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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

命の輝き

2022-11-12 | 老い
なんだか久しぶりの、休日。
他にも休日はたくさんあるのに、精神的に休日。
他の休日の日は、何をしているのだろう?
うーーん、、、
最近、時間の観念が変わり、自分でつかみきれないわたしの感覚。
脳の休日は毎日なんだけど。

さて。
藤井フミヤがNHK歌番組、SONGSに出演していた。
還暦なんだって。
最も若く見える還暦人の中の1人だそうだ。
が、、、
わたしとしては、ちょっとびっくり。
声は若い頃と全く変わらない、伸びのある美声だが、、、体重も若い頃と変わらないらしいが、、、
顔が、、、歳を重ねていた。
当たり前なんだけど。
50歳ごろにテレビで見かけた時から時が経っている。
ブランク10年の間に、顔はすっかり歳相応になっていた。
50歳頃はいい感じに歳を取り、素敵な味わいが増していた。
が、わたしの個人的好みからすると、還暦の彼の顔は、容色が衰えていた。
彼の場合、顔のピークは50歳かな、と。
あくまでも顔、限定。

ショーケン(萩原健一)など、美しい歳の重ね方をしていた。
あくまでも顔だけを見ての感想だが。

歳をとると、容色が衰えるタイプと、渋みが増して良くなる場合がある。
童顔の人や若い頃、美人、イケメンの人や、シニアになって美が増す人がいる。
舘ひろしなどは、後者。
若い頃より、今のほうがずっとステキ。
個人差だろうか。

デビ夫人は、直近見た22:00からのNHK新教養バラエティ番組「四大化計画」では、きちんと綺麗に長時間、座っていることにさすがだと思った。
(休憩時間を取り編集されているにしても)
80歳を越して、一定の綺麗な姿勢を保てる背筋、腹筋力。
発言する時の表情筋。
しかも、おだやかな表情になっていた。
特別にNHK向きバージョンに変えているとは思えない。(本当のところはどうかは知らないが)

顔の美しさは皮膚で覆われているため、まず皮膚の張りが目につく。
シワやたるみも、皮膚のバリエーション。
器量、容姿は、顔の目鼻立ちのパーツ一つ一つの形と配置で決まる。
顔の影響で人生が大きく変わる人と、そうでもない人がいる。
特に女性。
長い間、その顔で生きていると、経緯や経験が顔にプラスオンされる。
顔は履歴書と言われる所以か。

女性は灰になるまで女性だと言われるが、性同一性障害の、元男性、現女性の場合も、灰になるまで女性なのだろうか。
身体とこころは、どのあたりの年齢で交差するのだろう。
しわくちゃおばあさん(元男性)も、息を引き取る直前まで女性の意識を保つのだろうか。
それぞれ個体差、個性差があると思うのでなんとも言えない。

ちなみに、TV番組「ポツンと一軒家」に出ていた山奥に1人で住む87歳の高齢女性。
めちゃくちゃステキだった。
ステキと言っても、デビ夫人や草笛光子路線カテゴリーではない。
薪を割り、薪でお風呂を沸かし、煮炊き物をし、沢で水を汲み運び、畑を耕し、、、
重労働のせいか、腰は曲がっていたが、耳はよく聞こえ、受け応えのリアクション反応もなかなかウィットに富み、表情がまた素晴らしく良かった。
笑顔が暖かくかわいい。
わたしには絶対に真似できない。
脱帽、圧巻。

家屋は昭和40年代に建て替えられたそうで、(わたしの感覚からすると)それほど古くない。
養蚕農家としての大きな家屋。
大工さんが7人?ぐらい、寝泊まりして数ヶ月かけて建てられたそうだ。
その間、大工さんたちの炊事洗濯を1人で引き受けていたらしい。
すごい。唸ります、、、。

心身共に健康。
病気をする暇がないほど、身体を動かし続けている。
腰が曲がるのは重労働のせいである場合が多いらしいものの、普通になんにもしない人でも腰が曲がる症例がある。

あの生活ができる強靭な人間力がすごい。
仕事をリタイアした65歳を過ぎた息子さんがちょいちょい麓から様子を見に来てくれたり、彼女に頼まれた魚などの食材を届けるにしても、、、だ。

山奥ではないにしても、明治生まれのわたしの祖母も似たような生活を送っていた。
88歳で息子(わたしの父)の家に引き取られたものの、田舎の大きな家で1人住まい。
祖母は、引き取られるまでの期間こそが命が輝いていた。
自立生活出来る間がハナだとつくづく思う。


