて、初めて服は生きる。
物質的に服の質を褒めても、それはあくまでも一面であり、あまり意味がない。

その会議の時に、わたしは自分の着ていた服が安物だったこともあり、自信のなさから来る反発を感じたからかも知れない。
ちなみに、最近の若手・顧問税理士Kの服装は、けっこう、へん。
おそらく、彼の精神状態を表しているとわたしは見ている。

服装は、人なり。

しかしなあ、お買い物するために都心のデパートに来る時の服装、気張ってみてもなあ。
いわゆる、よそいき。外出だけで、何も作業しない服。
普通の生活がそのレベルだとしても、いかにもお高い上質な服で、作業が出来るか?
1日中、着ていて、着崩れたり汚れないか?
仕事する人だとしたら、演説や遊説のヒラリーさんか、小池さん。
あるいは、ファッション関係の仕事をしている人。
または、皇室などの公人。
映画で見る貴族を想像してしまう。
それ以外の人なら、お高い服は、たんなる道楽。
お金持ちの道楽が、たまたま服だった、ということだ。
服以外にも、道楽の対象はたくさんある。
その、Hデパートの富裕層(認定基準は、服レベル)は、衣食住の暮らしの予算が、庶民の何十倍の額をさらっと消費する、生活水準の高い、とてつもない大金持ちか、
そうでなければ、あまりこだわりのない人生を送っている、欲のない、幸運な人だろう、と人物像を推測する。
しかしながら、お金持ちは、ぼ〜っと、ぼやぼやしていると、相続税であっという間に、身ぐるみはがされる。

まあそれはそれとして、やはり、H百貨店の顧客は富裕層で、わたしは庶民だと感じた。
わたしは、K百貨店派。
地元重視なら、T百貨店。
で、それがどうした?の話でした。



薄ら寒いファミリー

2016-10-14 | 人々の風景
大阪中心部、至便な場所にある、ある高級ホテル。
ロビー、エレベーター前。

4〜5歳ぐらいの孫(男児)が、おじいちゃんを足でボコボコ蹴っていた。
靴のまま、おじいちゃん目掛けて蹴るが、おじいちゃんは背の高い人なので、当たるのは膝あたり?
おじいちゃんは、「(そんなことしたら)恥ずかし〜、恥ずかし〜」と何度も言っていたが、男児は蹴るのをやめなかった。
男児の顔を見ると真剣。
遊びでふざけているようには見えなかった。

おじいちゃんは、スリムでスラリとした体型に白っぽいコットン系パンツのラフな格好の、上品そうな紳士風。
孫の年齢から見ても、小泉純一郎さんとか、ああいう世代ではなく、一世代若い、今の世代のおじいちゃん。
が、風格、品格は、小泉さんランク。

靴でボコボコ蹴り続ける孫、蹴られ続けるおじいちゃん。
いったい、家族はどんな家族なのか?
娘さんらしき人は、無関与。
奥さんらしき人も、無関与。

わたしは、仮にどんなにキライな夫や親であったとしても、孫に蹴られているのを放置しない。
娘や婿もそうだろう。
人前であろうがなかろうが、おじいちゃんを本気で蹴り続け、家族が見て見ぬふりをするなど、考えられない。
わけのわからない分別のつかない孫であっても、4〜5歳にもなれば言って聞かせたら、わかるだろう。
野放し、躾なし。
そういう一家なのだろうか。

おじいちゃんだけが、「恥ずかし〜」と世間体を気にしているのみ。
しかしながら、世間体の問題ではないはずだが。

確かに、世間の一人である、アカの他人のわたしは、どういう一家なんだろう?と疑問を通り越して、嫌悪感を抱いた。

ひょっとすると、奥さんも娘さんも、おじいちゃんに恨みを抱いていて、男児の行動にスッキリ感を覚えているのかも知れない、と思った。

おじいちゃんの経済力で良い目をさせてもらっている、その裏で、全く感謝していない、冷たい家族だと、わたしの目には映った。
そうでないとすると、おじいちゃんは、けしからん行いをし続けてきた、感じ悪い、家族全員からの鼻つまみ、嫌われ者なのか?

男児は、異常児でもなさそうな、普通の顔をしていた。
知らない、教わらない、自分のしていることが良いことか、悪いことか、全くわかっていない。
大人が教えるべきだが、あの家族にはあの家族の価値観やルール、掟があるのだろう。
異常さはかけらも現れていない、見かけは、上品、場所は都心の高級ホテル、なだけに、ちょっと薄ら寒いものを感じた。

お年寄りを大切に、なんて、もう過去の幻なんだろうか。
家族内であんなふうだから、世間で他人ばかりの間では、想像するに易い。

しかし、家族は、社会のミニマム・コミュニティ。
今どきの家族って、ああいう感覚が核となって、肉付けされて大きくなっていくとすると、コワイ。
考えすぎであることを祈るばかりだ。