おばあさん

2022-08-30 | 老い
やっと雨が止んだ。

ゲリラ豪雨に感じるぐらいの強い雨。
FMラジオの向こうでは、大阪市内は雨は降ってないとDJが言う。 
ちょっとした地域差でこんなに雨雲の場所が違うものか。

強い雨は不安。
孫たちの通学や通園にも影響するだろうし。
今は小雨になっているが、またいつ雨足が強くなるかわからない。

不安な時間を過ごしながら、スマホ広告で導かれたコミックを読んだ。
第一話は、無料立ち読み。
わたしは無料以上、進んだことはない。
ケチだからというだけではない。
第一話にエッセンスが詰まっているのだ。
ツカミの部分は、最大のチカラがある。

今回は、おばあさんが美容に目覚める話。
おじいさんや息子たちは、年寄りが化粧などみっともない、といつも批判的。
特に、じいさんが。
誰も見てない年寄りに、何を今更、頭おかしい?
はよ、俺のご飯用意してくれ、、、なんて常日頃のスタンス。

なにもケバケバど派手なメイクをしようというものではない。
うっすら自然な、自分を愛おしむナチュラルメイク。
ちなみに、わたしは、マスクでどれだけ助けられているか。
外からは目しか見えないありがたさ。
しかも、老若男女。皆、平等。

ヘアスタイルの違いは、人それぞれある。
わたしはオデコも出している。
そのせいで、最大に深い大きな皺が露わになっている。
先日、「オデコに皺あるなあ」と言われた。
「はい、姉も兄も同じ場所に同じような状態の皺があって、3人並ぶと、皺がそっくりで面白いですよ」と、負け惜しみに近い、話題展開をした。
歳がどうだとか、美醜がどうだ、という観点から、ころっと違う観点に切り替えた。

だが、家に帰ってきて皺をマジマジ見た。
やっぱり強烈にクッキリ刻まれている。
前髪を垂らして隠してもいいんだが、隠さない。
若がえり美容整形も選択肢としてはあるが、しない。
皺は生きてきた証だ。
文句ある?

「皺があるなあ」と言った本人こそ、皺があった。
「あんたも皺あるやん!」とはわたしは言わなかった。
皺の現実をそのまま口に出されただけだ。
何も考えず感じたままを言う、その人物のキャラクターである。
皺は動かせない事実としては、インパクトがある。

皺あるけど、それがどうした?
なぜ皺を恥じなければいけない?
それがわからない。
道に咲く花が枯れかかっているのを温室に植え替える?
まあ踏んだり抜いて捨てるのではなく、植え替えも悪くないけれど。

枯れるのは自然なこと。
いかに受け入れ肯定するか。
意固地になって抵抗して少しでも若さを維持したいのはわかる。
だが、さらりとやっていただきたい。
何ごとも必死さが前面に出るのは美しくない。
かえって老醜を暴き出す。
必死でやっても、それは水面下でやって、見えるのは自然な理想のかたちでありたい。

枯れて枯れてパサパサになるのを推奨しているのではない。
いつまでも感動するこころを持ち続けたい。
自分をあきらめない、自分を愛する自分でありたい。
今までの自分を好きになりたい。これからも好きなことに囲まれたい。

雨は止んだようだ。
どこかの地域に雨足は移動していることだろう。




こころ

2022-06-15 | 老い
自分の気分を自分で調整出来なくなった。
あくまでも「気分」。
昔っから気分屋なのだが。
状況も周辺事情も全く同じなのに、何の原因もないのに、気分だけが何故か下がる。
「落ち込む」とまではいかない。
意味もなく、「ふさぐ」の一歩か(百歩か)手前。
これは、小さな小さな危険信号?
危険とまではいかない。
以前は感じなかったのに、最近はほんの少し自覚する瞬間がある。
が、1時間以内には治っている。
これも、自然な老化なのか?
今後、益々、意味なくブルーにならないよう、自分に祈っている。

ほうれん草とか、人参とか、体に良い食べ物を積極的に摂取する?
薬のお世話になることはない、と強く思う。
そんなに大したブルーではないから。
小さな軽い頭痛のようなもの。
今まで感じたことがない、超ハッピー人間、楽天家なので、未知、未経験のことには不安なのだ。

とか言って、今日は意味もなく気分が良い。
別に何があるわけでもなく、こころは快晴。
それはそれで、良いことだ。
必要以上に盛り上がってお祭り騒ぎということはなく、ただなんとなく、気分が良い。
病気なのかしらん?(ミニミニ躁鬱アップダウン)
お天気、日射状態や気温、湿度、雨、風、、、などに影響を受ける、、、ヘアスタイルのようだ。
微妙すぎて、話にならない。
もちろん、ブログネタにもならない。
でも書いている。
変わりゆくかも知れない自分が不安なのだろう。
こんなに楽天家で、ノーテンキのわたしなのに、こころの調子を自分でコントロールは出来ないようだ。
体調の良し悪しは、理由がわかる。
例えば、前夜、飲み過ぎると身体がだるい。倦怠感や疲労感に襲われる。
二日酔いという、世の中によくよくある、自分が原因のもの。
滅多に飲まないし、飲んでも少しだから、あまり二日酔いにはならないが。

原因不明の倦怠感というものも、ごくごく稀にあるが、数時間でリカバーする。
身体は丈夫のようだ。健康体。
アタマを使わないから、こころも丈夫。
繊細なガラスのようなハートは持っていないと自覚する。
だが、最近、電車内などでの他人の無神経な行動に遭うと、無性にムカつくことがある。
歳のせいか?
許容力低下?
一人でムカムカ怒りまくっているが、電車を降りると忘れる。
やはり、こころに悪影響を及ぼすものには極力近寄らないこと。
逆に、プラスの影響を受けるものやコト、場所に近寄ること。
旅やお店など、好きな空気に触れに行ったり、木々のグリーン、空や水辺の蒼、紅などの自然界の色を目にしたり、心地よい風、光を浴びると、こころが洗われる。

こころが喜ぶと、身体も元気になる。
自分の体調を知るように、こころの健康を保つために、自分の精神状態を知ることは重要だ。
自分ではどうしようもない時は、スイッチを切る。
また次の日になると、電源が入れ直され、リセット後は、新しくなって立て直されていることがある。
一日では無理なこともあるが、気長に待つ。
待っている間に弱りきってしまうこともあるので、自分の微妙な警報をキャッチし、自然にまかせすぎずに外に助けを求める。

わたしは、今まで求めたことがない。
頑丈なのだろう。
どうにかなってきた。
というか、何も出来事がなかったのでは?
しかし、そうなら、それはそれで、虚しくなるはず。
虚しくなる時間はなかったので、なんなりとそれなりに、することはあったのだ。


それはそうと、最近、夜、テレビを見ていると、居眠りをしていることが多い。
椅子に座ったまま、首だけ垂れている。
ヤダヤダ、、、だけど、見たいテレビのはずなのに。
あまりにも目が覚めない場合は、テレビを諦めて、本格的に寝室に場所を変えて就寝する。
NHK番組「世界はほしいモノにあふれてる」で、すごく可愛い小物をステキな街とともに紹介していたのに。
もう、あまり好きではないのか?
いいえ、とても好き。
じゃあなんで?
なんでだろう?
体調か。
あるいは、22:30以降は、まぶたシャッターが降りる閉店時間なのか。
順調に、おばあさん街道まっしぐらである。



新しい自分との向き合い方

2022-04-15 | 老い
前回の記事。
時計が急に早回りした話。
本人(わたし)は楽しくて息急き切って書いているのではない。
なぜこんなに延々とムキになって書くのか。
読み手の気持ちや疲労、倦怠感、退屈感、うんざり・めんどうくさ・じゃまくさ・どうでもいい感などの感想は全く眼中になく、ひたすら自分の勘違いの原因を書く作業を通して、直近の記憶を紐解き、脳内を整理しながら追及している。
自分の脳を解明する(ポンコツぶりを詳しく知る)ための作業である。

「バスの時間を1時間勘違いしたため、待ち合わせ場所に1時間早く着いた」
と、たった一行で済む内容。
よくまああんなに長々書いたものだ。
どのタイミングで勘違いしたのかを正確にチェック、考証したかった。
今後また何度も何度もあるであろう間違い。
その間違いのプロセスや性質を知り、攻略法を考える。
今後も正しく脳が働かない可能性は大なので、あんちょこ、失敗リカバリー手引きカンニングペーパーを作る。
こうなった時は、ここを再確認、あれを点検、一から戻る、一旦冷静になり、よくある事例を引っ張り出して思い出す。
その、よくある失敗事例は、ちゃんとチェックして原因を突き詰めておかないと、機械や器具の修理をするにもピントがボケたりズレたりする。

ケース1.ケース2.ケース3....と、いろんな事例集マニュアルがあると、なんだか安心。
未然には防げないだろうけれど、災害時持ち出し袋を備えるように、脳が緊急事態の黄色アラーム点滅した時に、とりあえずは落ち着く役には立つ。
とは言うものの、事例集と、新しく起こる失敗は、いたちごっこで、事例集に収録されていない、膨大な数の失敗事例が日々更新され、失敗事例集はもはや役に立たないかも知れない。
マニュアル作成が追い付かない。
新しい対処法を考えておかねば。

いちいち事例集を見てチェックしなくてもよい方法を編み出さねば。(事例集には載っていないから)
「失敗の数を減らす」なんていう当たり前すぎる、優等生すぎる、机上の空論的、絵に描いた餅的な答えは要らない。
かえって腹立たしいだけ。
では、、、どんな、、、?

とりあえず、時間はかかってもいいから、やはり一つ一つ検証してみることかなあと。
火を吹いて壊れかかっている脳に、水をかけて冷やす。
そんなあほな、、、!?を、まずは、まあまあまあ、、、と、気を取り直させる。
冷却装置が必要だ。
冷却装置を自分で編み出すにはまたまた膨大なエネルギーが要り、その間に続々と新たな失敗が生み出されることだろう。
焼石に水。

でもよいのだ。
どんどん忘れて失敗していくのは、こころの断捨離。
余計なものを削ぎ落とすついでに、大事なことも巻き込んで削ぎ落としてしまっているだけだ。
明るく元気な自浄作業。
涙で目薬要らず、みたいなものか。
(少し違うか)

とかなんとか、精神論で自分を奮い立ち勇気を持たせようとしている、わたし。
脳がダメならハート(マインド)があるさ。
ハートがダメなら、心臓(内臓)があるさ。

しかし、脳は内臓の動きすら司る大事な要。
大事にしなくっちゃ、、、。
(いつしか、話が逸れている、、、)
わたしの年齢なら、とりあえず生きていれば良いことがある(に違いない)。

キャッチー

2021-12-28 | 老い
ふるさと納税の御礼方々、その自治体から情報誌が送られてきた。
裏を見ると、介護付き有料老人ホームの広告が大きく載せられていた。
わたしは、このキャッチコピーに釘付け。
ハートを鷲づかみされた。

この豊かな老後の理想!!
「私にとっての豊かな老後とは、子供に迷惑かけずに生きることです。」
さらに、大きな文字で、
「人生を、満開に。」となっている。
唸りました、名コピー。

少し前なら、姥捨山に捨てる気かぁ〜〜!と鬼の形相で叫ばれるところだ。
(はい、わたし、母に叫ばれました)
時代は変わるものだ。
母がシニア施設に入ってもう6年になるか?
そんな日もあったのね、あったのかしらん?
ん?なかったかも?
ぐらい、遠い日に思える。
もちろん、母と同じぐらいの年齢の老親御さんと同居しておられる方々もおられる。
三世代同居だったりする。
たまたま知り合いに、パターンがそっくりの家族構成の人がいる。
娘さんが2人いて、2人とも独身。両親と、おばあちゃんと同居。
おばあちゃんにとって、お嫁さん、または娘さん、頭が下がる。
わたしたち姉妹も母の世話を通いで交代で短期間したが、ネを上げた。
近くに住む、血が繋がらない遠縁にあたる元従業員女性も手助けしてくれたが、母が少し認知症が出てき始めていたせいもあり、お金の管理にどうも信頼がおけず、我々姉妹2人だけで母を見た。
通うにもわたしは片道2時間半かかることもあり、週に何回もはきつかった。
泊まり込むなり、引き取るなり、選択肢はあったが、姉と相談して、まだ、意識がしっかりしているうちに、老人ホームに入ってもらうことにした。
本人は納得したものの、約束の入所日には抵抗した。
ここ(自宅)からの美しい眺望ももうこれで見納めか、、、と、感傷に耽って嫌がるのを、さあ、時間だから、と急かすようにすると、母の口から姥捨山発言が出た。
わたしとしては、無理矢理家から引き離すような、そんな気持ちだった。
かといって、母を引き取れない、引き取らない。
母にとって豊かな老後は、いつまでも自宅で自立して過ごすことであり、皆さん誰しもがそうだろう。
一世代下のわたしでさえ、そう。
できる限り自宅で過ごしたい。

癌など末期の患者さんを最期の日々を病院ではなく自宅で過ごしたいという希望を叶えてくれる、緩和ケアをしてくれるドクターの活動をTVで紹介されていた。
母は身体は病気ではないが、自立生活ができなくなったことは事実だ。
認知症も病気だとすると、老いや病気と向き合いながら、共に生きていかなければならない。
だが、自立できる、できないの、線引きをどこでするかが重要なキーポイントとなる。
自分による判断と、客観的判断は違う。
まだまだ元気なのに、収監されるかのごとく、老人ホームに入れられるとなると、姥捨山発言も出るだろう。
自ら、姥捨山に出向く人は少ないと思う。
しかも、荷物は少なく最小限。それは、優等生。

お高いホームだと、長生きしすぎると、費用を払えなくなる。
想定内期間中にあの世に行かないと、その後、どうする???
皆さん、どうされているのだろう。
入るは良いが、出られないのではなく、入り続けられない。
かなり余裕の資金を用意しなければならない。
人生100年、105歳、108歳まで生きたら、老人ホームの費用が100歳までしか用意してなかったら、、、?
長生きすることを考えて、資金力に見合った所に入らなければならない。
老人ホーム運営会社が倒産することもありえる。
子供に、もろに迷惑をかけることになる。
理想はあくまでも理想で、そう心がけていれば、きっと積み重ねが良い展開を招くかも知れない。
楽観視。

が、生きている間の費用でさえ不安があるのに、意識が曖昧の状態期間の分の費用まで用意できるのか?
なるようになる、と、子供に頼る?
子供がいない人は?

人生を、満開に、、、、どうやって?
ツッコミを入れていては、広告、宣伝にならない。
不安を煽ってはいけない。
しかし、万が一の、生き続ける自分をどのように設計しているのだろう?

わたしの知人で、親御さんを早く亡くした人は、悲しみに暮れておられる。
親御さんが、延々と健康で生きておられる方は素晴らしい。
経費がかかる所で、延々と生きておられる人は?
入所当時、母は費用のことばかりを気にしていた。払えるのかと。
面会に行っても、こんなところで遊んでいてはいけない、と席を何度も立とうとする。
それも認知症の一種なのだが、認知症は現実を理解しないことだとすると、費用が気になるのは認知症ではないのかも知れない。
お金にはシビア。

まあ豊かな老後、、、理想と現実はギャップもいろいろあるが、ただでさえ老化を受け入れるのはハードなのに、今だけでなく、先々のことをくよくよしていては老人鬱になってしまう。
とりあえず、今日一日は楽しく、明日も楽しく、、、少し右肩下りでも、そこそこそれが続けばいい。

と、無理矢理、着地。
今日も無理矢理感、ありあり。
最近、どうも、納得の結論に辿り着けず、スッキリしない。
何期目かの、もやもやのお年頃か。

※ちなみに、写真は、広告のもの。
わたしは、こんなに美しいグレーヘアではありません。



菩薩か鬼か

2021-09-14 | 老い
いきなりですが、、、
「美女と野獣」の実写版は直近の映画と、もう一つ前の映画は映画館で観た。
「美女と野獣」原作アニメ→実写版映画。
今回、お気に入りの映画「竜とそばかすの姫」も、その「美女と野獣」のモチーフは使われていた。
内容的には、ちょっとリンクする。
「美女と野獣」原作アニメ→アニメ映画。
「美女と野獣」は、映画だけでなく
いろんな舞台やミュージカルにも登場する。

と、まずは関係ないことから。
記事備考として追加したいなあと、気になっていたので。
だからなんやねん!の話でスミマセン。

さて。
先々月、産まれた末孫。
彼女が成人するまで、わたしは生きていられるかしら??
と、ふと思った。
病気や事故、災害に見舞われなければ、まだピンピンしていそうだ。
アタマの中は早々にお花畑かも知れないが。

想像してみた。
その日の自分を。
我が家からも、長女の家からも徒歩2〜3分の老人施設に早々と申し込んでおこうか。
ちなみに、姑が入所できるところを探したとき、ここ、ウチから近くていいなあ!と思ったが、施設側の条件に合わず振り落とされた。
長年ご近所住民のわたしなら、いけるか?

しかし、自宅に戻りたいと言うんだろうなあ。
20年先はまだ母も姑もしっかりしていた頃だから、わたしも自分で好きにしたいことだろう。
だが、自宅に勝手に戻って転倒したり、迷子になって徘徊したり、周りに迷惑をかける可能性もある。
ほんの2〜3分の自宅にも行き来できないかも知れない。
週末には長女一家が顔を見せてくれるかも。
その頃には孫たちは、忙しくて来てくれないだろう。
30年後なら、ひょっとして孫たちが曾孫の顔をチラっと見せてくれるかも。
そんな日のわたしのアタマは大丈夫かなあ?
自信はない。
「あなた、誰?」
になっていると想像するが、せめて、わたしはにこやかな笑顔であってほしい。
わけがわからないなりに、ニコニコしている蝶おばあさんになりたい。

しかし、勝手に自宅に帰ろうとして、鍵をかけられて、鬼のような顔になっていると想像できなくもない。
蝶鬼ばあさん。

まあなんでもいい。
30年後まで、あの老人施設が経営破綻していないことを祈る。


弱者の訴え

2021-07-07 | 老い
手が取れて、シュールな表情で耐えていたスペイン闘牛士。
夫に手術をお願いしたら、あらまあ綺麗にくっついていた。
ただし、よく見ると人差し指の指先がちょっと欠けている。
落としたと見られるトイレの床をよく見てみたが、さすがに指先らしきものは見つからなかった。

しばらくは、術後スペイン闘牛士、トイレには戻さず、ちびっ子ギャングの迫害を逃れるために、キッチン窓際に避難させた。
何かしら気のせいか、スペイン闘牛士の顔に安堵の色がうかがえる?(これを「主観」と言います)

ちなみに夫は、
「こんな小さな手だったら、落とした本人も手が取れたことに気づかなかったんじゃないか?」と言っていた。
この人は、優しい。
難点は、自分にも優しいことだ。
あ、これ、わたしも。
どうなるんだろう、こんな優しさコンビ。
別名、だれだれダラダラ・コンビ。
夫唱婦随なんだか、負傷付随、不詳付随なんだか、わからないが。

兎にも角にも、スペイン闘牛士には落ち着いてもらい、、、。

さて、去年、今年は、激動の年だった。
世界的には未曾有のパンデミック。
世界と対極にある、ミニマム・コミュニティである家庭では、、、。
1人死去、2人誕生。プラマイ合計1人、人口が増えた。
年齢的には歳の順。
1人のお年寄りを2人の若者で支える構図、今や、もっと多くのお年寄りか。
上から順番にトコロテン方式に順送り。
次はわたしが送られる順番。

送られるまでに、子育ての手助けをしないといけない。
若い人の世話になる前に、若い人を世話せにゃあ。
姑は末孫誕生時は、今のわたしより10歳若い時で、舅は5歳若かった。
だから元気。まだ現役バリバリ。なんといっても戦中派バイタリティの持ち主だし。
その点わたしは、よれよれ。
すっかりアゴを出している。

しかし、年寄り色を最大限にアピールして、あまり無理は出来ないことを息切らせながら訴えている。
実際には身体よりアタマが相当心配、不安なのだが。
身体はどうにかなるが、アタマはどうにもならない。
声を大にしてアピールしなくても、毎日、なにかしらヘマをしている(LINEでのやり取りを聞き漏らしたり、指示されたことを間違えて勘違いしたり)。
アピールする手間が要らないが、著しい脳劣化ダダ漏れもキツイ。

わたしの将来は絶対に身体はピンピンして、アタマが楽園だと想像する。
状況やヘマを認知していないため、きっと嘆いていない。
それはそれで、楽しい老後だろう。
(ただし、家族は楽しくない)



なんでも先輩はエライのだ

2021-06-29 | 老い
わたしも今より若い頃があった。
今みたいに、日々、何枚もハンカチを失くすなんてこともなかった。
(どこに行ってしまったんだろう、、、わたしのハンカチ、、、)

老化はずしりと自覚を伴ってやってくる。

夫。
子供の時から頭脳明晰、秀才。
そして、まだ現役ワーカー。
同じく老化の波。
冷蔵庫を開けて、「アレが無い」と慌て、わたしがどこかにやったんだろうと言う。
はあ?
気の毒だ。
あなたも来たのね。
冷蔵庫の前の流し台にさっき自分で取り出して置いているものは何?

しかし、ここで、絶対にバカにはしない。
そんな無神経なわたしではない。
ぼけぼけの大先輩は、新人には超優しい。

大丈夫。
誰にでもあることよ。
あなただけじゃない。
ほんと、よくあることだから。
と、勝ち誇ったような、余裕の笑みを見せる。

めちゃめちゃ賢いクレバーな頭脳の持ち主も、偏差値、地面すれすれ低空飛行の人も、自然の流れには抗えず、大なり小なり似たようなもの。
しかし、飛び抜け優れた分野だと、ショックも大きいだろう。
バレリーナが足を失くすかのごとく。
(そんなプロのバレリーナがいたが、見事に復活していた。
すごい精神力の強さ)
得意分野だけに、きっと悔しいだろうけれど。
が、だんだん、平均値に近づいているだけ。(上層の人も下層の人も)

わたしなんか、元々、天然だから、どんなヘンなことを言ったり、したりしても、またいつものこと、と周りに気づいてもらえない。
最近は、わたしはわかっているのに、わざわざ説明してくれたり確認されたりするのが、ちょっと、むっとする、、、(生意気にも)。
客観的に見て、そんな風に見えるし、そんな風なヘンなことをしているのだろう。
ムカつく前に自覚しなければ。

しかし、すんなり認めると脳がそれでいい、と判断して、ぼけぼけはどんどん進行するのでは?
ほっておくと易きに流れるところを叱咤激励、喝を入れて脳に頑張らさせなければ。
が、わたしは自分にも優しいのでじゃんじゃんダメな脳を受け入れて堕落していく。 
上野千鶴子さんに、辛辣なハッパがけで蹴っ飛ばしてもらわないと。

とまあ、自分の売りではない、むしろ苦手分野が益々衰えて行く。
頭脳が売りの人は、バカになった自分を受け入れられないことだろう。
うんとプラスからマイナスへ。奈落の底感。落下イメージ。
わたしは、マイナスからそのままマイナスへ。横滑り感。時系列に従ってスライド。

自分のアホ歴は生まれた時から今日に至る。
周りがちらほら、こちらのアホ分野に入ってくるのだが、入ってきてほしくない。
定員オーバー。
わたしは今日や昨日からの新米アホではないので、ベテランは力強い。
というか、ベテランだけにアホに磨きがかかっていて自分でも恐ろしい。

が、若い頃の天然のアホと、シニアになって本気のアホでは、自分の受け取り方が違う。
天然お気楽でもやはり新しい老化によるアホ出現は不安だ。
天然は許すが、「本気出してるのにアホ」は、余裕や笑いがない。

まあアホは元々なので、初めて自分のアホと対応、対峙する人よりは、ちょっと知識がある。
抗体もある。
アホのキャリアは積んでいる。

なので、先輩アホとしては、後輩アホが続々と出てくる事態を見て、新米アホはさぞや自分に失望していることだろうと思い遣る。
それに比べると、早くからアホもまんざら悪くないなあと思う次第である。
これからアホになっていく方々は、覚悟してください。

アホアホと何回もうるさい、、、今回の記事でした。

可愛げがない、、、

2021-06-18 | 老い
何もしない生活が大好きなわたしだが、そういうわけにもいかない。
最低限度のことはする。
ぼーーーっとFMラジオを聴きながらコーヒーを飲んでいたら一日はあっという間に過ぎる。
通路にはみ出した枝切りや草抜き、掃除なんか朝には終わってしまうので、時間はたっぷり。
日常着の繕い、チマチマお裁縫をチクチクしたり、スマホであれこれ設定したりすると、時間はどんどん進んでいく。

特に今、難儀なのは、とある既存クレジットカードを「本人認証」してWEB登録したいのだが、なかなか出来ない。
利用上限枠を上げたいため。
電子マネーを出かけたお店で使う際、セキュリティを強めるために必要なのだが、インターネットでカード会社側の窓口から入って行こうとすると、アウト。
必要事項を入力した後、実行ボタンを押すと、「登録できません」と冷徹な反応。
何かが間違っているのだろう。
電話をかけて生対応してもらって聞けばいいのだが、億劫。
別の違うクレジットカードにしようか、と思ったが、やめた。
気が進まない。
本人確認できていないままのカードでは使用可能上限額が低いのだが、低くてもそれで我慢しようか、と、いたって消極的。
ぜひとも必要性が迫っていないので、なんでもうまくいかないと、とりあえず保留にして、また後日、出直す。
なかなか出来ないで、延々と取り組んでいると、娘に呆れられた。
ずーーーっと、それ、やってるなあ、、、と。
アタマが岩石のようにカチカチなんだろう。
溶解しない。
それでも、時間はかなりかかるが、どうにかやがて自分がやりたいことが出来るようになる、、、はず。

ちなみに、携帯電話に電話がかかってきた。
だが、知らない番号には出ない。
携帯電話機種を変え、契約も変えたので、留守番電話機能はなくなったかも知れない。
そこで今、調べてみたところ、留守番電話は有償のオプションのため、再契約しない限り、付いてないようだ。
かつては母から留守電がよく入っていたが、再契約するべきか、、、。
しかし、よくよく考えると、今年、母の携帯電話はわたしが解約したのだった。
忘れていた、、、。
電話がかかってくるわけがない。
じゃあ、もう留守番電話は無しにしよう。
用事のある人はメッセージかなにかに入れてもらおう。
こちらで名前を電話帳に登録すれば、誰からの電話か即わかるわけで、名無しの権兵衛からの電話は無視しよう。

それにしても、通信機器、スマホ設定は超超超面倒くさくて、大嫌いだ。最たる苦手。
もともとアホなところに、老化の波が押し寄せ、アタマカチカチ石頭になっている。
スマホを最新のものに変えるのは、わたしには豚に真珠だ。
まあよい。
頭痛を抱えながら、スマホと格闘する。
やはり、わたしは好き勝手に好きなことをブログを書くのが一番の癒し、至福の時だ。

最近、わたしはスーパーやショップの買い物で、続けてボケっぷりを実感して落ち込んでいる。
クレジットカードの使い方が、スーパーのレジの機種によって違うため、それぞれに対応しなければならない。
Aスーパーは、クレジットカードを差し込むと「早く抜け」と指示されるので、注意されるまでには素早く抜かなければいけない。
自分で差し込み、自分で抜くシステムなので店員さんにカードを手渡すと怪訝な顔をされる。
Bスーパーは店員さんがカード処理をしてくれるため、勝手にカードを引き抜いたりすると、すごく嫌な顔をされる。
もう一度やり直さなければならないため、店員さんは、もろに不快感をぶつけてくる。
AスーパーとBスーパーでは、自分でする、店員さんがする、機械処理が速い、遅い、と逆のパターンなので、ぼんやりして間違ったりすると、明らかに店員さんの機嫌を損ねて、落ち込む。
すみません、すみません、と何度も謝る自分が情けない。

しかし、なんで頭を下げにゃならん?!
わたしはお客さんの上に、認知機能が低下している高齢者なのだ。
こういう時に、強い性格の人なら、開き直ることが出来るんだろうけれど。
よくお店なんかで逆ギレしているおじいさんを見かけるが、ああはなりたくないと強く思うものの、自己弁護、自己擁護もしないと老人鬱になりかねない。

いいのいいの、とボケたふり、
あるいはホントに100%ボケていたら楽なんだろうけれど、何しろ、カウントダウンが始まり近々、新入りの高齢者になるもので、まだ新米なのだ。
ボケも新米。
そのうち、しっかり、どっぷり、何も思わなくなる高齢者枠の大ベテランになるだろうけれど。
どんくさい自分にまだ慣れていない。
社会は高齢者に優しくすべきだ、と憤るあたり、やっぱり背景には自己正当化があるなら、年齢の問題ではなく性格やキャラクター、人格に原因があるようだ。

しかし、わたし、可愛らしいお年寄りになれるだろうか?
ちょっと自信がない。


最後は一人でバイバイ

2021-05-20 | 老い
無駄にタスクを溜め込んで、やりたくないエネルギーをチャージしている。
マイナス方向にパワーを蓄積させると、後は爆発するのみ。
わたしの場合、歳も歳だし、爆発はしんどいなあ、と自分を自分で労わり、少しずつ小分けにして、マイナスパワーを消化しようと思っている。
毎日、とは言わないが、気が向いた時に、マイナスからゼロに向けて、ちょっとずつ、借金を返すかのように動こうとしている兆しを感じる。

ゼロになるのが理想で、ゼロからプラス、負から正にはあまり期待もしていないし、頑張る気もない。
とりあえずは、ぼちぼち動いたほうがいいかなあ、と、胎動を感じているところ。
熊の長い冬眠から一瞬目が覚め、トイレタイムか、おやつタイムか。

常にわたしは、マイナスのところに位置する。
それをさらにマイナスにしないよう、そして、少しでもマイナスを減らすよう、ちょっとだけ頑張る。
それで十分、わたしは仕事を成した気がして、満足して落ち着く。
とことん仕事しない人間である。

かといって、世間の皆様のお荷物にはなっていない。
自分はお荷物になっていると感じる人もいて、助けの手を求めないこともあるようだ。
そういう考えだと、生産性のない人間は生きる価値がない、みたいな極論にも達しかねない。

このコロナ渦、芸術関係の人は、生産性云々の面では随分苦しんだだろう。
第一、活動停止で収入が途絶える。
だが、芸術系はいつもいつも発信するわけではないので、穴に潜り、強制的にエネルギーをチャージする機会になっている。
ただし、売れる場合。
売れる芸術は、もはや芸術ではないのかも知れないが。
売れるということは、商業と(芸術的)才能と時代が一致したということ。
どれが欠けても、成立は難しい。
売れない秀悦なものは、世の中ゴマンとある。
芸術に限らず、実業界でも、一人の超優秀な人が、たった一人だけで全身全霊をかけて作ったものは、商業的には成功しないという説がある。
コラボや運、時代の波は必須ということだ。

と、どうでもよい、自分には全く関係ない話をダラダラ脱線。
平凡な名もない歴史に当然残らない一個人の、わたし。
ほとんどの人がそうであるように。
悪名高き大悪人とかよりは、まあマシだが。

ちなみに、お一人様シリーズを掲げて久しい上野千鶴子さんが、お一人様の一人死のススメを提唱されている。
一人住まいの自宅で老衰で死ぬのが、1番の安楽らしい。
発見されるのは、通いのヘルパーさん。
高齢になると、なんらかの介護側の機関や人材、ケアマネさんやヘルパーさんが関わっているだろうから、誰かが毎日のように顔を出してくれるとすると、孤独死放置数ヶ月、なんてことはないはず。
それ、なんだか、気持ちが楽になる。
娘たちは、お互いの自宅の近所の老人施設をわたしに勧めるが、理想はやはり自宅が良い。
病気になれば、入院先病院へ、
認知症になって独居困難なら、認知症を受け入れてくれる施設へ、そういう場所で一生を終える。
とりあえず自立生活できるなら自宅で、老衰希望。
老衰とはいえ、寝たきり期間があるはずだから、最後の一定期間はどこかにお世話になることになりそうだ。
寝たきりで一人住まいは、ちょっと無理がありそう。
寝たきりだとトイレも行けない。

上野千鶴子さんの理想的お一人様老衰死は、現実的にはまだ詰めなければならない点もありそうだが、とりあえずは行く道に灯を照らしてくれたような感じではある。

元気でまだピンピンしているわたしだが、そしてつい最近、姑を亡くしたばかりだが、さらにまだ老母親が健在だが、先の話は早くからプランしておいても悪くない。
ではあるものの、娘たちが、近所の老人施設に入る案に身を乗り出して賛成するものだから、ちょっと気分を害した。
病児保育と、ばあちゃん食堂で、まだ5〜10年は頑張らないといけないのに。


ちなみに、話はころっと全く変わるが、他ブログを読んでの感想。
モラハラは地獄。
モラハラまたはDVと、優しいフォローの繰り返し(揺り戻しの如く)は、モラハラを断ち切る道をふさぐ。
家庭内だとプライベートでデリケートなので、各人、不干渉という立場を取らざるを得ない。
外から救いの手を差し伸べる機関もあるようなので、勇気をもって相談してみると道が拓けるかも知れない。
親子や夫婦の問題は複雑で、社会から目に見えない。